森の贈り物
ほとんどボロ屋と呼んでも差し支えの無い粗末な家の中で、俺は1歳になる1人の息子を残して重病に命を落としてしまった妻の顔をじっと見つめていた。
幼馴染だった彼女は元々体も丈夫な方ではなかったのだが、出産で更に体力が落ちてしまったのが命取りになったのだという。
もちろん、普通の暮らしをしていればこんな悲劇などそう起こるものではない。
だがこの深い森に囲まれた小国は、長年他国からの侵略を受け続けたことで疲弊し切っていた。
その上無能な役人達によって国民が負担する税は重くなるばかりで、城下町に住む一般の人々の生活は正に貧窮の限りを極めている。
戦渦の最中にあるが故に俺も何とか城の兵士という職には就くことができているが、公職とは名ばかりの薄給のお陰で家族など養えるはずもなく・・・
妻は日々手に入る僅かな食料を息子に分け与えたが為に、棺に入った今となっても酷く痩せ細っていた。
俺の元に1人残された幼い子供・・・
ロニーという名を付けたその妻の忘れ形見を抱きながら、ただただ途方に暮れてしまう。
極貧とさえ言えるようなこの国には当然のように子供の面倒を見てくれるような施設も数少なく、仮にあったとしても今の俺にはとてもその費用を払うことができないのだ。
まだやっと壁に掴まって立ち上がることを覚えたばかりの息子を、これから一体どうやって育てればいいというのだろうか・・・
そしてそんな深い悩みがやがて仄暗い闇の色に染まっていくのを実感すると、俺は日が暮れるのを待ってからロニーを連れてそっと家を出ていった。
このままこの子を手元に置いていても何れはまた妻のように痩せ細り、やがて栄養失調で苦しみながらゆっくりと命を落としてしまうであろうことは既に目に見えている。
それに悪政を敷き続ける国の連中に頼っても、良い解決策など出てくるはずもない。
ならばいっそ、まだ物心付かぬ内に母親の後を追わせてやる方がずっと慈悲深いというものだろう・・・
俺はそんな悪魔の囁きに耳を傾けたまま、何時の間にか町外れの森の前までやってきてしまっていた。
だが仮にも貧しい生活の中で1年間可愛がって育ててきた実の息子を、自分の手で殺すことなど俺にはとてもできそうにない。
俺にできることはこの子を・・・ロニーを森の奥深くに置き去りにして、その不幸な星の下に生まれてしまった幼子の運命を天に委ねることだけだった。
微かな星明りさえもが届かぬ漆黒の闇の中を、手探りで木々を避けながらひたすらに歩き続ける。
ロニーを背負った背中に感じる小さな寝息と温もりが、底知れぬ罪悪感を胸の内に去来させていた。
俺は、自分の息子を殺そうとしているのだ。
幾ら自分で手を下さないとは言え、こんな深い森の中に1歳の幼子を置き去りにしたら恐らくは朝まで生きていることさえ難しいに違いない。
明け方には氷点下にまで冷え込む森の寒さも、そこらをうろつく腹を空かせた危険な獣達も、何も知らぬまま無防備に眠る子供の命を奪うには十分過ぎる程の脅威なのだから。
やがて30分程も真っ暗闇な森の中を歩き続けると、俺は背負っていた息子を地面に降ろしていた。
恐らくは、ここがロニーの墓場になるのだろう。
本当にこれでいいのだろうか・・・この子を置いてここを離れたら、もう後戻りはできないんだぞ・・・
早鐘のように打ち続ける心臓の鼓動が、荒々しく吐き出される湿った息が、現実という名の扉の奥に引き篭った俺の良心を叩き起こそうと必死に奮闘している。
だがそれでも、深い絶望に染まってしまった俺の心が変わることはついに無かったらしかった。
そして静かに眠っている息子の額にそっと最後の口付けをすると、胸を引き裂かれるような思いを味わいながら急いでその場を後にする。
済まない・・・許してくれ・・・
脳裏に過ぎる幾つもの謝罪の言葉が、許されざる大罪を犯してしまった己の心を執拗に責め苛んでいく。
だが可愛い息子への未練を断ち切るように必死に走って家まで帰り着くと、俺は到底受け止め切れなかった後悔と自責の念に妻の棺に縋ったまま生まれて初めて大声を上げて咽び泣いていた。
「ん・・・うん・・・」
丁度同じ頃、しんとした静寂に沈んだ森の奥深くに佇む洞窟の中で今年で6歳になる1人の幼い少年がふと浅い眠りから目を覚ましていた。
そしてたくさんの兄弟達が眠る粗い藁敷の寝床からそっと抜け出すと、漆黒の闇の中を手探りで歩きながら洞窟の入口の方に向かってよろよろと歩いていく。
「・・・どうかしたのか・・・?」
「うん・・・おしっこ・・・」
突如として耳に届いてきた空気を震わせるような野太い声にも驚くことなくそう返事を返した少年は、そのまま微かに聞こえる風の音を頼りに何も見えない真っ暗闇の中をなおも進んでいった。
だが時折地面から覗く岩の突起やゴツゴツした岩壁にぶつかりそうになる危なっかしい少年の様子に、ワシはふと一計を案じると洞窟の天井に向かって小さいながらも明るい炎を噴き上げてやった。
その煌々と燃え上がる炎に照らされて外へと続く道筋が浮かび上がると、少年が嬉しげにこちらを振り向いて感謝の声を上げる。
「ありがとう、お父さん!」
「いいから、早く行くのだ。くれぐれも住み処の中では漏らすでないぞ」
「うん!」
そしていよいよ尿意を我慢するのが辛くなってきたのか懸命に外に走っていった少年の後姿を見送ると、ワシは再び静かになった洞内の様子に思わずふうっと大きな溜息を吐いていた。
お父さんのお陰で何とか入り組んだ洞窟を抜け出すと、僕は近場にある大きな木の根元でようやく用を足すことができていた。
お父さんも普段は優しいとは言え流石に寝床の上や洞窟の中で粗相をした時には怒られるから、夜中に催した時は割と必死に外に走っていくのが僕達の中での決まり事になっている。
だが用事を済ませて洞窟に戻ろうとしたその時、僕は何だかすぐ近くから誰かの泣き声のようなものが聞こえてきているのに気が付いていた。
木々の間を吹き抜ける風の音で途切れ途切れにしか聞こえないが、どうやら人間の子供の泣き声らしい。
とは言え夜の森は危険だから勝手にうろつくなときつく教えられているだけに、僕は泣き声の正体が気になりながらも取り敢えず一旦洞窟に戻ることにした。
「お父さん!お父さん!」
「んん・・・どうしたのだ?夜中に大声を上げるでない。他の子供達が起きてしまうではないか」
「洞窟の近くで泣き声が聞こえるんだ。人間の子供の声だよ」
ワシはその言葉を聞くと、夢現だった意識を覚醒させていた。
「何・・・?」
人間の子供・・・こんな夜中に、またしても捨て子が出たというのだろうか・・・?
「分かった・・・ワシが様子を見てこよう。お前はもう寝るのだぞ」
「う、うん・・・」
それから間も無くして少年が兄弟達と並んで元の寝床にそっと横たわったことを見届けると、ワシはできるだけ音を立てぬように重い腰を持ち上げていた。
そして忍び足で洞窟の外に出てから耳を澄ましてみると、確かに連なった木々の向こう側からまだ幼い子供の泣き声のようなものが聞こえてくる。
その声に導かれるようにして少しばかり闇の中を歩いていくと、やがてワシの目に毛布に包まれたまま土の地面の上に放置されて泣いている子供の姿が飛び込んできていた。
「むぅ・・・やはり捨て子か・・・不憫なものだな・・・」
不快そうに毛布を押し退けながらも言葉はまだ話せそうにないところを見る限り、恐らくは立ち上がることを覚えたばかりの1歳前後の子供なのだろう。
既に住み処の洞窟の中にはワシが森で拾った捨て子が6人もいるだけにこれ以上新たな捨て子を抱えるのは流石に考え物なのだが、そうかといってこのまま見殺しにするわけにもいかぬだろう。
やがてしばらく迷った末に泣き喚くその子供を大きな手でそっと抱き上げると、ワシは周囲に他の生き物の気配が無いことを確かめてから住み処の洞窟へ帰るべく踵を返していた。
数人の幼子達の寝息だけが周囲に響く、広い住み処の洞窟。
ワシは外から連れ帰った人間の子供を1列に並んで眠っている6人の子供達の隣にそっと横たえると、まだ言葉も分からぬであろう新たな住人の耳元にそっと小さな歓迎の言葉を囁いてやった。
「そら・・・彼らが、お前の新しい兄弟達だぞ・・・」
「ん・・・」
そしてそんな寝言のような微かな返事を聞き届けると、元のように自分の寝床の上へとそっと蹲る。
全身を覆った鋼の如き硬い赤鱗に2本の雄々しい双角、そして鋭利な爪牙と空を翔ける巨大な翼・・・
それが、森に捨てられた憐れな人間の子供達を養うドラゴンとしてのワシの姿だった。
この森に生まれ落ちてから数百年間という永い月日が流れ、遥か昔には森に棲む巨大な火竜として人間達に恐れられていたワシが今では何の因果か親に捨てられた子供達の里親となっている。
広い寝床の上で眠っている子供達は全て、物心付く前に住み処の近くに捨て置かれていた子供達なのだ。
それ故に彼らも本来の親に捨てられたという悲しみを感じずにこのワシを父親と慕ってくれているが、森の傍にある人間の国の様子を見る限りは恐らくこの何十倍もの子供達が森に捨てられているのだろう。
ワシに拾われて命を繋ぎ止められたこの子供達は、そういう意味ではまだ幸せな方なのかも知れない。
尤も、ワシが彼らにしてやれることは人間の言葉と森での生き方を教えることくらいなのだが・・・
初めて森の中で人間の捨て子を見つけた数年前のあの日、ワシはまだ2歳にも満たぬであろうその幼子の不憫さに大きな衝撃を受けたものだった。
まだ自分が捨てられたことにさえ気が付いていないのか、大木の根元に寄り掛かったまま2度と現れぬであろう両親の訪れをじっと待ち続けていた幼子の純真さ・・・
年老いてからは極力人間と関わりを持たぬようにしていたワシがその子供を拾って帰ろうと思ったのは、自身の境遇に何の疑いも無く命を落としてしまうのであろう幼子が余りにも不憫だったからだ。
そしてようやく幾つかの言葉を覚え始めたその子に初めて"お父さん"と呼ばれた時から、ワシは森で捨て子を見つける度に住み処へと連れ帰って育てることを心に決めたのだった。
その翌日・・・
「お早う!」
「お早うお父さん!」
何時ものように子供達から投げ掛けられた明るい朝の挨拶に、ワシは静かに目を覚ましていた。
「あれ?この子は?」
だが新たに増えていた7人目の子供の姿に気付いたのか、そんな快活な声がすぐに疑問の色を滲ませる。
「ああ・・・その子は、昨夜森で見つけたのだ。お前達の新しい弟だからな・・・仲良くするのだぞ」
「はい!」
「はーい!」
