トラウマの過去
家に帰ると、既に純一郎のお母さんは帰宅しているようだった。
明かりのついたリビングに小さく「ただいま…」と告げると、ガラス窓に人影がうつり、ドアが開く。
「おかえり」
思わず緊張してしまったが、当然あちらは息子相手ということで何の気負いも無い。
「さっきあんたの友達が来たよ。山本君と中島君」
ドアに手をかけた姿勢のまま軽く告げられた。
「…え??」
「なんかあんた今日ずっと体調悪かったんだって??お腹壊したの??」
…お腹…って、――あっ…!
そんなふうに見られていたのかと、今更気付いた。あれだけトイレに篭ってれば当然の発想だ。
実際は用を足してすらいなかったのだけど。
「あんた電話しても繋がらないし、お友達も困ってたみたいよ?真紀に電話したらあんたはもう居なかったけど、とりあえず普通に元気だったって言ってたから、そう伝えたけどさ」
”マキ”というのはたぶん、純一郎のお姉さんのことだろう。
ハッとして、私は鞄から純一郎の携帯を取り出した。
そういえば、誰かから電話がきたら嫌だからって電源切った気がする。それきり忘れてたけど…。
私が取り出した携帯を背後から確認して、純一郎が目を剥く。
『ずっと電源切ってたのか!ひでー!』
「……ご、ごめん」
思わず謝った私の言葉を自分に向けられたものと解釈して、お母さんは「いいけど…」と肩を竦めた。
「大丈夫なの?」
「だ、大丈夫、大丈夫」
慌てて答えると、お母さんはふぅんと呟いて何かを差し出す。
「はい、これ。あんたに渡してって」
A4サイズの紙袋だった。
なんだろう。
受け取って、中身を取り出してみる。
『あ』
純一郎が声を洩らすと同時に、私は光の速さでそれを再び紙袋に戻した。
――ああああ危なかった!お母さんに半裸の女の子見られるとこだったよ!!
それは例のエロ本…写真集?…えぇい、どっちでもいい!
こらぁ!オトモダチ!!親になんてもん預けるのっ!!
「ど、どうもありがとう。それじゃ」
「食べてきたんでしょ?」
「うん!」
お母さんはリビングに戻り、私は2階へ続く階段を昇る。
漸く部屋に辿り着くと、紙袋と一緒にベッドにダイブした。安堵すると同時に、どっと体が重くなる。
「つかれたよぉ…」
『俺もだよ…』
純一郎が、ぽつりと呟いた。
目を開くと、視界に入る紙袋…。
私は身を起こすと、改めて鞄から携帯を取り出して電源を入れた。
案の定、純一郎の友達2人からメールがたくさん届いてる。
“生きてるかー”“腹大丈夫かー”って。
あんなに邪険にしたのに、怒ってないんだ。むしろ心配してくれて、家にまで来てくれたんだ。
“悪い奴等じゃないんだから”
純一郎の言葉が、実感を伴って染み入った。
“私ああいうの見て喜ぶような人生理的に受け付けないから!”
胸の中の石が、ずんって重みを増した気がする…。
……なんかもう、居た堪れない…。
メールの差出人欄には「山本正樹」と表示されている。私は意を決して携帯を操作すると、発信ボタンをポチッとした。
呼び出し音に煽られて、心臓が暴れ出す。そんな私を、純一郎は不思議そうな顔で眺めてる。
何度目かのコールの後、電話が繋がった――。
結果として、あんまり上手くは出来なかった。
しょっぱな「山本正樹くんですか?」と訊いて爆笑されたし、男子の口調なんて上手く真似できるはずもなく、会話が妙にぎこちなくなる。最終的には「お前やっぱ今日変だわ。いーから寝ろ」と言われてしまった。
それでもなんとか“心配かけてごめん”と、“家まで来てくれて有難う”だけは伝えて電話を切った。
冷や汗を吹きつつ、次は“中島あきら”くんだと、メールで名前を確認して番号を探す。
隣でずっとヤキモキしていたらしい純一郎が、すかさず止めに入った。
『無理すんなって!メールでいいって!』
「だめだよ!家まで来てもらったのにメールだけじゃ悪いじゃん!」
そもそもトイレに籠ったのも携帯オフしたのも私だし。落とし前はつけないといけない。再び発信ボタンをポチすると、私は覚悟を決めて電話を耳に当てた。
純一郎は私の勢いに圧されたようで、それ以上は何も言わなかった。
そしてその後は再びテンパる私を、苦笑を滲ませて見守っていた。
中島君への電話はさっきよりは上手くいった。
お礼を言って切ろうとした時、そういえば!と中島君が思い出したように言った。
≪明日の練習はどーする?休みにしとく?≫
「あ、明日の練習…」
なにそれ?と問うように純一郎を見ると、『サッカー部の練習だよ』と答えが返った。
『俺、サッカー部でもあるから。平日は出れないけど、土日は練習に参加するんだよ。ちなみにあきらもサッカー部』
知らなかった…。
