優しさのカタチ
幼稚園のお迎えに行くと、園児はあんまり残っていなかった。
寂し気に一人遊び中だった要くんは、私を見つけるとパッと顔を輝かせた。未練も無く直ぐにおもちゃを片付けて、鞄を持って走ってくる。一日の様子を説明してくれるみう先生に適当な相槌を返しながら、私は離れた場所で待つ純一郎をちらりと振り返った。
大好きなみう先生が居るのに、こっちに来ないんだ。
これ見よがしに距離を開けて…。
…感じ悪い…。
気が滅入って、体中が倦怠感に支配される。
心と一緒に体にまで重石をつけられて、淀んだ沼に放り出されたような気分だった。
◆
要くんを連れてアパートに戻ると、鍵を開けて中に入った。
その頃には、私の気分の悪さは限界を迎えていた。
靴を脱いで片付けの行き届いた部屋に足を踏み入れた途端、膝から崩れ落ちる。
両手をついてその場に四つん這いになった私に、要くんと純一郎の声が重なった。
「どーしたの?!」
『おい、どした?!』
原因は分かっている。
項垂れたまま、私は小さく訴えた。
「………お腹が、空いた……」
『メシ抜いたりするからだよ……』
傍らで純一郎が呆れた呟きを洩らす。
要くんにとりあえず牛乳を注いでもらった私は、全く反論出来ずに黙々とそれを飲み下していた。
恥ずかしくて、顔が熱い。
そういえば今日は、お昼を食べていなかったのだ。
家を出てから水すら飲んでなかった。
休み時間はずっと篭ってたし…。
『体は俺なんだから、食わなかったらもたないっつーの』
「…すみません」
小さく呟くと、純一郎が苦笑いを浮かべる。
『姉ちゃんがなんか用意してってるはずだから、とりあえず食べな』
そう言われ、私はこくりと頷いた。
いつの間にか純一郎が普通に戻ってる。
なんとなく安堵して、立ち上がった。
「よし、かなめくん、ご飯にしよ!」
「うん!」
うん、よし!人間食べなきゃダメだ!
冷蔵庫を開けさせてもらうとカレーの入った鍋が入っていた。
ご飯も炊けているようだし、すぐに食べられるようにしてくれてる。
お姉さん有難うございますと内心で手を合わせ、私は鍋をコンロにかけた。
ふと足元で、かなめくんが残念そうに呟く。
「またカレーかぁ…」
「え、またなの?」
「昨日もだったじゃん」
「……あ、そっか」
知らないけど、話を合わせて頷いた。
昨日は本物の純一郎と一緒にカレーを食べたのだろう。
カレーって確かに2日とか続くよね。よくあることだと思うけど……。
「…なにか他に食べたいものあるの?」
訊いてみると、かなめくんは勢いよく答えた。
「チャーハン!」
「チャーハンか!おっしゃ、任せろ!」
握りこぶしで応えた私に、要くんのほうがびっくり顔になる。
「じゅんいちろう、作れるの??」
「チャーハンくらい作れるよー」
『作れねって!』
本物の純一郎が口を挟むが当然要くんに聞こえるはずもなく、既にわーいと歓声を上げている。
お肉を使ったりしたら悪いし、ウインナーにするか。
あと、玉ねぎ、にんじん、たまご…。
材料を冷蔵庫から取り出して並べると、コンロではカレーがいい香りを漂わせ始めている。
とりあえず一人分にして、私はカレーを頂こう。これはこれで消費したいだろうし。
うんと頷き、私は手を洗って調理場に向かった。
私が料理をしている間、要くんは居間でテレビを観ていた。
静かになった室内で、ふと純一郎が呟く。
『あいつ…さっき何捨てた?』
「え?」
振り返ると、純一郎はゴミ箱を覗いていた。
要くんがなにか捨てたのだろうか。料理に夢中で全く気付かなかったけど。
私はコンロの火を弱火にしてゴミ箱に近寄ると、そこから丸められて捨てられている紙を取り上げた。
テレビに夢中な要くんが、こちらに気付く様子は無い。
広げてみると、純一郎が横から覗き込んだ。
それは幼稚園からの保護者参観日のお知らせだった。
純一郎が『…なるほどね』と納得の呟きを洩らす。
「…これ、捨てていいの?」
声を落として訊くと、純一郎は手紙に視線を当てたまま言った。
『姉ちゃんは仕事で行けないって、分かってるんだよ』
だから…見せないで捨てちゃうの?
