好きじゃないくせに
放課後、私は誰よりも早く荷物をまとめて席を立った。
隣の席の男子が、それに気付いてこちらを向く。
「純一郎、お前大丈…」
「――さようなら!!!」
なおも話掛けようとする友達の言葉を遮って教室を出ると、人気の無い廊下で、漸く緊張感から解放される。
あぁ…、やっと終わった…。
「疲れたぁ…」
さて――。
大きく伸びをして純一郎を振り返る。
「新聞部の部室ってどこ?」
『……あんたねぇ…』
純一郎は何か言いかけたが、諦めたように口を噤んだ。
そして私の前に来ると、部室までの道を先導して歩き出した。
◆
「しつれいします!」
部室に入った私を迎えたのは、今朝も会った坂宮さんだった。パソコンに向かっていた手を止め、顔を上げる。
「あ、純一郎おつかれー」
「加瀬君、お疲れ様」
――と、もう一人。
坂宮さんの作業を見守る女性が目に入った瞬間、私は思わず息を呑んだ。
前下がりのストレートボブ。ワンレングスで綺麗な額を覗かせている。そんな大人っぽい髪型がものすごく似合う、落ち着いた切れ長の目。すっと通った鼻筋。桜色の形のいい唇。
美人だ。紛れも無く美人だ。
…って、ことは?!
はっと我に返った瞬間、予想通りの歓声が背後から上がった。
『優さぁ~~~ん!!!』
あ…ものすごい既視感。
純一郎は今朝の再現とばかりに、今度は”優さん”に飛びついた。
もちろん実体の無い彼の腕は悲しく空を切るのだけど…。
…実体があってもやってるんじゃないでしょうね、それ。…捕まるよ?
「ねぇ、純一郎明日の土曜日ヒマ??」
不意に坂宮さんに声を掛けられ、私はハッと彼女に向いた。
「えっ…」
「明日栄大学に取材に行くんだけど、あんたはどーする?」
「え!!栄大学?!」
私の驚きを見て、坂宮さんはうふふっと笑う。
優さんが横から「勝手に決めてきたのよ、この子」と疲れた顔で口を挟んだ。
「なんかOBのその後を追うっていう企画を考えたんですって。
第一回目は元テニス部の坂本先輩にするとか言って、取材の約束取り付けてきちゃって…。ほんとやめて欲しい…」
「さ、坂本先輩…?!」
深さんだ、深さんだ、深さんだ!!!
興奮する私の隣に、やっと鑑賞を終えたのか、純一郎が戻って来る。
今更ながら、優さんを指して言った。
『ちなみにあの人、新聞部部長の大川優さん。3年生だから』
なんとなく分かったっつーの。
飛びつく暇があったらもっと早く教えろっつーの。
…と、いいつつ今の私はそれどころではない。
「取材って…、いつ決まった話??」
「昨日」
「きのう…」
――は、深さん私とデートしてたじゃん!!
そんな気持ちが顔に出たのか、坂宮さんが付け足して言う。
「大丈夫だって。テニス部の部長に話つけといたし、本人が明日ダメなら連絡くださいって言ってあるから。
今も連絡ないし、オッケーってことじゃない?」
それを聞いた優さんは「本人に許可取ったわけじゃないの??」と眉を顰めた。
そんなふうに顔をしかめても美人はやっぱり美人だ。
「本人居なかったんです」
「だったらまたの機会にすればいいのに!」
「いやぁ、こういうのは思い立ったが吉日っていうか、善は急げみたいな??」
適当な相槌を打っている坂宮さんだけど、私には彼女の目論見が分かる。
純一郎も当然そうで、『あいつプリンスに例のスクープの真相、直接確認する気だな』と呟いた。
そして私を見る。
『…断っていいよ』
「行きます!!」
『えぇぇぇ!!!』
びっと手を上げた私に、純一郎が驚愕の声を上げる。
坂宮さんは「あんた、風花ちゃんが気になるんでしょ」と揶揄し、優さんは「ふうかちゃん?」と不思議顔で訊く。
その中で一番当惑した様子の純一郎は、私達が待ち合わせ場所や時間を決める間、きょろきょろとひたすら目を泳がせていた。
◆
予定通り途中で抜けた私は、幼稚園のお迎えに向かうべく自転車を走らせた。
今日は本当に疲れた…。
漸く学校から解放された喜びを実感しつつ、明日への希望に胸躍らせる。
深さんに会える。深さんに会える…!
『…まさか取材行くとか言い出すと思わなかったよ…。どうしたの?』
ふと純一郎に訊かれ、私はちらりと背後に目を遣った。
純一郎は荷台に、こちらに背を向ける形で座っている。
「別に。なんとなく」
適当な返事を返せば、純一郎は溜息まじりに『そんなことしてる場合じゃないだろうに…』とぼやいた。
そんなことしてる場合だもんと、私は内心で言い返す。
昨日のことは誰よりも一番深さんが知ってるんだから。坂宮さんはあの写真のこと、絶対深さんに訊くんだから。むしろ行かなくてどうするって話なのだ。
もしかして本当に死んでしまったのかと何度か過った不安も、今は薄らいでいる。
だってもし私が死んじゃったなんてことがあれば、深さんに連絡がいかないはずない。
取材なんて受けてる場合じゃないし、断りの連絡が入るはず。
そうなっていないんだから、大丈夫だよ!