勝手に取材に行くことを決めたけど、そういえば純一郎の予定なんて何も確認しなかった自分を省みる。
平日参加できないのは、絶対要くんのお迎えのためだし。週末だけの部活を楽しみにしていたかもしれないのに。
そんな可能性、一切考えなかった。
≪無理すんなよ。部長には言っとくから≫
「………う、ん…。ごめん…」
自分の身勝手さを実感して、自然、声が小さくなった。
純一郎の体に入っちゃってから、ひとりでずっと災難に遭ってる気でいたけど、考えてみたら純一郎にとってだって、同じくらい災難なことなんだ。
そんな当たり前のことに、今更気付いてしまう。
ほんとうにほんとうに、今更…。
電話を終えた私はそれを充電器に置くと、純一郎を振り返った。
「……純一郎」
『ん?』
純一郎がちょっと意外そうな顔をする。そういえば名前を呼んだの初めてだったかもしれない。
「私さ…、言ってなかったけど…」
そこまで言って、言葉が止まった。
一瞬自分の名前を言ってしまおうかという気になりかけたけど、いざとなるとやっぱり躊躇われる。
だって次に会ったときにどんな顔したらいいのか分からないじゃん…。
…次に会う時があるのかどうかも分からないけど…。
『なに?』
「あ、えっと…。取材のこと…」
『取材?』
「栄大学って聞いた時に…。なんとなく上手く言えないけど……引っ掛かるものがあったんだよね。頭の片隅に、ぴぴっと。だから…、つい行ってみたい気になってしまったというか…」
我ながらなんて適当な言い訳。
それでも純一郎は目を見張って『マジで!』と声を上げた。
『もしかしてきみ大学生なの??』
「えーと、そこまでは分からないんだけど…」
『そっかそっか、分かった!なんか思い出すきっかけになりそうってことね。なんだ早く言ってよ。そういうことなら取材行こう、是非行こう!』
謎が解けたという様子で、純一郎は快く頷いてくれた。釣られて私まで頬が緩んでしまう。
最初からちゃんと説明すればよかったんだ。ほんとのことが言えなくても、理解してもらう努力はすべきだった。純一郎は確かにいい加減で軽薄だけど、今の状況でそれが、彼を蚊帳の外に置いていい理由にはならない。
変な意地が消えてしまったら、心の重石も少し軽くなった気がした。
「…私」
その勢いで、私はまた口を開いた。もうひとつ、言い訳じゃないけど、聞いてほしい話がある。
「ちっちゃい頃に、男の人に攫われかけたことがあって」
突然の告白に、純一郎はまた目を丸くした。
――あれは私が7歳の時の事。
お父さんと2人で公園に遊びに行って、暫く楽しく遊んでて、ふとお父さんがトイレに行ってくるねって傍を離れた。その時に起こった。
ベンチで待つ私に、若い男の人が近づいてきて、ひとりなの?って訊いてきた。
周りに人気は無くて。
お父さんを待ってるのって答えたら、じゃぁその間一緒に遊ぼうかって誘われて、子供心に警戒心が芽生えた。
知らない人だし、これ以上話をしちゃいけないって本能的に思って、私はベンチを立った。そしてその場を離れようと男の人に背を向けた瞬間、――後ろから捕まえられて、あっという間に抱き抱えられたんだ。
片手で口を塞がれて、声も出せなくて。
何か怖いことが起きたって分かった。
それでも力じゃ全然敵わなくて…。その時お父さんが戻って来るのがもうちょっと遅かったら、ほんとうにどうなっていたか分からない。
男の人は駆けてきたお父さんに「なにしてるんだ!」って怒鳴られて、すぐに私を下ろして逃げ去った。
私はお父さんに抱き締められて、わんわん泣いた。
でもお父さんも同じくらい怖かったんだと思う。大きな体が震えていたから。
その後お父さんは何度となく、私に言ってきかせた。
“知らない男と話しちゃいけないよ。近付いちゃいけないよ。怖い男は沢山いるんだから、お前は可愛いんだから、ほんとうにほんとうに気を付けないとだめだよ“
呪文みたいに、繰り返し、繰り返し――。
「…それがちょっと、子供心にトラウマで…。なんか必要以上に警戒心が強くなってしまったというか…、潔癖になってしまったというか…」
こんな話を男の人にしたのは初めてだった。
口籠る私を見ながら、ずっと黙って話を聞いていた純一郎は、そこで漸く口を開いた。
『………記憶戻ったの?』
――あっ。
やばい。初期設定が頭から抜けていた。
私は慌てて「あ、あの、その部分だけね…!」と弁解した。
ずいぶん都合のいい記憶回路だ。それでも純一郎は疑う様子もなく、そっかと呟く。
『もしかして正樹とあきらとエロ本のタイミングで?』
「あ、うん、そのタイミング…――って、写真集じゃなかったっけ?!」
