灰の塔の魔女
図書委員の仕事を果たすため、人気の無い迷路のような書架を巡り、本を書棚に戻していた僕は、とんでもない現場に遭遇してしまった。
慌てて書架の陰に隠れて固く目を閉ざし深く息を吐く。一回、二回、三回。しかし、絶え間なく漏れ聞こえる濡れた音のせいで、脳裏に焼き付いた情景は色鮮やかなまま衰えず、心臓の鼓動はこれでもかという程に早い脈を打ち続けている。
厳つい男の骨張った掌に抱かれて乱れた、艶やかな黒い髪。
深い口づけを何度も交わしたことが推察される、紅の移った唇。
濡れた音が漏れ聞こえているのは、舌を深く絡めているのだろう。
「……っっ」
宵闇美蓮。
通称、灰の塔の魔女。
灰の塔とは僕の所属する高校の図書館のことだ。歴史のある私立中高一貫校の図書館は古くて大きく、それ単体で一つの建物を為している。とある代の校長が稀代の本好きで、半分道楽で立てた建物らしい。円状の棟の中を、放射線状に伸びる書架と螺旋階段。迷路のように複雑に入り組んだ建物の下から上まで、ぎっしりと本が詰められている。日焼け防止のために明かり窓はない。節電とか言って人がいないと電気が消える仕組みになっていたりするせいで薄暗いし、古い本が多いせいで黴臭い。
元は真っ白な外装だったのだろうが、年月を経たために黒ずんでいる。そのために付いた名が、灰の塔。
宵闇美蓮は、その塔に生息する謎の美少女だ。
新校舎の方に綺麗な自習室はあるのだが、そちらは早々に埋まってしまうことが多く、又高校3年の受験生に優先的に使用するという暗黙のルールがある。学習塾に通っている者なら塾の自習室を使えばよいが、炙れて仕方なく図書館の閲覧室を利用する生徒も一定数存在する。僕も渋々図書館を利用する一人だった。
しかし閲覧室で艶やかな黒髪を耳にかけながら本を読む彼女を一目見たとき、世界が変わった。それほどまでに、美しい人だったのだ。
僕は制服を着崩す女子が嫌いだ。表の顔と裏の顔を使い分け、媚を売り、甲高い声で喧しく喋る奴らも嫌いだ。
彼女は違った。図書館の中ということもあっただろうけど、彼女の周囲には静謐で穏やかで、神々しい空気が満ちていた。図書館の薄暗い光にさえ天使の輪を浮かべる艶々と長い、癖のなくまっすぐな黒髪。伏せられた長い睫毛。ページをめくる白く細い指先。時々ほころぶ形のよい唇。白いワイシャツはいつだって第一ボタンまできっちりと留めていて、一本の皺もなく整えられたチェックのプリーツスカートは膝下丈。
それからというもの僕は、渋々ではなく自発的に図書館を利用するようになった。彼女はいつだって図書館にいた。初めは見るだけで幸福だった。しかしすぐにそれ以上のことを知りたくなった。彼女の名前は何なのか、どんな本を読んでいるのか。しかし、元々女子と話すのが苦手な僕が、何の接点もない彼女に話しかけることなどできるはずもない。
考えた末、僕は図書委員になった。システムを改めていない古い図書館は、デジタルではなくアナログの図書カードを使っていて、未だに貸出しの時に本の最終ページに貼付けたカードに名前を書く方式だったからだ。そうしてようやく知った名が、宵闇美蓮。しかしその頃には、彼女は図書館利用者の間ですっかり話題になっていて、風の噂で名前も瞬く間に広がっていたのだった。その転機は、思わぬ形で訪れた。
「…黒薔薇、さんですか?」
図書当番ではなかった日。僕が美蓮を斜め前に眺めることのできるスポットを手堅くゲットし、勉強しては彼女を見て一息つき、というのを繰り返していた、そのときだった。誰もが遠巻きに眺めていた彼女に、果敢にも二人の少女が近づき、声をかけたのだ。
黒薔薇? なんだそれは?