それって……ちょっと切ないよ。
『元に戻しといて』
そう言われても…。逡巡する私に、純一郎が『かなめにバレるとメンドクサイから早くっ』と急かしてくる。
仕方なく、私は手紙を元通りゴミ箱に入れた。
そして複雑な想いのまま、また調理場に戻った。
やがて純一郎のお姉さんが帰ってきて、私と純一郎は入れ替わりでアパートを出た。
お姉さんは気さくな感じの良い人で、当然だけど純一郎みたいに髪を染めたりもしてなくて、ちゃんと洗練された大人の女性だった。一人っ子の私には、お姉さんという存在が新鮮に映る。色んな苦労を全く感じさせない明るい笑顔で送り出してもらい、まだ辛うじて明るさの残る住宅街に、自転車をゆっくりと発進させた。
純一郎は今朝と同じく私の頭に両腕を掛けて凭れてるようだ。重さも感触も無いのに、なんとなく存在は感じるから不思議。
傍に幽霊モドキが居るのも、いつの間にか当たり前のように受け入れてるし。慣れって凄いなーなんて思う。
ふと頭上から、純一郎の笑いを含んだ声が聞こえた。
『要すげぇ食いつき良かったな、俺のチャーハン』
「…“俺の”じゃないけどね」
作ったのは私だけど、要くんにとっては純一郎のチャーハンだ。
美味しい美味しいと喜んでくれて、また作ってねと言ってくれた。
無邪気な笑顔が、とても可愛かった。
そういえば、家族以外の誰かのために料理したの、初めてだったな…。
『ありがとね』
不意をつかれて、私は固まってしまった。
真っ直ぐお礼なんて言われると、なんだか反応に困る。
聞こえなかったふりをして、私はわざと話を逸らした。
「一日くらい、仕事休めないのかな。お姉さん」
結局手紙のことはお姉さんに伝えられなかった。お姉さんが気付いてくれないかとチラチラゴミ箱に視線を送ったけど、通じなかったし…。
純一郎が苦笑を洩らす。
『休みたくないらしいよ。要が病気とかになった時のために有給は残しておきたいし、“子供が居る人は使えない”みたいに思われるの嫌だからって』
……なんだか胸が痛い。
お姉さんの職場がどんなところか知らないからなんとも言えないけど、そんなにムキにならなくても…なんて言いたくなってしまう。
「思ったんだけど…。幼稚園じゃなくて保育園に変えればいいんじゃないかな?」
不意に思いついて、私は純一郎を見上げた。
運転しながらだったからふらつきそうになって、慌てて視線を戻す。体勢を整えながらも、更に訴えた。
「保育園だったらみんな仕事してるし、参観日とか無いでしょ?それに友達が早く帰っちゃうこともなさそうだし」
今日お迎えに行った時には、教室にほとんど子供は残っていなかった。
幼稚園だから普通は皆早く帰るし、延長の子なんてあんまり居ないんだと思う。
保育園なら皆働いてるのが前提だから…と私が説明するまでもなく、純一郎は私の言いたいことを理解したようだった。
『いや、保育園もあるよ、参観日。俺、保育園だったからさ』
「…そうなの?でも…」
『うん。まぁ、来れない親も多くて気にならないってのはあるかもしんないけどね。皆帰りが夕方以降なのも、確かにそうだし』
「でしょ??」
『うん、多分そういうことも考えたんだろな。ホントは姉ちゃん、春から要のこと保育園に行かせる気でいたんだよ。でもその話は俺が反対して消えたんだけど』
「えぇ!なんで反対したの???」
つい責めるような言い方をしてしまい、我に返る。
でも純一郎は特に気にする様子もなく、私の疑問に答えた。
『だってさー、あの幼稚園にもう2年通ってんだよ?友達の話もよく聞くし、先生達にも懐いてるし。父親が死んじゃって姉ちゃんも傍にいれなくなってただでさえ寂しい時なのにさ。新しい場所で知らない奴等の中に入れとか……酷な気がしたから…』
ペダルを漕ぐ足が、一瞬完全に止まった。
惰性で赤信号の横断歩道に突っ込みそうになり、慌てて停める。
「ご、ごめん」
謝りながら、私はペダルに乗せていた足を地面に降ろした。
『おい、うっかり俺のことまで殺すなよ?』
純一郎がおどけて言う。
私は信号に視線を当てると、肩を下ろし、深く長い息を吐いた。
”新しい場所で知らない奴等の中に入れとか……酷な気がしたから…”
……そっかぁ…。
純一郎の、言うとおりだ。
忘れてた。あの場所が要くんの第二のおうちだってこと。
言われて初めて気付いてしまう。私、要くんのことを考えてるつもりだったけど…、違ったかもしれない。
単にお迎えに行ったときや、捨てられた手紙を見た時の自分の胸の痛みを、紛らわせたかっただけなのかもしれない。
他人の私に言われるまでもなく、純一郎は純一郎で要くんのこともお姉さんのことも、ちゃんと考えてるのに…。
……余計なお世話だったな…。
なんだか気持ちが沈んでしまうのは何故だろう。しゅんとなってる自分に気付いて、私はふと自問した。
明日は深さんに会えるのに。生きてる希望も湧いて浮上してたはずなのに。純一郎だってもういつも通りじゃん…。
それなのにどうして、今もまだ重い石を呑み込んでるみたいに、胸が苦しいんだろう…。
やがて歩行者信号はまた青に変わって音楽を奏で始める。
私は改めてペダルと踏むと、横断歩道へ入って行った。