純一郎はため息混じりに自分のベッドにごろりと転がった。当然のことながら、ベッドがきしんだりはしない。
『なるほどねぇ…』
沈黙が流れて、私はこほんと咳払いする。
こんな話をしたのは自己弁護だけど、“生理的に受け付けない”なんて言ったことはちゃんと謝らないといけなくて…。
意を決して口を開きかけた時、階下から「じゅーん!」と呼ぶお母さんの声が聞こえた。
「お風呂入っちゃってーー!!!」
その言葉に、私はカチコンとまた凍り付いてしまった。
3秒ほどの間をおいて、純一郎が言う。
『いいよ、別に入らなくても』
「………」
暫しの葛藤の後、私はゆるゆると腰を上げた。
「………行ってきます」
◆
とりあえず風呂場の電気はつけないことにした。
脱衣所で服を脱ぎながら”見えない見えない”と自分に言って聞かせる。
全裸にバスタオルをきっちり胸まで巻くと、ようやくちょっと落ち着いた。
「失礼しまぁす…」
そろそろと風呂場に入ると、暗闇の中、窓からの明かりだけを頼りに洗い場についた。
さて、どうやって体を洗おう…。
……まぁ、一日くらい洗わなくても…。
いや、タオルの上からなら…。
とりあえず、このオレンジ頭を先に…。
『ぶぁっはっはっはっはーーーーー!!!』
「きゃぁぁぁぁ!!!」
突然背後から聞こえた高笑いに、私は絶叫とともに飛び退いた。
振り返れば暗闇の中に浮かぶ、ぼぉっとした白い人影…。
「いやー!!!」
手にした洗面器を投げつけたら、すり抜けて壁に当たった。
『なんだその格好ーー!!!なんで電気つけないんだよ。怖いだろ!!』
笑いながら言われ、それが漸く純一郎であることに気付く。
怖いのはどっちだぁぁ!
ただでさえお化け仕様なのに、暗闇に浮かぶなバカ-!!!
「お風呂覗きに来るなんて、ししし信じらない!出て行って!!」
『いやちょっと様子見るだけのつもりが、予想以上に面白くて…!』
「出てけぇ!!!!」
私が勢いに任せてシャンプーを片手に掴んだ瞬間、純一郎は笑いながら壁をすり抜けて行った。
肩で息をしつつその後を睨んでいた私は、やがて「もぉっ」と呟いてシャンプーを元に戻す。鏡に映った自分の影にまたぎょっとしてしまい、はぁっと溜息をついた。
「いいや、もう…」
諦めて立ち上がり、電気をつけにいく。
そしてシャワーノズルを取り外すと、鏡に映らない場所から蛇口をひねった。
…だいぶ耐性がついてきたんじゃないかな、私…。
結果的にほとんど見てしまった上に触ってしまったが、意外にも今朝ほどの嫌悪感は無かった。
お風呂でぴかぴかになった私…っていうか純一郎の体にスウェットを纏い、髪をタオルで包んだ私はまた部屋へ戻る。
その姿を見て、純一郎がまた笑った。
『その頭なに?!』
我に返ってタオルを取り去ると、私は髪を拭きながらベッドに腰掛けた。
ふとカラーボックスに立てられた本の背表紙が目にとまる。それは私もよく知っているミステリー小説だった。
思わずベッドから立ち上がり、カラーボックスの前にしゃがみ込んだ。一冊取り出してしげしげと眺める。
「こんなの読むんだぁ…」
意外な気持ちでそう呟くと、純一郎が『その人の本面白いんだよ。ほとんど持ってるよ』と言った。
「私も持ってる。ミステリーだけじゃなくて、色んなジャンル書くよね。エッセイも笑えるんだよ」
『あー、知ってる!っつーか、持ってるよ。そこにあるでしょ』
あ、ほんとだ!
それ以外にも見知った本のタイトルがずらり。
「あー、これも知ってる!叙述トリックのやつ!衝撃のラストだよねーっ」
『あ、知ってんの?あれは騙されたよなー』
純一郎が嬉しそうに話にのってくる。私もなんだかうきうきしちゃう。すっごい意外!絶対漫画しか読まないと思ってた!!
そういえば秀英の生徒なんだからバカじゃないのは確かなんだけど…。なんていうか、イメージ?
盛り上がっていくつか本を取り出していくと、その手が本の並びの後ろに並んでいたDVDケースに触れた。
どうやら映画もあるらしい。どんな映画を観るんだろう?興味がわいてそれを取り出すと、後ろで純一郎が『あっ』と小さく声をあげた。
“イケナイ課外授業”
私はDVDケースを手に硬直した。
ケースのカバーには制服姿の女の子が映っている。
その制服はほとんど脱げているので、制服姿というのもはばかられるんだけど。
なになに?
“俺がお前に全てを教えてやるよ。立場も忘れて雄となった教師は、咲き始めの花を無理やり開花させ…。”
「………」
可能な限り冷たい目で振り返ると、純一郎はベッドの上で胡坐をかいた格好で、あはっと笑った。
『それも正樹が無理やりさー』
「嘘つけぇぇっっ!!」
放り投げたケースは、また純一郎をすりぬけ、壁に当たって跳ね返った。