その希望が何より強く、私の背を押していた。
『秀英のプリンスに興味湧いちゃった?』
チャリチャリとうるさい自転車の音も、行き交う車の音も、不思議なくらい邪魔にならず、純一郎の声は私の思考に割って入る。
まだ納得いかないらしい。…まぁ、無理もないけど。
その疑問にも、とりあえず適当に答えておくことにした。
「まぁね。凄い人みたいだし」
『……案外ミーハーなんだね』
あんたに言われたくない!流石にカチンときて、私は思わず声を高くした。
「放っておいてよ、自分はどうなの?!
栄付属の子とか、幼稚園の先生とか、優さんとか――どんだけ節操ないのよ!!」
思い切り反撃したが、純一郎が怯むことはなかった。
『可愛い子が沢山いるんだから仕方ないじゃん』とかほざいてる。
――開き直りやがって!
ふと思いつき、私は純一郎を振り返った。
「……ちなみに誰が本命なの?」
別に誰でもいいけどっ。
そう言う前に返って来た返事は、予想以上にひどかった。
『みんな本命』
「さいってぇぇぇぇぇ!!!!」
反射的に叫んでしまうと、純一郎は『はぁ?』と納得いかなそうな声を洩らす。
「外見がいいなら誰でもいいってサイテーじゃん!!そんな風に言い寄ってくる人の気持ちが本気とはとても思えないよ!!」
『…いや、本気で可愛いと思ってるよ?』
「誰がそんな話してんのよ!」
『だって流石にそれ以上は付き合ってみないと分からないじゃん。本気で好きになれるかどうかって付き合ってからの話だし。アプローチするのにそこまで深く考えないでしょ』
そうでしょうとも!
深く考えていなかったんでしょうとも!!
その程度でよくもまぁあんだけしつこく…。
純一郎のせいで悩んだ不毛な時間が甦ると、なんだか無性に腹が立ってくる。
「信じられないっ!
私はお互い深く知りあわないと付き合うとか無理だし、外見だけで判断なんて有り得ない!絶対無理!」
力強く訴えれば、純一郎がぼそっと小さく呟きを洩らした。
『…………めんどくさ』
それすらはっきり聞こえちゃうからタチが悪い。
なによそれ!なんで私が純一郎に面倒くさいとか言われないといけないの?!
憤慨する私に、純一郎が追い打ちをかける。
『そういうこと言う子に限って見た目にコロッと騙されるんだよね。そんで頭の中の幻想に恋しておきながら後になってからそんな人だと思わなかった!とか言ったりするんだよ』
ムッカー!!
『でもまぁ…個人の自由だけどさ』
噛みつく勢いで振り返った私に、ふと純一郎は声の調子を変えてそう続ける。
気勢を殺がれた私に、純一郎は背を向けたまま言った。
『それよりさ。俺の体に居る間は、俺の友達邪険にしないでやってくんない?…悪い奴等じゃないんだし…』
窺う声は穏やかだった。
でも燻った苛立ちも手伝って、私の返事は険を含む。
「学校にエロ本持ってくるような人達と仲良くしろって言うの?」
思い出したのか、純一郎がちょっと焦った様子で振り返った。
『いや、あれ写真集だから!』
「同じようなもんでしょ、あれだけ脱いでれば!――あんたたち、まさに類友!悪いけど、私ああいうの見て喜ぶような人生理的に受け付けないから!」
『いや類友って…、男ならあれくらい誰でも見るでしょ。見ないのはガキとじぃちゃんだけだって』
「そんなわけないでしょ!誰も彼もを自分達の基準に当てはめるのヤメテ!」
まるで深さんまで侮辱されたような気になって、私はいっそうむきになってそう返した。
僅かの間、沈黙が落ちる。
『ふぅん…』
純一郎の声が実際に聞こえるわけでもないのに、ワントーン低くなったのが分かった。
私の頭に上っていた血も、それと一緒にすっと下りる。
『別にいいけどね。俺も無理だから。
よく知りもしないヤツのこと、”生理的に受け付けない”とか言う子』
胸がざわりと嫌な音を立てた。
それきり純一郎は完全に口を閉ざした。
古い自転車のキコキコいう音だけが後に残る。
何か言おうと口を開きかけ、私はぐっと唇を噛んだ。
どくどくと騒ぐ胸には気付かない振りをして、力強くペダルを踏む。
”俺も無理だから”
……なによ。
なによ、なによ、なによ。
ひとのことなんて言えないじゃない。
頭の中の幻想に恋してるのは、自分じゃない。
本当の私のことなんて全然知らないくせに。
全然…、好きじゃないくせに――。