宛ら孤児院の様相を呈し始めている賑やかな住み処の中で、ワシは楽しげにはしゃいでいる子供達の様子を見ながらほんの少しだけ顔を綻ばせていた。
彼らにしてみても、新しい仲間が増えることは喜ばしいことなのだろう。
実の両親に捨てられるという子供としては最悪の憂き目に遭いながらも彼らが希望を持ってこの厳しい現実を生きていられるのは、自分と同じ境遇の仲間が傍にいるという連帯感があるが故なのだ。
「では、ワシはそろそろ狩りに行ってくるぞ。その子の世話は任せたからな」
「うん、大丈夫!」
兄弟達の中で最年長の8歳の少年が、ワシの声にすぐさま明快な返事を返してくる。
これまで何度もワシが拾ってきた子供を育てているだけに、もう幼児の世話にも慣れたのだろう。
「あ、でもその前に火を起こしていってよ。今日は寒いでしょ?この子が凍えちゃうよ」
「む・・・それもそうだな」
ワシはそんな少年の的確な指摘に僅かばかりの感心を抱くと、予め寝床の傍に作ってあった大きな薪床に炎を吐き掛けていた。
そして大きな焚き火が薄暗い洞内をほんのりと照らし出すと、いよいよ狩りに出掛けようと外に向かって歩き始める。
「ありがとう!それじゃあ、一杯獲物を獲ってきてね」
「今日は猪がいいなぁ」
「僕は鹿の丸焼きが食べたい!」
やがてそんな子供達の希望を背に浴びながら、ワシは微かな苦笑いを浮かべて洞窟を後にしていた。
それから4年後・・・
俺は相変わらず城の兵士として国を護りながら、何とか細々とした暮らしを続けることができていた。
兵士として城で働いている間は衣食住に困らないことだけが、俺にとっての唯一の救いだったと言ってもいいだろう。
今も眠りに就けば4年前に森の奥深くに捨ててきたロニーの最後の寝顔が夢に現れ、俺は時が経つに連れて薄らぐどころか日に日に増していく激しい後悔の念に身悶える毎日を送っていた。
とは言え、あれから今日まで続いている極貧の生活を考えれば仮にロニーを捨ててこなかったとしてもきっと俺にはあの子を無事に育てることはできなかったに違いない。
貧しいながらも幸せな生活を支えていた妻を失ってしまったあの時から、俺の人生は遥かな急坂を奈落の底に向かって転げ落ち始めてしまったのだった。
「お父さん!今日はエーテスが初めて野兎を捕まえたんだよ!」
「ほう?」
「へへへ・・・投げた石ころがたまたま当たっただけだよ」
ワシは夕方になってから楽しげに住み処へと帰ってきた子供達の会話に耳を傾けながら、初めて狩り出した獲物の兎を自慢げに抱えている1番若い少年へと顔を向けていた。
4年前に住み処の近くで拾ったあの子供・・・
竜の言葉で7を意味する名を付けた5歳の少年が、手にした兎をワシの前に差し出してくる。
「これ、今日の僕の夕食にする!」
「フフフ・・・いいとも。どれ、ワシが焼いてやろう」
ワシはエーテスからその小さな兎を受け取ると、爪の先で摘み上げたまま真っ赤な炎を吐き掛けていた。
その途端ジュウウッという音とともに肉の焼ける香ばしい香りが辺りに立ち込め、存分に森の中を遊び回って空腹の唸りを上げていた他の子供達の鼻を悩ましく擽っていく。
「わあっ、美味しそう」
「エーテス、僕にも分けてよ。今日は何も獲れなかったからさ」
自分達で獲った獲物を楽しげに分け合って食べる子供達を眺めながら、ワシは彼らが留守の間に密かに仕留めて背後に隠してあった大きな猪をそっと自らの翼で覆い隠していた。
貧しい国に生まれたが故に実の両親からも捨てられてしまった可哀想な子供達が厳しい野生の世界においても寛容で豊かな心を育んでいく様子に、思わず胸が熱くなってしまう。
だが和気藹々とした子供達の食事の時間が一通りの落ち着きを取り戻すと、不意に8歳のニッコが突然思い付いたようにその口を開いていた。
「そう言えば、お父さんって昔は何をしていたの?」
「む・・・?何故そんなことを訊くのだ?」
「だってここにいる僕達はさ、全員が森に捨てられていたのをお父さんが拾ってくれたんでしょ?」
もう自分達の境遇を十分に理解できる年齢になったからなのか、ニッコが話の内容の割に特に暗い雰囲気を感じさせぬまま先を続ける。
「う、うむ・・・」
「でも1番年上のオヌーが12歳ってことは、捨て子を育て始めたのは10年くらい前からだよね?」
「・・・そうだな・・・お前達も、もうそんなことに興味を持つ歳なのか・・・」
捨て子を育て始めた頃はワシもまだ考えもしていなかったことだが、幾ら幼い子供達とはいえ人間である自分達がドラゴンであるワシに育てられていることに対する疑問は何時か湧いてくるものなのだろう。
「今だからこそ打ち明けるが・・・ワシも、かつては森に迷い込んだ人間を襲っていた時期があるのだ」
「えっ・・・?」
「お父さんが?」
子供達に森での暮らし方を教える過程で、ワシは本来ドラゴンという生き物が多くの場合人間にとって恐ろしい脅威となる存在であることを幾度となく説いていた。
もちろんそれはワシに厳しく叱られた経験のある子供達にはすぐに理解してもらえたのだが、それでも父親代わりであるワシ自身がそうした危険なドラゴンであったことには彼らもさぞや驚いたことだろう。
だがそんなショック以上に初めてワシの過去の話を聞けることに興味が湧いたのか、子供達は全員固唾を飲んでその先が続けられるのをじっと待ち続けていた。
「今ではもう聞かなくなってしまったが、昔は竜を殺すことを目的とする人間達の職業があったのだ」
「どうして?」
「理由は様々だ。角や牙や爪に高価な値打ちがつくこともあれば、名誉の為に竜殺しに挑む者もいた」
巨大なドラゴンと対峙する人間の姿でも想像しているのか、ワシの話を聞いた子供達がそれぞれに目を閉じたまま天井を仰いでいる。
「もちろん、人間に害を為す竜を退治することで報酬を得るという目的も中にはあったことだろう」
「お父さんも、人間の住んでいる町や村を襲ったりしたことがあるの?」
「そこまではしておらんよ。ただ、森の中で見かけた人間を襲ったことは何度かあってな・・・」
ワシの話に子供達が一体どのような反応を示すのだろうかという思いが、やがて不安とともに僅かばかりの興味となってワシの胸中に膨れ上がっていく。
だが特にワシに対してこれといった特別な感情が湧くことはなかったらしく、しばらくすると思い思いの想像に寄り道していた彼らの視線が再びワシの方へと戻ってきていた。
「そのお陰で、森の脅威を除こうとワシの命を狙ってやってくる人間もそれなりにいたものだった」
「でもそれなら、最初から森に入らなければ良いだけの話だよね?」
確かに、当時の社会情勢を知らぬ子供達が聞けばそういう結論に達してしまうのは当然のことだろう。
だが森に囲まれた小国を侵略する為に、他国の兵士達はどうしてもこの森を通過する必要があったのだ。
運悪くワシの糧となった人間達は、そういう止むに止まれぬ事情で森に立ち入った者の方が遥かに多い。
「そうだな。実際、しばらくするとこの国を侵略にきた兵士達以外は森に近寄らなくなったものだ」
「あれ?でもそれじゃあ、まるでお父さんがこの国を他国の侵略から護ってきたようなものじゃないか」
「うむ・・・恐らくはその結論に行き着いたからこそ、ワシの命を狙う人間達が急激に減ったのだろう」
それを聞いて、子供達が心なしかホッとしたような表情を浮かべる。
「そしてそれ以来、ワシは森の中でほとんど人間の姿を見なくなってな・・・それが、十数年前の話だ」
「侵略の兵士達も、もうお父さんの縄張りは侵さないようになったんだろうね」
「だが、人間達の争いは続いていたのだろうな」
そんなワシの言葉に、数人の子供達が疑問の表情を浮かべる。
「どうしてそう思うの?人間にはもうほとんど出遭わなくなったんでしょ?」
「それから更に数年が経つ内に、貧しさで生活に困った人間達が森に自分の子供を捨て始めたからだよ」
お父さんの話に聞き入りながら、僕は何となく緊張で心臓の鼓動が早まっていく感覚を味わっていた。
森に捨てられた大勢の子供達のほとんどが辿ることになったであろう、救いようの無い非情な結末・・・
僕も一歩間違えればその当事者になっていたかもしれないという思いが、ある種の恐怖心となって僕の体を震え上がらせている。
だが自分が今も確かに生きているという現実が、辛うじて僕の中からその恐怖を追い出してくれていた。
「そして10年程前に、ワシは初めてまだ生きている人間の捨て子を森の中で見つけたのだ」
「それが・・・僕なの・・・?」
竜の言葉で1という意味の名を持つ最年長のオヌーが、おずおずとそう声を絞り出していた。
「そう・・・最初にお前を拾ったのは、ほんの気紛れでしかなかった・・・」
流石にその告白には少しばかり傷付いてしまったのか、オヌーがワシに向けていた視線を地面に落とす。
「だがお前に初めて"お父さん"と呼び掛けられたあの時、ワシは奇妙な嬉しさに飛び上がったものだよ」
「じゃあもしオヌーがお父さんのことを呼んでいなかったら、僕達皆お父さんに食べられてたのかな?」
「フフフ・・・そうかも知れぬな。だからお前達も、オヌーには感謝するのだぞ」
ワシはそこまで話すと、もう夜も遅いという理由で子供達を眠りに就かせることにした。
彼らはまだワシの話を聞きたそうにしていたものの、ワシの正体を知った後だからか何時ものような反論の声が珍しく上がらなかったのが逆に少し心苦しく感じられてしまう。
とは言え、だからといってワシのことを嫌いになるような子供達でもないだろう。
その証拠に仲良く並んだ7人の子供達を横目に自分の寝床へと蹲ったワシの耳に、小さいながらも"お休みなさい"という7つの声が確かに届いたのだった。
ある日、兵舎の休憩室で短い休み時間を過ごしていた俺の元に突然1人の仲間の兵士がやってきていた。
その姿を見て、思わず苦い表情を浮かべてしまいそうになるのを辛うじて押さえ付ける。
彼は別段嫌いな奴ではないのだが、中々に噂好きで何処か忙しない性格なだけに今日のように静かに独りで時間を過ごしたい日には余り有難い存在ではない。
とは言えそんな気分じゃないと無碍に追い返すのも少しばかり気の毒に思い、俺は興奮した様子の彼の話に一応耳だけは傾けてやることにした。
「なあ・・・ここ最近、町でおかしな噂が立っているらしいんだが、聞いたことあるか?」
「?・・・どんな噂だ?」
「町の北東の森で、たまに裸で遊んでいる数人の小さい子供達が目撃されるそうなんだ」
裸で遊んでいる子供達だって?