僕は不可解さに眉をしかめたが、美蓮は落ち着いた様子で手元の本から目線を上げた。その目線に促されるように、少女たちは話しだす。
「灰の塔の三階の閲覧室、二列目の端っこ。わたしたち、黒薔薇さんのブログをずっと読んでました。居場所を聞いたら、どうしても直接相談したくなってしまって…」
美蓮はゆっくりと手元の本を閉じ、にっこりと微笑んだ。彼女が人に向けて微笑みを浮かべたのを見たのはその時が初めてで、僕は息を呑むと同時に嫉妬した。僕が勇気を出して彼女に声をかけていたなら。あの微笑みは僕に向けられていたかもしれない。僕はずっと前から彼女を見ていたのに! それにしてもブログとはなんだろう。黒薔薇とはなんだろう。僕は彼女を知ったつもりで、その実何も知らなかったのだと思い知らされて呆然とした。
「ええ、いかにも私が”黒薔薇”よ」
それからというもの、彼女は灰の塔の魔女の異名を獲得し、図書館を訪れる人々の悩み相談に応じる姿を見かけるようになった。相談を受ける度に彼女は人気のない書架に移動してしまうので、詳しい内容は知らない。
しかしそんな風にすっかり有名になった彼女だが、何年何組に所属しているのか誰も知らない。一学年に1000人も所属するマンモス校だから、それも仕方がないのかもしれないが。謎とはいえ、少なくとも、うちの学校の生徒であることは間違いない。そうでなければそもそも学校の敷地内にある図書館に入れるはずがないし、白いワイシャツに、紺のブレザー、赤いリボン、チェックのプリーツスカートという生徒と同じ制服を身に纏っているからだ。ちなみにいつだって制服のワイシャツは第一ボタンまできっちりと留めて、スカートは膝下丈を守っている。
そんな清楚で奥ゆかしい彼女だから、僕は美蓮を好きになったのだ。
それなのに、どうして、彼女が。
「……っ」
後ろ姿だったが、ずっと見続けていたのだから見間違えるはずもない。
口づけは未だに続いているようだ。静かな書架に濡れた舌の絡み合う音が漏れている。
淫らで、厭らしい音なはずなのに。美蓮のものと思うと甘美なものに思えるのは何故だろう。
彼女は他の男と深い口づけを交わしているのに。そのことに激しい嫉妬を覚える反面、興奮を覚えるのは何故だろう。
てらてらと妖しい光を返しながら鈍く光る赤い唇。
ちらちらと覗く小さな舌。
蠱惑的な弧を描く瞳。
僕が見たのは本当は後ろ姿だけなのに、僕はそれらをまざまざと幻視する。ずっと眺めていたのだから、脳裏に彼女の姿を浮かべるのは容易い。しかしこんな妄想はしたことがなかった。
あんなに清楚に見えた彼女が、こんな情熱的なキスをするなんて。
そんなイメージは全く持ち合わせていなかった。
いやいやいやいや、何を考えてるんだ僕は! あんなに清らかな美蓮を、卑猥な妄想で貶めるなんてもってのほかだ! 寺の息子が聞いて呆れる、煩悩滅殺、煩悩滅殺、煩悩滅殺。
胸の前で印を組みながらひたすら瞑想を繰り返し、無我を心がける。濡れた音がちょうど聞こえてこなくなったこともあり、大分落ち着くことができた。
大丈夫、いつも通りの僕だ。
動揺している場合じゃない。早く二人を止めに行くんだ。まさかあの清楚な美蓮が、自分から男性を誘ったはずがない。ありうるとしたら穏やかな美蓮が激しいアプローチを断りきれずあのような状況になったのだろう。あれほど濃密なキスをしていたということは二人が恋人同士という可能性もあるが、そんなことは考えたくない。
美蓮の様子が気になって、体勢はそのままに、ちらり、と書架の隙間から向こう側を覗く。本と棚の上にある隙間から、書架の向こう側が伺えた。
「……!?」
一体これは、何なのだろう。
僕が見たのは、書架に青年の体を押しつけ、首元に顔を寄せた美蓮の姿。
先ほどは荒々しく美蓮の頭をかき抱いていたのに、今やだらりと力なく垂れた腕。
恍惚としてぼんやりとした表情で、力なく書架にもたれかかっている。
いやいや、そうしたことには詳しくないが、普通は逆なのではないだろうか? 何故男子生徒の腰が砕けているのだ。それほどまでに美蓮のキスが上手いのか? となると、まさか清楚な美蓮が男性を誘ったとは思っていなかったが、そのまさかなのか?
