転校偏 第04章 第03話 幕間・幼き兄妹の記憶
これは記憶。
幼い兄妹の記憶だ。
少女が泣いている。彼が、よく見知った少女だ。
かわいい妹。
かわいい双子の妹。
彼女が泣くのは、いつものことだ。いつも同じ理由。
彼らの父親だ。
彼の父親は最低の父親だった。
機嫌が悪いと、すぐに暴力に訴えた。意味も無く、殴られ、意味も無く蹴られる。
幼い兄妹には、ただ堪え忍ぶ以外の手段はない。
彼らの母親もまた、ただ堪え忍ぶのみだ。
母親は兄妹を守ってはくれない。
ただひたすらに、
「ごめんね……ごめんね……」
と繰り返すのみだ。
壊れたおもちゃのように。
そしてその最低の父親は、酒におぼれ、ギャンブルにおぼれ、金がなくなれば、そこら中から借りた。
金を返すのは母親の役割だ。
まだ幼い少年には、母親がいかなる手段で大金を得ていたのかは分からない。
しかし、まっとうな手段ではないだろう。
それくらいは分かっていた。
母親は美しい女性だった。
子供二人を産んだとは思えないほどに。
しかし、毎日どこかで水に触れているかのように、次第に肌は美しさを失い、
暴力で受けた傷のため、病院に行くことが出来ず、まともな治療を受けることが出来ない事が続いた。
そして、やがては、片足を引きずって歩くようになった。
そして、こんな目に遭いながら、母親は父親から離れようとはしない。
幼い兄妹にはその理由は、分からなかった。
後になって分かってみれば、それ自体久城研璽の仕掛けた事だったのだから、幼い兄妹がそれを知るわけがない。
母親が大けがをして働けない期間は、明日の食事どころか、今日の食事の心配をしなければならない日が続く。
働けるものなら働きたいが、幼い子供を雇ってくれる場所などありはしない。
たまに、幼なじみの伊織がくれるおやつが、唯一の栄養源だった。
しかし、その幼なじみにも会えなくなった。
幼い兄妹にも理由は分かる。
親から止められたのだ。
こんな家庭の兄妹と、友だちづきあいをしてはいけないと。
こうして、兄妹は、さらに孤独になった。
暴力は、父親の顔色を伺うことで、兄妹に向く分は軽減された。
足を悪くした母親はより一層の暴力を受けていたが、兄妹にはそれを慮る余裕はなかった。
しかし、着るものにも、食うものにも困り、そして、母親はとうに壊れてしまっていたため、話し相手は、お互いだけ。お互いが居れば、孤独にも耐えることが出来た。
兄は妹。妹は兄。
それだけの世界。
転機が訪れたのは、小学一年になり、兄妹がそろって誕生日を迎えた日。
母親は、かつての美しさを無くし、代わりに妹は、子供ながら美しく成長していた。
母親はすでに働くことが出来なくなっていた。
金も底をつき、日々の暮らしさえもままならない状況が続いていた。
そして、父親は最低の方法で、金を得ることを思いついた。
妹を売ること。
どこへ売るつもりだったのかは、今となっては分からない。
なぜなら――――
◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇
最愛の兄を失ってしまった少女は、孤独に暮れていた。
いや、完全に失っては居ない。恐らくどこかで生きているはずだ。
そうでないと、今度は自分が壊れてしまう。
その希望を持って生きていかないと、絶望に取り殺されてしまう。
しかし同時に、最低の父親からも解放された。
最愛の兄が、解放してくれた。
しかし、母親は壊れたままだった。
元には戻らない。
もはや、一言も話すことはなく、殻にこもってしまっていた。
解放されて、さらに壊れてしまった。
しかし、自分にとって残された唯一の肉親なのだ。
――唐突に目の前から消えてしまった兄を除いて。
居・食・住は改善された。
何も出来ない自分の代わりに、国が守ってくれた。
生活の心配をしなくてよくなった彼女は、母親を少しでも正気に戻すことにした。
何をしていいのか分からなかったので、とりあえず、彼女は毎日話しかけた。
「おかあさん、あのね―――」
「今日は、ハンバーグだよ。レシピは、クラスの子に――」
「今日の給食は―――だったんだよ――」
・
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「ねぇ、おかあさん、お兄ちゃんのこと覚えてる?」
そうした努力が実ったのか、ある日の夕方。
いつも通り、一言も話さない母親を連れて、近所のスーパーへ出かけたおりにそれは叶った。
「文寧……今日のご飯は、カレーにしましょうか」
これが、彼女が聞いた久しぶりの母の声だった。
◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇
母親が心を取り戻してから、数年経った。
心を取り戻しても、少女のように弱い心ではあったが、それでも人間らしい表情をするようになった。
足も、最新の《能力》を使用した治療によって、少しずつ快方に向かっていた。
そしてそんなある日。
彼女は、また一緒に遊べるようになった伊織との遊びに夢中になり、いつもの帰宅時間を大きく過ぎた時間に、自宅へと帰っていた。
自宅へから漂うのは、濃密な死のにおい。
数年前、兄が彼女を助けてくれた時に嗅いだ、血のにおいだ。
「――おかあさん?」
そこで、まだ幼き少女が見たのは、血だまりの中に沈む母親の姿だった。
そして、傍らに立つのは、盲目の男。
血に濡れた剣を片手に、叫んでいるのか笑っているのか分からないような声を上げている。
彼女は、来る死の予感を回避するべく、今まで隠し通してきた、超常の技を解き放った。
しかし、いくら強力な素養を秘めているとはいえ、何の教育も受けてはおらず、何の訓練も受けていない《能力保持者》が放つ電撃など、才だけは高いところにあるその男には、通用しない。
男は煩わしそうに彼女の電撃を防ぐと、彼が持つ血塗れの剣を振り下ろした。
しかし、望まぬ未来はやってこなかった。剣は、彼女に当たる寸前で止められていた。
男は、途端に興味を失った顔をすると、剣についた血をなめ取りながら、家から出て行った。
その間、彼女には何もすることは出来なかった。