どうせまたくだらない話だと思って余り集中して聞いていたわけではなかっただけに、俺はその言葉の意味を汲み取る為に心の中で何度も繰り返しそう反芻していた。
「それがどうかしたのか?」
「それだけならさして大騒ぎする程のことじゃないんだが・・・彼らが一体何処に住んでいたと思う?」
「何処にって・・・まさか、森の中に住んでるってのか?」
そんな俺の問い掛けに、彼が大きく頷いてみせる。
森の中に、文明から隔離された複数の子供達が住んでいる・・・
この国の情勢を考えれば、彼らの出自は捨て子である可能性がかなり高いと言えるだろう。
だが幼年期を過ぎてから捨てられたのならともかく、まだ乳幼児の内に森に捨てられた子供達が自分達の力だけで厳しい自然を生き延びられるとは考えにくい。
「まあ・・・この国には森に捨てられる子供達が多いからな・・・そういうこともあるんじゃないか?」
「それが、ドラゴンの住み処だったとしてもか?」
「えっ?」
ドラゴンの住み処?一体こいつは、いきなり何を言い出すんだ?
「つい先日、例の子供達を目にした若者の1人が彼らの帰っていく洞窟を見つけたらしいんだが・・・」
「そこが、昔ドラゴンの住み処だった洞窟だっていうのか?」
「違う!今現在もドラゴンがいるんだよ。真っ赤な鱗を纏った巨大な雄竜が、出入りしてるらしいんだ」
そんな馬鹿な。
それじゃあ、そのドラゴンと人間の子供達が同じ洞窟の中で一緒に暮らしているってことじゃないか。
「それは奇妙な話だな・・・まさかドラゴンが人間の子供を育てているってわけでもないだろう」
そう言った途端、まるでその言葉を待っていたかのように彼が口を開く。
「だったら、他に理由なんて1つしか無いんじゃないか?」
「どういう理由だよ?」
ドラゴンと人間が一緒に暮らしていることに、一体どんな理由があるというのだろうか・・・?
だがそんな俺の想像の中に、彼の言葉が全く予期せぬ方向から飛び込んでくる。
「子供達を食う為さ。きっと食いでがあるように少し育ててから、纏めて食っちまうつもりなんだよ」
子供達を食べる為に、ドラゴンが彼らを育てているだって?
だが流石にそれはないだろうという俺の表情を読み取ったのか、彼が更に先を続ける。
「まあ疑うのは分かるけどさ、実際北東の森には数十年前まで人間を襲う大きな雄の火竜がいたんだよ」
「数十年前?じゃあ、今はどうしてその話を聞かないんだ?」
「恐ろしい人食い竜がいるってことで、誰も森に近付かなくなったからさ」
数十年前か・・・北東の森と言えば俺の家から1番近いところだが、人間を襲うドラゴンがいるなんて話は聞いたことが無いからきっと俺が生まれる前の話なのだろう。
「じゃあお前は、その人食い竜が子供達を集めて食おうとしてるって言いたいのか?」
「子供を捨てる為に森に人が入り始めたのは十数年前からだからな・・・今はまだ息を潜めてるのさ」
成る程・・・森に棲むドラゴンのことを知らない若い人間が再び森に出入りするようになったから、ドラゴンが捨て子を狙って目立たないように生きた人間を集めているという可能性は大いに考えられる。
「確かに・・・有り得ない話じゃないな」
「それでその話を大臣に話したら、ドラゴンの討伐隊を出すって言い出したんだよ」
「と、討伐隊?俺達が、そのドラゴンを殺しにいくっていうのか!?」
その予想外の一言に思わず素っ頓狂な声を上げてしまった俺の様子に、彼はただ小さく頷いたのだった。
討伐隊か・・・
俺もこの国の兵士となってからもう早いもので10年近くになるが、これまで戦いらしい戦いは実際のところほとんど経験したことが無い。
他国からの侵略の脅威に晒されているとは言っても、ここ十数年は大勢の敵兵達が乗り込んで来たことはないのだという。
流石にその理由までは俺には分からなかったものの、それでも隣国との不仲が国を衰退させることには変わりが無い。
実際森への捨て子が出始めたのもその頃からだと言うのだから、もしかしたら敵国も下手に攻め入って来るより兵糧攻めにした方が無駄な犠牲も出さずに国を弱らせられることを悟ったのかも知れない。
「それで、その討伐隊とやらの詳細は決まってるのか?」
「明後日には小隊を派遣するそうだ。誰が行くかは未定だが、多分最初は敵情視察というところだろう」
て、敵情視察だって・・・?
相手は炎を吐く巨大な火竜だというのに、それもまた随分と悠長な話だ。
もしそのドラゴンが人間に対して今も敵対的な存在だったとしたなら、姿を見られた途端に襲い掛かってくる可能性だって十分にあり得ることだろう。
しかもこれまでの経験上、そういった任務の多くは俺のような中堅の兵士が受け持つことが多かった。
まだどうなるかは分からないが、そんな恐ろしい人食い竜になど出来ればお目に掛かりたくはない。
「まあそう心配するなよ。何も、いきなりドラゴンを殺してこいって言うわけじゃないんだから」
「そ、そうかも知れないけど、俺は流石にドラゴンなんかとは戦えないぞ」
「いざとなったら逃げるさ。それに、俺も候補に入ってるんだからお前だけ深刻そうな顔をするなよ」
確かに、まだ何も決まってない内からドラゴンと戦うことを考える必要は無いだろう。
それに件のドラゴンが本当に後々食い殺すつもりで人間の子供達を養っているのかどうかさえ、今の時点では全くの推測の域を出ていないのだ。
「そ、そうだな・・・取り敢えず、心の片隅にだけは留めておくよ」
そしてそんな俺の返事に満足したのか、彼はあっという間に終わってしまった束の間の休み時間を惜しむように再び仕事へと戻っていった。
数日後・・・
「む・・・また外へ遊びに行くのか?」
各々それなりに年齢差があるにもかかわらずまるで本当の兄弟であるかのように仲良く洞窟を出て行こうとしていた7人の子供達の背中に、ワシは慌ててそう声を掛けていた。
「うん。どうして?」
「近頃、森の中で他の人間の気配を感じるのだ。一応、用心だけはしておくに越したことは無い」
それを聞いてワシの言わんとしていたことが何とか伝わったのか、子供達が皆一様に大きく頷く。
「心配しなくても大丈夫だよ。何かあったらすぐに逃げてくるからさ」
「うむ・・・ならば良い。暗くなる前に帰ってくるのだぞ」
「はーい!」
やがて子供達が外に消えていったのを見送ると、ワシは一時中断されてしまった昼寝に戻ることにした。
だが昼間に森の中で人間の存在を感じたことなど少なくともここ10年以上は無かっただけに、突然の環境の変化に妙な不安が沸き上がってきてしまう。
ただの杞憂であればよいのだが・・・
そしてそんなもやもやとした晴れぬ霧のような不安を胸に抱えたまま、静かに流れる安息の時間がワシの意識を深い眠りの世界へと誘っていった。
「くそ・・・ついてないな・・・」
5人程の仲間の兵士達と昼下がりの森の中を歩きながら、俺は小さな溜息とともに小声でそう呟いていた。
案の定俺がドラゴン討伐隊の第一部隊に任命されてしまったということもそうだったが、俺に例の噂話を持ってきた肝心のあの男が今回の人員から外れているというのがまた憎たらしい。
まあ予めある程度心の準備が出来ていたお陰で、依然として重い足取りを続けている周囲の仲間達程には目に見えた動揺を晒さずに済んだことだけが今の俺の唯一の心の救いだった。
実際俺達に与えられた任務は敵情視察とは名ばかりで、ドラゴンの住み処の正確な場所や状況を調べて本隊に報告することの他に可能なようであればすぐにドラゴンを殺せという命令が含まれている。
もちろん俺としては本当にヤバくなったら何時でも逃げ出すつもりでいるのだが、俊敏な森の獣達を主食にしているドラゴンから人間が簡単に逃げ切れるとは到底考えにくい。
それに言うまでもなく正面から戦って勝てるような相手でもないだけに、森の中を歩く6人の兵士達は討伐隊というよりは宛らドラゴンに捧げられる生け贄の集団に等しかった。
「お、おい・・・本当に、この森にドラゴンがいるのか?」
「さあな。でも実際に見た奴がいるっていうんだから、多分いるんだろうよ」
「嫌だよ俺・・・ドラゴンとなんて戦いたくねぇよぉ・・・」
周囲から時折聞こえてくるそんな弱気な声に、俺もだんだんと息が苦しくなってくる。
第一、仮に住み処の洞窟を見つけたとしても本当にそこにドラゴンがいるとは限らないだろう。
今だって突然その辺の木の陰から姿を現した巨竜と鉢合わせになってしまう可能性は捨て切れないし、もしかしたらもう既にドラゴンが俺達に襲い掛かる機会をすぐそばで窺っているだけかも知れないのだ。
だが如何に身の危険を感じようともまだ何も起こらない内から逃げ出すわけにもいかず、俺は不安に胸を締め付けられながらもそっと足音を殺したまま薄暗い木々の間を歩き続けていた。
「・・・あ、あったぞ・・・」
それから十数分後・・・
俺は早くも心の折れ掛かっている仲間達の先頭で、不意にピタリと足を止めていた。
密集した木々の奥にぽっかりと口を開けている、漆黒の闇に包まれた大きな深い洞窟。
それを見た仲間達の間に激しい緊張が走ったことを感じながら、しかし俺だけはそれとは全く別のことに思考を奪われていた。
夜だったことと気が動転していたせいで正確には覚えていないのだが、確かこの辺りは4年前に俺がロニーを置き去りにした場所とそれ程離れてはいないはずだ。
だからもしかしたら、ロニーはあの洞窟に棲んでいるドラゴンの犠牲になってしまったのかも知れない。
とは言えまだ言葉も話せない1歳のロニーを森に置き去りにしたのは紛れも無くこの自分なだけに、仮にロニーを襲ったのだとしてもドラゴンに怒りや恨みを向けるのは流石に筋違いというものだろう。
俺は心中に芽生えたそんな不思議な葛藤を懸命に振り切ると、仲間達に無言で合図してから恐る恐る洞窟の様子を窺っていた。
その瞬間深い暗闇の奥の方から、周期の長い寝息が聞こえてくる。
残念ながら例の子供達の気配は何処にも感じられないものの、目的のドラゴンの方はどうやら洞窟の中で眠っているところらしい。
「奴は眠っているようだ。人の姿は無いから、多分中には奴以外にいないだろう」
「眠ってるだって?それは確かか?」
「試しに中も少し覗いてみたが、間違い無く昼寝の真っ最中だよ」
だが俺がそう言うと、つい先程までドラゴンと戦うことにあれだけ難色を示していた仲間達がどういうわけか途端に妙な活気を取り戻していた。
「だったら、とっとと止めを刺しちまおうか。寝込みを襲うなら、俺達にも十分勝機があるだろう」
「確かに・・・それにドラゴンを殺せれば、今の待遇ももっと良くなるだろうしな」
貧しい国に生まれ育ったが故のそんな功名心が、周囲の仲間達に次々と伝染していく。
とは言え、果たしてそう思い通りに事が運ぶのだろうか?