とりあえず、止めに入るべき状況ではなかったようであることは察したが、逆に目が離せなくなってしまった。
美蓮は青年の首元に顔を寄せたまま、中々離れない。一体何をしているのだろう。思い当たる行動が何一つなく、ぼんやりと眺めていると、美蓮が青年から体を離した。頭を寄せていた青年の首元に、白く細い手を伸ばして拭うような仕草をした後、彼の脇に腕を差し入れてゆっくりとその体を座らせる。
青年は為されるがまま、書架にもたれかかり、ぐったりと四肢を投げ出している。ワックスでツンツンに固めた明るい茶色の頭も力なくうなだれている。図書館にも、美蓮にも不相応な色。どうして、美蓮は彼とキスを…
「これで、契約満了、だな」
青年を冷たく見下ろしながら、美蓮は奇妙な言葉を呟いた。
その時の美蓮の顔を、僕は一生忘れないだろう。
艶やかな黒髪が切り取る真っ白な横顔の中、一際鮮烈に輝く赤い唇と、—―瞳。
彼女の瞳は普段は穏やかな黒茶なのに。
まるで空に浮かぶ妖しげな赤い月。
常人ならざる輝きを宿して爛々と輝き、弧を描く。
普段の穏やかな微笑みからは想像もつかないような、凄絶な笑み。
恐ろしいのに、美しく。どうしても目を離すことができなかった。
「やれやれ。契約で安定的に食事できるようになったのはいいが、どうにも最近の若者は不味くて叶わぬな…」
美蓮はブレザーの胸ポケットから四角く折り畳んだ紙片を取り出し、左手に握ると、美蓮が右手で指を鳴らした。
「…!?」
「誰だっ?!」
彼女が右手の指でパチンと音を鳴らした途端、彼女の左手に握られたその紙片に青い炎が宿り、瞬く間に一片の灰も残さず消えた。非科学的な現象に戸惑い、僕は思わず大きく身動ぎして、持っていた本を取り落とす。ドサドサっと大きな音を立てながら本が足下に散らばり、慌てて身を屈めた大きな動きに照明が反応して灯りが付く。
ハッとして書架の向かいに目をやると、彼女は突然ついた照明に依然として赤いままの目を眇めながらも、鋭く辺りを睨みつけていた。
書架越しに、目が合った途端、僕はもう動けない。
夢見たような甘さの代わりに、射すくめられるような鋭さを伴って。
しかし何にせよ憧れの美蓮と初めて目が合ったのだ。
美蓮は僕の姿を認めると、足音を鳴らしながらやけにゆっくりと歩いて近づいてきた。僕は胸を高鳴らせてその瞬間を待つ。逃げようだなんて意思は働かなかった。怖いことは怖かったが、その冷たく恐れを喚起させるほどの美しさにただ震えていた。
艶やかな黒髪がベールのように下りてきて、美蓮は屈んだのが分かった。そうしてゆっくり僕と目を合わせる。その瞳は既に、いつもの穏やかな黒茶色に戻っていた。その事に安堵して、美蓮とこんなに間近で見つめ合っていることが信じられなくて、僕はやはり先ほど見た光景はただの夢だったのではないかと思う。だって今が夢のような奇跡過ぎるのだ。
「オマエ…イツカラ、ミテイタ?」
美蓮は細い眉をほんの少しだけ寄せながら僕に問う。のっぺりとした鈍く赤い光を放つ唇を凝視していたせいで、その音が意味を為すまでにかなりの時間を要した。しばらく経って美蓮の質問の意味を理解した僕は、はっとして彼女の唇から目を逸らす。
「み…見てませんっ! 何もっっ」
彼女の唇を見ていた事が、一瞬でも淫らな妄想をした自分が恥ずかしくて、僕は彼女から目を逸らし、視線を遮るように顔の前に両手を翳し、固く目を閉じる。美蓮のキスシーンを偶然見かけた当初よりも強く早く五月蝿く、鼓動が高鳴っている。何を考えているんだ僕は。煩悩滅殺、煩悩滅殺、煩悩めっ…
