一
建物の外へ出ると冷気がするりとまとわりつく。冬が近い。
スマートフォンを取り出しタップする。大きなチャームがぶらぶらと揺れる。それにかまわず受信トレイに溜まった会社からの業務連絡に紛れたメールを開いた。眉を顰める。
「倉田さん、お疲れ様です――」
勢いよく背後の扉が開き、この工場の設備主任の中原が出てきた。駐車場へ向かう倉田を追いかけてきて肩を並べ、気遣わしげに覗きこむ。
「あれ、顔色良くないですね。何か悪い知らせだったり?」
中原は丸顔の中年男で同僚も上司も部下も皆家族、といわんばかりに人懐こい。設備納品と試運転のために滞在している倉田もしばらくの間いっしょに働くのだからとずいぶん親しくしてくれる。倉田からすれば少々慣れない距離感覚だ。しかし空気を読む能力にも長けているらしく、うるさくかまってこない。
「いいえ」
倉田はぎこちなく微笑んだ。
「もしかして会社から?」
「ええ、まあ」
間違ってはいない。業務連絡メールはまだ読んでいないが。
「東京からこっち来られて大変ですもんね」
「そんな大変だなんて。――いいところですよ、こちらは」
「それは良かった。それではまた明日」
中原はそれ以上踏み込んでこなかった。
プラントエンジニアの倉田は製造設備を納品するために東京から地方都市Sへやってきた。今日で滞在三日目である。今のところトラブルがない。あまりに順調で気味が悪いほどだ。しかし倉田のプライベートは順調といいがたい。
「だめか……」
宿に戻り改めてスマートフォンを取り出す。二通のメールの短い文面を何度も眺め倉田はため息をついた。二通はそれぞれペット探偵社とシッターからである。
出張の前、倉田の愛猫が行方不明になった。雑種だが小柄ですっきりした姿の美しいサバ白の雌猫で名をゲイルという。ゲイルが姿を消した日の夜、倉田が帰宅するとリビングルームの床に革のチョーカーとカメオのチャームだけが残されていた。チョーカーといっても猫用の首輪で、少々緩めのつくりであったからか留め金がマグネットになっている。高いところから飛び降りるときにチョーカーが引っかかって首が絞まらないように、との配慮であるが今まで外れたことがなかった。子猫の頃に倉田の家にやってきて以来室内飼いだったゲイルが勝手に外へ出たこともまた今までない。
ゲイルのいなくなった部屋は他人の家のようによそよそしかった。それでもまだ初日はそこかしこにゲイルの気配が残っていた。
――いたずらしたかっただけ。
そういいたげにおずおずと顔を出すのではないか、あたたかな体をすりよせてくるのではないか、倉田はそわそわとドアや本棚の影を覗いた。しかしゲイルは戻ってこなかった。日に日に愛猫の気配は薄く遠くなっていく。
会社が手配してくれたこの仮の宿も同じだ。フロントで受け取った鍵で開錠すると部屋はきちんと整えられた他人行儀な空気が満ちている。倉田は部屋を突っ切ってベランダへ出た。宿は高級でないが高台にあり、眺めが良い。残照の名残が消えて星の瞬く空。港や街の灯り、行き交う車のライト。土地柄か、たくさんの観光客の目にさらされ洗練されたのか、この街の夜景は穏やかで美しい。
ゲイルの不在が思いの外こたえている。定時で客先の工場を辞し、風呂と食事をすませてもまだ宵の口だ。ジャケットを羽織り倉田は宿を出た。