言い伝えが正しいのなら、このドラゴンはずっと昔から人々に恐れられ、そして恨まれてきたのだ。
当然、これまでにだってドラゴンを退治しようと名乗りを上げた人間が幾らかはいたことだろう。
そういった腕に覚えのある猛者達でさえもが退治できなかったドラゴンを、俺達のようなロクに戦の実績も上げられていない2流の兵士達が簡単に倒せるとは思えない。
だがそんな俺の不安をよそに、功を焦った5人の仲間達は我先にと剣を抜いて静かに眠っている巨大なドラゴンの許へと近付いていった。
その数秒後、首尾良くドラゴンを取り囲んだ仲間達が依然として洞窟の入口から中の様子を窺っていた俺の方へと少しばかり非難めいた視線を送ってくる。
俺抜きでドラゴンを殺せば自分達だけの手柄になるというのに、この期に及んでも俺の加担を要求するのはやはり彼らの心の弱さの表れなのだろうか?
しかし俺の方も一旦胸の内に芽生えてしまった不安はどうしても拭い去ることができず、俺は彼らの決行を促すように黙って1度頷くだけに返事を留めることにした。
それを見て、少しばかり呆れ顔を浮かべた彼らが一斉に剣を振り上げる。
そして眠っていた巨大なドラゴンの背中に、腕に、首に、尻尾に、そして頭に、鋭く研ぎ澄まされた5本の鋼鉄の剣が勢い良く振り下ろされた。
ガギギギィン!
だが次の瞬間、幾つも重なり合った甲高い金属質な音がまるで雷鳴の如く洞内に響き渡る。
ドラゴンの上に降り注いだ鋼の刃は余りにも強靭な竜鱗によって悉く撥ね返され、その音と衝撃で深い眠りに就いていたドラゴンがパチリと目を覚ます。
そして渾身の攻撃が失敗に終わったことを彼らが悟った時には、既に全てが終わっていた。
ゴオオオオオオオオオッ!
漆黒の暗闇に沈んでいた洞窟内が一瞬にして激しい紅蓮の業火に押し包まれ、外で様子を窺っていた俺のところにまで高温の熱風が押し寄せてくる。
「うおおっ!?」
だが間一髪で迫りくる熱波から顔をかわすことに成功すると、俺は思わず腰を抜かしてその場に尻餅をついてしまっていた。
轟々と渦を巻く凄まじい炎の勢いで再び洞窟の中を覗き込むことはできなかったものの、燃え盛る洞内から身を引き裂かれるような断末魔の叫び声が幾つも漏れ聞こえてくる。
「う、うわあああああっ!」
しかしそれもものの数秒で何も聞こえなくなってしまうと、俺は余りの恐ろしさに正に脱兎の如くその場から逃げ出していた。
もしドラゴンが俺の後を追って来ていたりしたら・・・
そんな身の竦むような想像に、時々後ろを振り向いてしまいたくなる。
だが実際にそこに怒り狂った巨大な火竜の姿を見てしまったらということにまで意識が及ぶと、俺はドラゴンが見逃してくれることを神に祈りながら必死で森の中を走り続けた。
仲間達の生死は分からないものの、あんな炎に巻かれたのではきっと誰も生きてはいないに違いない。
そして10分程無我夢中で走り続けた末にようやく何とか自分だけは助かったことを確信すると、俺は傍にあった大木の根元に疲れ切った体を凭れ掛からせていた。
「はぁ・・・はぁ・・・」
今にも破裂しそうな程に暴れ狂う心臓を落ち着かせようと、胸に手を当てながら荒い息を吐き出していく。
やはり、悪い予感が当たってしまったのだ。
遥か昔からこの森に棲んでいるドラゴンが寝込みを襲ったくらいで退治できるはずなどないというのに、彼らは功を焦る余り相手の力を読み誤ったのだろう。
いや・・・もし先日あの男からドラゴンの話を聞かされていなかったとしたら、俺も彼らと同じようにドラゴンに向かって剣を振り下ろしていたかも知れない。
だが取り敢えずは命が助かったことにようやく息を落ち着けると、俺はゆっくりと立ち上がって城に帰るべく再び森の中を歩き始めていた。
その日の夕方、俺は兵舎で軽く体を休めてから兵士長へ任務の報告に赴くことにした。
帰って来た直後は俺もまだ流石に恐ろしい体験のショックが抜け切っておらず、順序立てた報告などはとても出来そうになかったからだ。
それに・・・自分だけ無事に帰って来た理由を問い質されるのが怖かったというのも理由の1つだろう。
「何?住み処で眠っていたドラゴンに斬り掛かって、全員が返り討ちに遭ったというのか?」
「は、はい・・・硬い竜鱗に全く剣が通じず、目を覚ましたドラゴンに5人の仲間が焼き殺されました」
「うむむ・・・それで・・・どうしてお前は無事だったのだ?」
やがて俺の報告を聞いた兵士長が、些か腑に落ちないといった表情を浮かべながら痛い質問を口にする。
だがここまで来てしまったら最早隠し立てする理由は無いだろう。
そして覚悟を決めるように1度だけ大きく深呼吸すると、俺は自分だけが助かった理由を正直に兵士長へと打ち明けていた。
「実は・・・俺だけ洞窟の外で様子を窺っていたんです。何だか、嫌な予感がしたので・・・」
「嫌な予感だと?それで、お前はそれを他の連中には伝えなかったのか?」
「自分でも確信があったわけでは・・・それに、彼らは皆功を焦っていました」
それを聞くと、兵士長が少しばかり考え事をするかのように自らの顎へと手を添えていた。
「ふむ・・・まあ経緯はともかく、今となってはお前の判断が正しかったわけだな・・・」
「もちろん、命令に従わなかった罰は受けるつもりです」
「その必要は無い。兵士を失ったのは痛いが、お前だけでも戻ってきたことは収穫には違いないからな」
そう言いながら、彼がジロリと俺の顔を覗き込んでくる。
「だがその代わりに、お前にはもう一働きしてもらうぞ」
「え・・・?」
もう一働きしてもらうだって?
今日だって一歩間違えればあのドラゴンに消し炭にされていたかも知れないというのに、骨の髄にまで火竜の恐怖を植え付けられた俺にこれ以上一体何をしろというのだろうか?
「3日後、今度は戦の経験豊富な精鋭達で討伐隊を結成する。その道案内を、お前に任せたいのだ」
「み、道案内・・・だけですか?」
「そうだ。何も、またお前にドラゴンと戦えと言っているわけじゃない。それくらいならできるだろう?」
成る程・・・確かに、深い森の中にあるドラゴンの洞窟に赴くのならその場所を知っている俺が直接討伐隊を案内する方が遥かに効率が良い。
それに兵士長の言葉から察するに、目の前で5人もの仲間達を焼き殺された俺が見た目以上に大きなショックを受けていることも既に見抜いているのだろう。
「は、はい・・・それくらいなら・・・」
「よし・・・ではそれまで、お前には休暇を与えよう。兵役には出なくていいから、ゆっくり休め」
やがて兵士長は俺にそれだけ言い残すと、3日後の準備をするべく足早に兵舎へと戻っていった。
「ふう・・・このくらいで良いか・・・」
寝ているところを突然襲われたことで思わず反射的に炎を吐き掛けてしまった数人の人間達を洞窟の裏手にある茂みの陰に葬ってくると、ワシはすっかり暮れなずんだ夕日に目を向けていた。
もうすぐ帰って来るであろう子供達には流石にあんな無残な人間の亡骸など見せるわけにはいかぬから、彼らが子供達の出払っている昼間にやってきたことはある意味で不幸中の幸いだったと言って良いだろう。
とは言え、これまで森の中では滅多に姿を見かけることの無かった人間達が突然ワシの洞窟にまでやってきたという事実は、一応子供達にも伝えておくべきだろうか・・・?