そのとき、僕の唇に、何か甘く柔らかいものが触れた。
「……!?」
形になった幻想に戸惑い、喜びに胸が高鳴って、手を外す。
「なんだ。全て見ていたのではないか?」
美蓮は悪戯が成功した子どものように微笑みながら言う。僕はその赤い唇をただ呆然と眺めている。
僕の唇に押当てられていたのは、彼女の白く細く長い人差し指だった。
美蓮はただクスクスと静かに笑っている。羞恥で顔が熱い。きっと僕の顔はトマトのように真っ赤だろう。
「な…」
なにを、と言葉を呟こうとしたが、彼女がより強く指を押し付けてきたので、声を為すことが叶わなかった。美蓮は悪戯っ子のように目を輝かせる。
「しーーーっ」
僕が見た事は全て内緒にしておけ、ということだろう。言われなくても誰にも言うつもりはなかった。未だに夢じゃないかと疑っているし、そもそも噂好きの友人なんて僕にはいない。返事を返せないのでコクコク、と頷くと、美蓮は笑いながらその指先を僕の唇から離した。
「いい子だ」
僕が名残惜しくその指先を追っていると、美蓮はあろうことかその指先を、自身の赤い唇に押当てた。
間接キス———。
その言葉が脳裏を過った途端、先ほどの妄想が爆発した。
狂おしく濡れた瞳。
蛇のように這う舌。
熱い吐息を漏らす唇。
「……っっ!」
僕は慌てて散らばった本をかき集めて、それ以上美蓮の顔を見ることができずに走り去る。
薄暗い書庫には僕の足音だけが響いていて、美蓮が僕を追ってくることはなかった。
彼女は何者なのだろう。戯れにあのようなことをするなんて、やはりあの男性とのキスも彼女が誘ったものなのか?
このときの僕は、自分が大切な異常を忘れていることにも全く気付いていなかった。
契約。青い炎。
唇に触れることで、美蓮は僕にも魔法をかけていたのだ。
***
「…美味しい」
私は、書架の影に踞ったまま、人差し指を咥えて歓喜にうち震えていた。契約を果たした代わりの報酬である吸血行動。見られた相手に忘却をかけるために、戯れに触れた唇。三食栄養バランスのよいものを食べているのだろう。ここしばらく味わったことのないほどの美味だった。
「間接的に触れた唇だけでこれなのだから——、その血を直接啜ったらどれだけ上手いのだろうな…?」
ぞくぞく、とその身を震わせて囁く。
「決めたぞ。私はあいつを、”餌”にする」
あいつの姿はこれまでに何度か図書館で見かけたことがある。きっとチャンスはいくらでもある。魅了するまでもなく、あいつは私に惹かれているようだしな。
しかし、私は契約を結ばないと吸血ができない。これまで長い間側にいたのに、あいつは私に声をかけてこなかった。となると、今後も難しいのではないだろうか。
「……おもしろいっ」
向こうから来ないなら私からアプローチしてやろうじゃないか。初めての試みに胸が高鳴る。何せ、私は吸血姫。これまではこちらから何もせずとも、男も女も簡単に釣れたのだ。
私はにやりと笑みを浮かべながら、珍しく鼻歌なぞ歌って書架を後にした。
「しーっ」が書きたくてやった。後悔はしていない。
栄養バランスよい食事という理由づけをしていましたが、好意を寄せてくれている相手の唇だから甘いとかいう裏設定があったら萌えるなぁ、と書いてて思いました。真相は闇の中。