よもや人間があの子供達に危害を加えるようなことはまず無いだろうが、ワシの命を狙う者達がいる以上は子供達にもある程度の覚悟はさせておく必要がある。
それは身を護る為にワシが子供達の目の前で他の人間を殺めてしまうかも知れないことはもちろん、人間達の手によってワシが命を落としてしまうかも知れない可能性をも認識させておく為だった。
まあ普通に考えれば、ワシも数人の人間達に突然襲われたくらいで致命傷を負う程柔な体ではない。
だが今日の昼間に襲われた時、ワシは洞窟の外にも別の人間の気配があったことに気が付いていた。
ということは、ワシがこの洞窟に棲んでいることや数人の人間達がワシの手で命を落としたことを知っている人間が今も何処かにいるということになる。
その者達が今度は万端の準備を整えてワシを殺しに来たとしたら、ワシとて無傷でいられる保証は無い。
野生の動物達に比べれば極めて非力で体も比較的小さく寿命もさして長くはない種族だというのに、ワシら竜族にとって人間というものはそれ程の脅威たり得る唯一の存在なのだ。
しかしそんな先々の不安に思案を巡らせている内に子供達が帰って来た気配を感じ取ると、ワシは取り敢えず彼らを迎えようと余計な思考を半ば強制的に脳裏から追い出していた。
「ただいまー」
「あれ?どうしたのお父さん?何だか疲れてるみたいだけど・・・」
「む?いや・・・何でもないのだ」
遊び疲れて帰ってきたはずのエーテスから出会い頭に突然そんな声を掛けられて、ワシは表面上は平静を装いながらも思わず内心ドキリと胸を締め付けられていた。
兄弟以外の人間とさえほとんど会ったことも無いこの5歳の子供に一目で見抜かれてしまう程、ドラゴンであるワシが動揺を表に出していたとでも言うのだろうか?
だがよくよく考えれば普段住み処にいる時は特に何をするでもなく眠っていることの方が多いから、今日は5人もの人間達の亡骸を運んだことで少しばかり息が乱れていただけかも知れない。
「それよりお前達、今日は何処に行っていたのだ?」
「んー・・・ちょっと遠いんだけど森の南の方に小さい泉があってさ、そこに遊びに行ったんだ」
話題を変えるついでに子供達の動向を窺おうと漏らしたそんなワシの質問に、すぐさまニッコが顔を綻ばせながら答えてくれる。
どうやら、子供達の方は特に問題無く楽しく遊んできただけのようだ。
それに遠く南方の森に出掛けていたのであれば、あの兵士達と途中で出会わなかったのも頷ける。
「そうか。体を濡らしたのならよく温まるのだぞ。病に罹ってはつまらぬからな」
ワシはそう言いながら傍にあった薪床に小さな炎を吐き掛けると、ワッと暖かい焚き火に群がった7人の子供達を寝床の上からじっと見守っていた。
近い内に、また人間達がワシを殺す為にやってくるかも知れない・・・
ワシとしては一応子供達にもその可能性を伝えておきたかったのだが、何の不安も無く日々を過ごしている彼らを徒に心配させるのは何とも心苦しいものだった。
物心付いた時から生活のほとんど全てをワシに頼って生きてきたこの子供達にとって、ワシの身に降り掛かる危険や脅威はその何十倍もの危機感となって受け止められることだろう。
この中で1番幼いエーテスにさえ普段との僅かな様子の違いを言い当てられたのだから、それだけ子供達がワシの存在を強く意識しているのだと考える方が自然というものだった。
5人の仲間達とともにドラゴンの洞窟に赴いたあの日から3日後・・・
俺は新たに招集された10人からなる精鋭の兵士達とともに再び深い森に足を踏み入れていた。
ドラゴンの鱗に剣が全く用を成さなかったという俺の報告を聞いて、多くの兵士達が長剣の他に炎を防ぐ為の青銅製の厚い盾と柄の長い大槌を背に担いでいる。
大槌は本来丈夫な鎧や甲冑を着込んだ相手を力任せに叩き潰す為の武器なのだが、恐らくはほとんどの者が強靭な竜鱗で刃の通らないドラゴンにも有効だとの判断を下したのだろう。
俺自身は彼らの道案内役ということで1人だけ普段の兵装に身を包んだまま先頭を歩いているのだが、やはり見通しの利かない森の中を歩くのは激しい不安を伴うものだ。
しかも今回は以前と違って既に恐ろしい火竜の恐怖を植え付けられてしまっているのだから、道端に咲いている小さな花の赤色がチラッと目に入っただけで思わずビクッと身を縮込めてしまう。
周囲の仲間達も流石に精鋭らしくこれから戦うドラゴンという生物の手強さは十分に認識しているものの、そんな俺の過剰とも言える怯えた反応には些か苦笑を浮かべる者も少なからずいたのだった。
それから数十分後・・・
俺は前回と変わったことが無いか慎重に周囲を調べながらようやく例の洞窟の前まで辿り着いていた。
そして恐る恐る洞窟の中の様子を窺ってみると、既に頭から離れない苦い記憶となった大きなドラゴンの長い寝息が外にまで聞こえてきている。
やはり周囲に他の人間の気配は感じられず、中にいるのは以前と同じくあのドラゴンだけのようだった。
「前と同じだ、間違い無く奴は眠ってる。でも覚悟しておいてくれ。もし攻撃が失敗したら・・・」
「分かってるよ。俺達だって、ドラゴンを相手にすることがどういうことかくらい理解してる」
小声でそう言った1人の言葉に、背後にいた残りの仲間達が大きく頷く。
誰もが皆死と隣り合わせの戦場で功績を挙げた者達なだけに、この戦いがどれ程の困難と危険を秘めているのかは直感的に理解しているのだろう。
そうしていよいよ洞窟の中に入っていった彼らの後姿を見送ると、俺は前回と同じように洞窟の入口からドラゴン退治の一部始終をじっと見守ることにしたのだった。
やがて広い寝床の上で眠っているドラゴンの周囲を10人の男達がグルリと取り囲むと、彼らが背に担いだ大きなハンマーを静かに頭上へと振り上げる。
そしてお互いに意思の疎通を図るかのように無言で視線を交わらせた次の瞬間、5人の仲間達がその凶器を力一杯振り下ろしていた。
ズドドドッ!
「グガアアアッ!」
地面の上に投げ出されていた両手足と鼻先の5箇所に強烈な大槌の一撃が叩き付けられ、その突然の痛撃にドラゴンが凄まじい咆哮のような悲鳴を上げながら飛び起きる。
だが咄嗟に炎を吐こうとしたドラゴンの喉元にすかさず別の兵士が振り上げたハンマーが叩き込まれると、息の詰まるような苦しげな呻き声とともに巨竜がもんどりうって地面の上に仰向けに引っ繰り返っていた。
「ガッ・・・ア・・・ウグァッ・・・」
「よし、止めを刺すぞ!」
流石に百戦錬磨の精鋭達だけあって、彼らの連携は見事の一言に尽きるものだった。
如何に大槌と言えども鋼の如き硬い鱗の上からでは致命傷を与えられないから、彼らはまず手足や鼻といった末端を攻撃することでドラゴンに痛手を与えつつ機先を制したのだ。
そして目を覚ましたドラゴンが反撃に転じようとした瞬間、今度は別の者が喉元を叩いて炎を封じる。
更には引っ繰り返って無防備な腹を曝け出したドラゴンに剣を突き立てれば、強大なドラゴン退治はいとも簡単に幕を引くことだろう。
そんな俺の予想通り、彼らは素早く腰に提げた剣を抜くと一斉にそれをドラゴンの腹に振り下ろしていた。
「グアアアアアアアアアァッ・・・!」
「えっ・・・?」
兄さん達と森の中で遊んでいたその時、僕は不意に住み処の洞窟の方から奇妙な叫び声が聞こえて来たことに気付いていた。
他の皆は気が付いていないようだったが、あの空気を震わせるような声はお父さんのものに違いない。
「ねえ!今、お父さんの声が聞こえなかった?」
「えっ?いや・・・何も聞こえなかったぞ?」
「確かに聞こえたんだよ!とにかく、早く戻らないと!」
だが幾ら僕がそう急かしても、実際にお父さんの声が聞こえなかった兄さん達はまだ状況が上手く飲み込めていないようだった。
仕方ない・・・お父さんの身に何があったのかは分からないが、さっきの声は明らかに悲鳴だった。
とにかく僕だけでも、急いで住み処に帰らなくては・・・
僕はそう心に決めると、兄さん達をその場に残したまま森の中を住み処に向かって全力で駆け出していた。
「あ、おい、エーテス!何処に行くんだ!」
「エーテス!」
背後から僕を呼び止める兄さん達の声が幾つも聞こえてくるが、今更足を止めるわけにはいかない。
森に捨てられた僕達にとっては、お父さんだけが生きていく為の支えなのだ。
そしてそんな不安と焦燥に胸を焼かれたまま、僕は息が切れるのも構わずに夕焼けに染まり始めた空の下を必死に走り続けた。
背面を覆う強固な鱗とは異なる、白くて柔らかい皮膜に覆われたドラゴンの大きな腹部。
その唯一の弱点とも言うべき場所に、10本の白刃が深々と突き刺さっていた。
だが激しくのた打ち回る巨体の勢いに打ち負けて十分な力が伝わらなかったのか、どの剣もその分厚い脂肪の奥にある心臓にまでは届かせることができなかったらしい。
とは言えそれでもかなりの深手を負わせられたことは間違い無いらしく、剣を突き刺されたドラゴンの腹からは大量の真っ赤な鮮血が迸っていた。
「くそっ!仕留め損なった」
「気を付けろ、まだ暴れるぞ」
惜しくも不意打ちで一気に止めを刺してしまおうという作戦は失敗してしまったものの、腹から剣を引き抜かれたドラゴンにはもう飛び跳ねたり炎を吐いたりする程の体力は残っていなかったらしい。
その証拠に、何とか尻尾を振り回して体を起こしたドラゴンは憎々しげに兵士達を睨み付けるばかりで自ら兵士達に襲い掛かろうという気配は全くと言って良い程に感じられなかったのだった。
「グ・・・ウグゥ・・・」
青銅製と見える丈夫な盾を構えたまま周囲を油断無く取り囲んでいる大勢の人間達を睨み付けながら、ワシは全身に跳ね回る耐え難い苦痛に小さな呻き声を漏らしていた。
腹に突き立てられた無数の剣は幸い分厚い脂肪に遮られて内臓までは届かなかったようだが、傷口から噴き出す大量の鮮血は如何に竜の高い治癒力を以ってしてもそう簡単に止まるものではない。
それにこの人間達は、数日前にワシの住み処にやってきた者達とは明らかに身のこなしが異なっていた。
その統制の取れた動きを見る限りでも、随分と戦に長けた猛者達なのであろうことは容易に想像が付く。
だが、ワシとしてもこのまま何もせずにやられるわけにはいかぬだろう。
幼くして森に捨てられ家も親も失ったあの憐れな子供達には、このワシだけが生きていく為の支えなのだ。
町に住む人間達に如何な誤解を持たれようとも、あの子供達だけはワシが護ってやらなくては・・・
ワシはそんな覚悟にも似た思いを胸の内に塗り固めると、何とか炎を吐こうと大きく息を吸い込んでいた。
たとえあの盾の前に炎は通じなくとも、少しでも連中を怯ませる事が出来ればまだ活路は残されている。
「ガッ・・・ァ・・・」
だが吸い込んだ息で腹が膨らんだ瞬間に剣を突き刺された傷口が幾つも開き、凄まじい激痛がワシの体から反撃の力を残らず奪い去っていく。
そして苦しげな吐息とともにその場に項垂れたワシの様子を見て好機と受け取ったのか、数人の男達が突然ワシの顔目掛けて手にしていた剣を突き出してきた。
ガッ!ガキッ!
思わず咄嗟に顔を伏せてその刃は硬い鱗で弾き返すことができたものの、このままではまた更なる痛手を被るのは時間の問題というものだろう。
とは言え体を動かそうとする度に怪我が疼くお陰で、ワシは自らの顔に幾許かの悔しさを滲ませながらもひたすらに眼前の人間達を威嚇することしかできなかった。
こうなれば、少しでも傷を癒す為の時間を稼ぐしかない。
「ヌゥ・・・お、お前達は、何故にこのワシの命を奪おうとするのだ?」
「お前が人間の子供達を食う為に育てていると、町で噂になっているからだ」
だがその質問に返ってきた余りにも予想と懸け離れていた返事に、ワシは思わず自分の耳を疑っていた。
「何だと!?」
元はと言えば無責任な親が殺すつもりで自分の子供を森に捨てているのが元凶だと言うのに、こ奴らはそれを棚に上げてワシにその子殺しの責をなすりつけるつもりか!
そんな憤慨がつい表情に表れてしまったのか、周囲を取り囲んでいた人間達が僅かに警戒を強める。
しかし実際に今この場に当の子供達がいない以上、ワシが自身の行動にどんな弁明をしたところでこの者達を本当に納得させることは到底出来ぬに違いない。
それに先程の話が本当ならば、この者達はワシを殺した後にここへ戻ってくるであろうあの子供達を城で引き取る為の用意も既にしてあるのだろう。
激しい貧困に喘ぐ余り可愛い我が子すら手放してしまう者がいる一方で、捨て子を養うだけの余裕がある者が同時に存在しているという矛盾。
この国の情勢や人間の社会についてはそれ程明るいわけではないワシにも、それが怠惰な悪政によってもたらされている1つの不幸の形であることは容易に理解できていた。
「フン・・・成る程な・・・何とも、自分勝手な連中だ」
少しばかり傷が塞がったと見える自身の腹を軽く摩りながら、溜息とともにそんな声が漏れてしまう。
どうやっても和解できない相手ということならば、不本意ながらもこの場でワシか人間達か、どちらかが息絶えるまで互いに殺し合わねば事態は収まらぬのだろう。
彼らも再びワシの眼に殺気が宿ったことに気付いたのか、ピリピリとした緊張感が周囲に流れ始めている。
だが数で勝る人間達にとってこの息の詰まる睨み合いは寧ろ望むところだったらしく、ワシは隙を見せぬように小さく息を殺しながらこれからどうすべきかを静かに考えていた。
正直言って、この腹の傷さえ負っていなければ如何に戦に慣れた人間達が相手だろうと万が一にも戦って負けるようなことは無いだろう。
もちろん怪我の為に激しい動きを封じられた今となってもまだ命の危険を感じる程の危機感は無いのだが、ワシの脳裏にはそのこととは別に人間達と敵対することへのある懸念が生じてしまっていた。
この連中がワシを殺しにやってきた背景には、もちろん彼らの言ったようにワシという存在そのものに対しての疑念や不安といった要因も確かにあるのだろう。
しかし最大の理由は、ワシが先日住み処にやってきたあの人間達を殺めてしまったからなのに違いない。
あの時はワシも一瞬冷静さを失ってついつい軽率な行動に出てしまったものだが、落ち着いて彼らに子供達を育てている理由を伝えればそれで全ては済んだ筈なのだ。
故にもしワシがまたこの場にいる人間達を傷付けたり殺したりしてしまったら、今日は良くても後に更なる刺客が差し向けられるであろうことは想像に難くない。
だがそんな葛藤に頭を悩ませていたその時、人間達の間に僅かな雰囲気の変化が起こっていた。
ずっと距離を取ってワシの出方を窺っていた彼らが盾の代わりに剣や槌を構え、それと同時に明らかな攻撃の意思を含んだ殺気を放ち始めている。
寝ている最中の不意打ちならいざ知らず、まさか正面からの攻撃が通用するとでも思っているのだろうか?
そしてそんな微かな興味を抱いたままじっと彼らの動きを待っていると、やがて正面にいた2人の男達が再びワシの顔目掛けて素早く剣を突き出してきた。
流石に手練の兵士らしく、実に正確で鋭い突きが寸分の狂いも無くワシの眼に向かって迫ってくる。
とは言え、ワシとてそれを素直に食らう程に鈍重なわけではない。
だが鱗で剣を受けるべく眼を閉じて首を捻った次の瞬間、強烈な衝撃がワシの横面に叩き付けられていた。
バギャッ!
「グガッ!?」
ワシが眼を閉じた一瞬の隙を突いて、別の人間が渾身の力を込めた大槌でワシの顔を殴り飛ばしたのだ。
その予想外の一撃に耐え切れず、ワシの体がグラリと大きく傾いでしまう。
「今だ!掛かれっ!」
そしてその機を逃すまいと一斉に襲い掛かってきた人間達の怒涛の勢いに恐れをなして、ワシは咄嗟に両手で頭を抱えるとその場に小さく身を低めていた。
ズガッ!バキッ!ドゴッ!ガスッ!
「グ・・・ウ・・・ウガッ・・・」
最早反撃する意思も体力も尽き掛けた無抵抗のワシを相手に、10人の人間達がこれでもかとばかりに何度も何度も大槌を振り下ろす。
鋼の刃をも撥ね返す強靭な竜鱗の上からでは打撃による怪我などほとんど心配する必要は無いのだが、それでも幾度と無く全身に跳ねる鈍い痛みと衝撃がワシの体力をみるみる内に奪っていった。
ズドッ!ゴスッ!
「カハッ・・・グガッ・・・」
時折鱗を隔てても内臓にまで響くような一撃が背中に打ち込まれる度に、思わず苦悶の声を上げながら顔を顰めてしまう。
それを聞いた人間達も確実にワシが弱っていることに気が付いたのか、宛ら袋叩きの様相を呈し始めた容赦の無い攻撃が更に苛烈さを増していった。
「はあっ・・・はぁっ・・・」
息を切らせながら必死で森の中を走ること十数分・・・
僕はようやく木々の切れ間の向こうに住み処の洞窟を見つけ出すと、その入口で中を覗き込んでいる1人の兵士の姿にただでさえ疲労に暴れていた心臓の鼓動を更にドクンと打ち鳴らしていた。
そして何とか洞窟にまで辿り着くと、僕に気付いたその兵士とともに薄暗い穴倉の中を覗き込んでみる。
そこでは、10人程の兵士達が必死に頭を抱えて蹲るお父さんを寄って集って大きな棍棒のようなものでひらすらに叩きのめしているという信じられない光景が繰り広げられていた。
「ああっ!」
予想通りの・・・いや、予想を遥かに上回る非常事態に、思わずそんな上ずった声が漏れてしまう。
そして傍にいた1人の兵士に視線を向けると、僕はその体に縋るように抱き付いていた。
「お願い!早く止めさせて!お父さんをこれ以上虐めないで!」
不意に森の中から姿を現した5歳くらいの裸の子供が、洞窟の中を覗き込むなり突然俺に向かってそう叫びながら泣き付いて来る。
お父さんだって?それじゃあこの子は、あのドラゴンが育てているという子供達の内の1人なのだろうか?
だがそう思って眼前の少年の顔をまじまじと見つめた次の瞬間、俺は凄まじい衝撃に打ちのめされていた。
ロ、ロニー・・・?
いや、まさか・・・そんなはずは・・・
ロニーは4年前、まだ1歳の時に俺がこの森に捨てたんだぞ・・・この子が・・・ロニーであるはずがない。
しかし必死であのドラゴンの命乞いをする眼前の少年には、確かにロニーの面影が残っていた。
仮にも1歳になるまで懸命に育て、この4年間毎晩のように夢で見たロニーの顔を、俺が見間違えるものか。
だが当の本人は当然俺の顔など覚えているはずもなく、俺は何とも言い難い虚しさに襲われていた。
確かに、俺はロニーを捨てたのだ。
たとえ理由がどうであれ、俺がこの子を殺そうとしたことには違いない。
今更父親を名乗ることなどできるはずがないと心の中では分かっているというのに、俺はドラゴンという人間ですらない仮初めの父親を助けようとする息子の姿に思わず理由の分からぬ涙を零してしまっていた。
「う・・・うぅ・・・ロ、ロニー・・・俺が悪かった・・・」
「え・・・?」
あのドラゴンが子供達を食う為に育てているだって・・・?
まだ言葉さえ話すことのできなかったあのロニーが、ドラゴンの元でこんなにも立派に育っているというのに・・・
それに、この子のドラゴンを助けたいという意志は恐らく本物なのだろう。
真に愛情を掛けて育てなければ、恐ろしい風貌のドラゴンにこんな子供が懐くはずがない。
そしてそんな思いが胸の内に沸き上がって来ると、俺は弾かれたように洞窟の中へと飛び込んでいった。
「おい!もう止めろ!そのドラゴンは、人間に危害を加えるような奴じゃないんだ!」
突如として洞内に響き渡ったそんな俺の声に、地面に蹲る巨竜を袋叩きにしていた仲間達の手が止まる。
「何だって?」
「"そのドラゴンの"子供が戻ってきたんだ。そいつは、本当にただ父親代わりをしているだけなんだよ」
それを背後で聞いていたのか、ロニーがグッタリと倒れ伏したドラゴンの傍に慌てて走り寄っていった。
「お父さん!お父さん!」
そして何の反応も返って来ないドラゴンの大きな顔を揺すりながら、ロニーが大声を張り上げる。
「お父さん!起きて・・・早く・・・目を覚ましてよぉ・・・うわああああん・・・!」
周囲で呆然とその光景を見守っていた他の兵士達もようやく自分達のしてしまった行為の意味を理解したのか、彼らは途端に激しい動揺に見舞われていた。
「おい、これってまさか・・・」
「ああ・・・このドラゴン・・・本当に森に捨てられた子供達を育てていただけなのかも・・・」
やがてそんな極めて気まずい雰囲気の中に、遅れてやってきたと見える数人の子供達が飛び込んでくる。
「エーテス!一体どうしたって・・・ああ、お父さん!」
「お父さん!どうして・・・?何でこんなことに・・・」
ロニーと同じように裸のまま森の中を走り回っていたと見える様々な年齢の6人の子供達が、こっ酷く痛め付けられた父親の無残な姿に驚いてその周りをグルリと取り囲んでいた。
この子達も、きっと物心付く前に森に捨てられてドラゴンに拾われたのだろう。
1番上の子供が11、12歳くらいであることを考えると、少なくとも10年以上はドラゴンが彼らを育てていたことになる。
他の仲間達もその事実に気が付いたのか、彼らの顔には激しい後悔の色が見え始めていた。
「お前ら!どうしてこんなことするんだよ!」
「さっさと出て行けよ!」
「もう2度と来ないで!」
やがて父親を傷付けられたという悲しみが怒りに変わったのか、子供達が口々に兵士達に向かってそんな言葉を投げ掛け始める。
「も、もう帰ろうか・・・」
「そ、そうだな・・・兵士長には、事実を報告するとしよう」
そうして大勢の子供達に追われるようにして洞窟から逃げ出してくると、俺達は何とも後味の悪い思いをしながら城への帰途に就いたのだった。
皆で口々にあらん限りの罵声を浴びせて大勢の兵士達を洞窟から追い出すと、僕は依然として動く気配の無いお父さんの方に視線を向けていた。
先程見た限りではまだ息はあるのだが、どうやら長時間痛め付けられたことで憔悴の余り意識を失ってしまっているらしい。
だが1時間余りもの間全員でお父さんを取り囲んでしばらくその巨体を摩ったり揺すったりしていると、ようやく意識を取り戻したらしいお父さんがゆっくりとその目を見開いていた。
「ウ・・・グ・・・お、お前達・・・?」
まだ体のあちこちが痛むのか、そう言ったお父さんの顔が苦しげに歪められている。
「ああ・・・よかった・・・お父さん・・・」
「お父さん・・・お父さん・・・」
しかしそれでも命に関わる程の大怪我を負っているわけではなさそうな様子に、僕達は一様に安堵の表情を浮かべながらお父さんの大きな胸元に縋り付いていた。
「そうか・・・ワシは・・・お前達に救われたのだな・・・」
ワシを容赦無く打ちのめしていたはずの兵士達が何時の間にか心配そうな顔をした子供達と入れ替わっていたことに、ワシは微塵の疑いも無くそう結論付けていた。
恐らく子供達が来なかったなら、もしかしたらワシの命は無かったのかも知れない。
だが何とか危機は去ったという安心感に緊張させていた体の力を抜くと、周囲に集まった子供達が少しばかり落ち着きを取り戻した様子でワシに心中の疑問を問い掛けていた。
「ねえお父さん・・・どうしてお父さんは、あの人達を追い返さなかったの?」
「そうだよ!幾ら相手が大勢だったからって、お父さんが黙ってやられてるなんておかしいよ」
確かに、事情を知らぬ彼らから見ればワシが人間達にこっ酷く痛め付けられている姿はワシの想像している以上に極めて奇妙な光景として映ったのに違いない。
もちろん寝込みを襲われて反撃の余地が無かったというのも1つの理由ではあるのだが、今後のことを考えれば子供達にもワシが手を出さなかった理由はきちんと説明しておくべきなのだろう。
「そうだな・・・ならば、お前達に訊こう。もしワシがあの人間達を手に掛けたら、どうなると思う?」
「えっ?・・・そ、それは・・・どうなるっていうの?」
「もしワシが彼らを殺めれば、後にもっと大勢の人間達がワシの命を狙ってやってくることになるのだ」
そのワシの言葉に、年長のオヌーや次男のソッドが状況を理解したらしく大きく目を見開く。
「あ・・・」
「人間という生き物は、怒りや恨みといった負の感情を容易に連鎖させてしまうものなのだ」
「じゃあもしかして・・・前にも人間がお父さんを襲ったことがあるの?」
やがてオヌーの口から放たれたその一言に、他の子供達も俄かに緊張の度合いを高めていく。
「うむ・・・ほんの3日前にも、人間達に襲われてな・・・その時は思わず、彼らを殺めてしまったのだ」
3日前か・・・確かその日は、何となくお父さんの様子がおかしかった日だろう。
これまでほとんど感じることの無かったそんな奇妙な違和感に僕も思わずお父さんにその違和感の理由を訊ねてみたものの、今思えば人間達に襲われた事実を僕達に隠そうとしていたのだ。
「だから覚えておくが良い・・・この森で平和に暮らしたいのなら、人間達の恨みを買ってはならぬ」
「でも僕・・・悔しいよ・・・お父さんをあんな酷い目に遭わせてさ・・・」
「何事にも、それを為す理由がある。彼らは、ワシがゆくゆくはお前達を食い殺すものと思っていたのだ」
そんなお父さんの言葉に、兄さん達が激しい驚きとともに更なる憤慨を見せる。
だけど僕だけは、その言葉の裏にある意味を理解することができていた。
あの兵士達がお父さんを人食い竜として殺しに来たのだとしたら、僕達が幾ら止めたところでそれには耳を貸さなかったはずだ。
彼らがお父さんを痛め付けるのを止めたのは、あの洞窟の入口にいた兵士が制止してくれたからだろう。
だとすれば、何故あの兵士は僕の姿を見ただけでお父さんのことを信用してくれたのか・・・
やがてその理由らしきことに思い当たると、僕はじっと考え事をするように洞窟の天井を見上げていた。
「ねえお父さん・・・人間の服って、手に入るかな?」
それから数分の間を挟んで唐突に僕が漏らしたその声に、お父さんが怪訝そうな表情を浮かべながら聞き返してくる。
「人間の服だと・・・?何故そんなことを訊くのだ?」
「うん・・・ちょっと、確かめたいことがあるんだよ。だから、町へ行ってみたくてさ・・・」
長い間森の中で暮らしてきた僕達は全員、当然服など着てはいなかった。
もちろん裸で森の中を走り回ったりすれば、尖った石や鋭い葉っぱ、それにざらついた木の幹などで体に擦り傷や切り傷を負うことも決して少なくはない。
しかしそうした野生の獣に近い生活を長らく続けている内に、怪我や病気に対する免疫や抵抗力が付いてくれたのか僕達が健康を損なったことはほとんど皆無だったと言っても過言ではない。
それに兄弟達全員が同じ格好をしているのだから、全裸で過ごすことにも特に抵抗は感じなかったのだ。
しかし大勢の人間達が住む町へ行くとなると、流石にそうもいかないことは僕にだって理解できる。
「確かめたいことって何だいエーテス?」
「さっきお父さんを殴る兵士達を制止してくれた人が・・・僕の本当のお父さんのような気がするんだ」
「え?」
エーテスが放ったその言葉に、他の子供達がキョトンとした表情を浮かべたまま声を詰まらせる。
「お父さんお願い。僕を町に行かせてよ」
「お前の本当の父親か・・・だが、何故そう思ったのだ?」
「あの人・・・僕の顔を見た途端に突然泣き出したんだ。ロニー・・・俺が悪かった・・・って言ってさ」
成る程・・・もしそれが本当ならば、森に置き去りにして殺してしまったと思っていた息子が今日に至るまで生きていたことで、ワシに対する子殺しの疑念が消え去ったという可能性は十分にある。
それにエーテスが本当の父親との再会を望んでいるのなら、ワシにそれを止める理由は無いだろう。
「ふむ・・・まあ、それは良かろう。ここで少し待っておれ」
「?」
お父さんはそう言うと、少しばかり辛そうに重い腰を上げて洞窟の外へと出て行った。
その数分後、住み処に戻ってきたお父さんが何やら鎧のようなものを幾つか手にしているのが目に入る。
「それは何?」
「先日ワシを襲った人間達が身に着けていた兵装だ。所々、焼け焦げてしまってはいるがな」
そう言われて良く見てみると、確かに金属の他にも煤けた布切れや燃え跡の残る服が中に混ざっている。
「見た目は良くなかろうが、取り敢えずの体裁は保てるだろう。これを身に着けていくと良い」
「うん、ありがとう、お父さん」
僕はそう言ってお父さんの持ってきた服を受け取ると、夜の内に使えそうな物を選別しておくことにした。
その翌日・・・
僕は朝早く目を覚ますと用意していた布切れや鎧の一部を体に巻き付けて出掛ける準備を整えていた。
「それじゃ、行ってくるよ」
「うむ・・・気を付けていくのだぞ、エーテス」
お父さんは他にも何か言いたそうだったものの、敢えてその先にあったらしい言葉を飲み込んでいた。
人間である僕が人間達の町に行ったところで、特に何の問題も無いはずだ。
その上でお父さんに何らかの懸念があるとしたならば、その原因はきっとお父さん自身にあるのだろう。
僕もそんなお父さんの複雑な心情を理解すると、ただ黙って笑顔を浮かべてから洞窟を後にしていた。
晴れ渡った森を町に向かって歩く間、僕はどうやってあの父親らしい兵士を探そうか思案に暮れていた。
恐らく城にまで行けば心当たりのある人間はいるのだろうが、ドラゴンに育てられている僕がドラゴンに殺された兵士達の服を着て城へ行けば何かと面倒な問題が持ち上がらないとも限らない。
恐らくはお父さんも、そういう類のことを心配していたのだろう。
だが結局ロクに考えも纏まらない内に町と森の境界が見えてきてしまうと、僕は意を決してその喧騒の中へと飛び込んでいったのだった。
「くそ・・・参ったな・・・」
城の兵舎に隣接するように建てられている小さな独居房の中で、俺は頑丈な鉄格子の嵌められた小窓から差し込んでくる朝日を浴びながらそう小声で毒づいていた。
だが俺がここへ入れられることになった原因も元を辿れば自業自得であるだけに、こうなったのも仕方が無いというようなある種の諦観にも似た感情が心中に顔を覗かせている。
昨日は城に帰ってくるなり兵士長にドラゴン討伐の顛末を報告したわけだが、その中で俺が4年前に息子であるロニーを森に捨てたということが明るみになってしまったのだった。
当時俺に息子がいたことを知っていた人達には重病で他界した妻とともに息子も亡くなってしまったということにしていたのだが、流石にそれを隠したまま俺の心変わりの理由を説明することはできなかったのだ。
極貧に喘ぐこの国の人々が口減らしの為に我が子を森に捨てるという衝撃的な行為を行っていることは、当然一部の富裕層や城で暮らしたり働いたりしている人間にも既に周知の事実となっている。
しかしそうかと言ってそんな子殺しを国が容認している筈も無く、森に子供を捨てたことが発覚すれば本来であれば到底払えるわけも無い重い罰金と半年以上の禁錮刑に処されると法律に定められている。
それが劣悪な環境の牢獄ではなく比較的住みやすい独居房に1ヶ月程度の収監だけで済んだことを考えればこれも相当な僥倖には違いないのだが、それでも俺の心は依然として深い罪悪感に苛まれ続けていた。
森に捨てたはずのロニーがあのドラゴンに拾われて今まで生きていたことはもちろん素直に喜ばしいことだったのだが、それ故にロニーに対する罪の意識がかつて無い程に膨れ上がったのだ。
だが寂しい独居房の中で4年前のあの日以上の後悔と自責に頭を抱えていたその時、不意に誰かがこちらにやってくる音と気配が俺の耳へと届いてきた。
時刻はそろそろ昼時だし、恐らくは誰かが昼食でも持ってきたのだろう。
そして一向に沸きそうに無い食欲を恨めしく思いながら訪問者の姿が見えるのを待っていると、やがて5歳くらいの小さな子供を伴った1人の兵士が独居房の前へとやってきていた。
「どうかしたのか?」
「あんたに面会人だよ。例の・・・ドラゴンに育てられてるっていう子供の1人だそうだ」
それを聞くと、俺はそれまで兵士の陰に隠れて良く見えなかった子供の顔を鉄格子越しに凝視していた。
「ロ、ロニー・・・?」
「面会時間は5分だ・・・と言いたいところだが、親子の再会なんだろう?好きなだけ話すといい」
そう言ってポンと軽く肩を叩きながら独居房の前の通路から出て行った兵士に感謝の視線を送ると、僕は狭い部屋の中に入れられている自分の本当の父親と真っ直ぐに向き合っていた。
「ロニー・・・どうしてここへ・・・?」
「それが、僕の本当の名前なの?」
お互いにお互いが血の繋がった親子であるということは意識していながらも、4年間という長い空白がその関係を希薄にしてしまっているという奇妙な空しさ。
だが彼の方は僕がその"ロニー"であることに確信を持っているらしく、何処か悲壮な表情を浮かべたままその首がゆっくりと縦に振られる。
「ずっと、後悔していたんだ。お前を森に捨てたあの日からずっと・・・毎晩のようにお前の夢を見たよ」
「僕のお母さんはどうしてるの?」
「病気で亡くなったよ・・・それでお前を育てていくことができなくなって・・・だから・・・」
実際に深い森の中に置き去りにして殺そうとした存在が目の前にいるからなのか、彼は床に視線を落としたまま自らの犯してしまった大きな過ちを心の底から悔やんでいた。
ズタズタに引き裂かれてしまった心を抱えて今にも泣き出しそうな表情を浮かべた憐れな父親の姿に、僕の方も何だか理由の分からない胸の痛みが競り上がってくる。
「お前は、俺を恨んでいるんだろう?お前を殺そうとした俺を罵る為に、ここへ来たんじゃないのか?」
「ううん・・・違うよ。僕は・・・あなたにお礼を言いに来たんだ」
「お礼を・・・?」
流石にその言葉は予想外だったのか、それまで辛そうに俯いていた彼の視線がそっと僕の方に戻ってくる。
そして再び彼と格子越しに見つめ合うと、僕は大きく息を吸ってから静かに感謝の言葉を吐き出していた。
「昨日は、あのドラゴンを助けてくれてありがとう。もしあなたが止めてくれなかったら・・・」
「ああ・・・そんなことか・・・」
そう言いながら、彼が床の上にドサリと座り込んでぼんやりと天井を見上げる。
「あれはただ・・・お前が生きていたから、俺もあのドラゴンのことを信用できただけだよ」
確かに、昨日の件は彼の中ではその程度のことなのだろう。
しかしもしあのままお父さんが袋叩きにされ続けていたらと思うと、僕には彼が兵士達の凶行を止めてくれたことがこの上もなくありがたいことに感じられていた。
「それに、お前は本当に俺のことを恨んでいないのか?俺は・・・お前を殺そうとした張本人なんだぞ?」
「ううん・・・だって僕、あなたが本当は僕を森に捨てたことをとても後悔してたことを知ってるもの」
そんな僕の言葉に、天井に向けられていた彼の視線が僕の方へと戻ってくる。
「その証拠に、4年も会ってないはずなのにすぐに僕が自分の息子だって気付いてくれたでしょ?」
「俺だって最初は目を疑ったさ・・・だけど、愛しい息子の顔だけは忘れるものか」
「僕も、あなたが本当の父親だって気付いた時に凄く嬉しくってさ・・・」
お互いに目を見詰め合っているだけで、眼前の彼が胸の内に大きな罪悪感を抱えているのがまるで自分の心の中を覗き込んでいるかのようにひしひしと伝わってくる。
「だから、僕のことは気に病まないで欲しいんだ。僕はもう、あなたに捨てられたなんて思ってないからさ」
「え・・・?」
「あの優しいドラゴンに拾われて、面倒見のいい兄さん達もたくさんいて・・・僕は今、結構幸せなんだ」
まさか僕の口からそんな言葉が出るとは予想だにしていなかったのか、それを聞いた彼がゴクリという大きな音を立てて息を呑む。
「あなたは僕を捨てたんじゃない。あなたは、僕にあの森での自由な暮らしっていう贈り物をくれたんだよ」
「じゃあお前は・・・俺を・・・こんな俺を、許してくれるのか・・・?」
やがて正に恐る恐ると言った様子で彼の口から漏れ聞こえてきたその言葉に大きく頷いてやると、彼はとうとう堪え切れなくなった大粒の涙をその両目から溢れさせたのだった。
「・・・む・・・?」
深い夜の闇に沈んだ洞窟の中、ワシは寝静まった子供達の静かな寝息とともに住み処に近付いてくる1人の人間の気配を感じ取っていた。
そして周囲の音に聞き耳を立てていたワシの前に、やがて町から戻ってきたエーテスが姿を現す。
「ただいま、お父さん」
「・・・もう良いのか?」
「うん・・・やっぱり、あの人が僕の本当のお父さんだった。元気な僕の姿を見て、泣いて喜んでたよ」
まだ言葉も話せぬ程に幼い時分に捨てられたが故に、物心が付いてから初めて目にした実の父親の姿にエーテス自身はあまり特別な感情を持つことはできなかったのだろう。
しかしそれでも自分が決して両親から愛されずに捨てられたわけではなかったことを知って、多少は心の中に揺らぐものがあったこともまた確からしかった。
「本当の父親が生きているのなら、その者のもとで暮らしてもいいのだぞ?」
「ううん・・・僕は、ここでお父さんと一緒に暮らしたいんだ。だから、あの人にも別れを告げてきたよ」
「では、もう未練は無いのだな?」
暗闇の中から聞こえてきたそんなお父さんの念を押すような声に、僕は実際のところ頷いてしまっても良いものかどうか迷っていた。
もちろん、人間の町での生活に興味や未練があるわけではない。
ただあの人が・・・僕の本当の父親が短い間だけでも僕に注いでくれた確かな愛情を打ち捨ててしまうことに、僕の人間としての心が僅かばかりの抵抗を示していたのだ。
そしてそんな葛藤がやがてある1つの結論に辿り着くと、ゆっくりと肯定の言葉が零れ出していく。
「うん・・・でも僕・・・お父さんに1つだけお願いがあるんだ」
「・・・何だ?」
何処と無く優しげなそのお父さんの声に、僕は恐らくは生まれて初めてのお願い事を呟いていた。
それを聞いて、お父さんが小さな笑い声を上げる。
「フフフ・・・何だ、そんなことか・・・お前がそれを望むのなら、そうするとしよう」
「ありがとう・・・それじゃあ、僕ももう寝るよ。お休みなさい、お父さん」
そしてぐっすりと眠った他の兄さん達の隣に横になりながらそう言うと、急速に夢の世界へと落ちていく僕の意識を微かなお父さんの声が追い掛けてきた。
「ああ・・・ゆっくりと眠るのだぞ・・・ロニー・・・」
完