雨の日の迷子
これは、自分としては三作品目となる短編小説です。
どうぞ、おお楽しみください。
雨の日の夜に、僕はいつも通りの道を通って帰っていく。その日は、丁度学校が速く終わったので、午前中だけの授業を済ませて歩いていた。
空には、何か不吉な空気を漂わせる、どんよりとした雲が浮かんでいる。子供ながらに、再現悪雨を降らせるそれを見上げては溜息をついていた。
もうすぐ夏休みなので、肌を焼く日差しを感じながら、住宅街の中を歩いていく。ここは人通りも少なく、通っている中学校と駅の間に位置しているので、少し遠くに住んでいる生徒たちと出くわすこともあるが、その中でも外れのほうに位置している我が家に向かう道は、住宅街の真ん中を突っ切る大通りからはやや外れているので、帰り道はいつも独りになる。
と。
黒い傘をさした、少女が歩いていた。
少女と言っても、年齢は丁度僕くらい。一般家庭の住宅に挟まれた十字路の中央を右往左往している。手にしているのはメモの紙で、雨に濡れてしわくちゃだ。白いセーラー服と対照的に黒い傘は少し大きすぎるようで、その上半身の顔の部分が、隠れて見えなかった。
そのまま、通り過ぎていこうとする。別に声をかける義理も無いし、その暇もない……早い話が、ここで見知らぬ女の子に声をかけるのが恥ずかしいだけなのだが、この時ばかりは自分の心に素直に従ってしまった。
「すいません」
右手に柔らかい感触。振り返ると、その女の子が、傘の下から大きな瞳を覗かせていた。
いきなり女の子に手をつかまれたので、なんだか気恥ずかしさで視線を逸らしたが、彼女は目の前に回りこんでくる。観念して、少女に向き直った。
「なにか?」
「ここの道を、教えてください!」
今にも泣いてしまいそうな顔で、彼女は縋るように僕を見た。ここまで言われては、助けなかった僕が悪くなってしまう。
「ええと……?」
メモ帳を見ると、鉛筆で書かれていたであろう内容は、雨水で滅茶苦茶になっていた。溜息をついてそれを少女に突き返すと、彼女の瞳が震えた。
「あ、あの……」
「字が読めないよ。どこに行きたいの?」
その言葉に、彼女は黒い髪の毛を揺らした。よく見ると、彼女の制服は所々が濡れている。
「あ、ええと、第一病院です。ここから、どう行けば良いのか解らなくて……」
第一病院というと、ここから歩いて十分くらいのところだ。それを話すと、彼女はまたもや僕の腕を掴んでいった。
「では、そこまで案内していただけませんか?私、極度の方向音痴で……道を教えてもらっても、到着できる自信がありません」
「ああ、うん、わかった」
この時、自分でもなんで了承したのか解らない。ただ、言ってしまったことは言ってしまったことなので、道案内を始める。不思議と、嫌な気分はしなかった。
途中、彼女は不安そうな目で周囲をきょろきょろと見て、所在無い様に、視線を伏せる。それが気になって、先ほどから後ろをついてくる少女の左隣に移動した。
「なんで、第一病院に行くの?」
素朴な疑問からぶつけてみる。彼女は、一瞬きょとんとしていたが、すぐに俯いて話し始めた。
「その……お母さんが、入院してて……」
内心、舌打ちする。僕の馬鹿。こんな事情を聞きだして、どういうつもりだ。
「ごめん。そういうつもりじゃ、無かったんだ」
恥ずかしさで、僅かに顔を逸らして言うと、少女は笑った。どうしてそのタイミングで笑ったのか解らないが、その儚げな笑みを、僕は釘付けにされたように見つめた。
「いいえ。私は、大丈夫ですから」
そう、なんて気のない返事を返して、再び歩き続ける。
すると、どういうことだろうか。心の片隅で、この道が終わって欲しくない、なんて思ったのは。
最初に、無視して通り過ぎようとした人間とは思えない感情だな、と自嘲的な笑いを漏らす。少女は、それが気になったようだ。
「どうかしました?」
「いや、別に。ちょっと思い出し笑い」
くすり、と。またも彼女が微笑む。耳が赤くなるのを感じるが、まあそこはよしとしよう。
「そういえば、お名前は?」
「え?」
少女の問いかけに、まるで意味不明な言葉を言われたかのように反応する僕を見て、彼女は目を瞬く。
「お名前を、教えてもらって良いですか?」
「ああ。僕は、遠藤。遠藤、衛」
「遠藤さん?私は、牧野です。牧野、玲子」
「牧野玲子さん、か。うん、良い名前だね」
もう、彼女が笑うことが解っていたので、目の前に迫る病院に視線を戻す。第一病院、と大きく書かれた、その白い建物の玄関まで、歩く。自動ドアが反応して開いてしまう位置まで行って、ようやく、僕たちは向き合った。
よく見ると、彼女は綺麗だった。白い肌と、不釣合いなまでに黒い髪の毛は、真っ直ぐに、絹のような滑らかさを持って肩まで掛かっている。瞳は、まるで夜空のように黒く、見ていると吸い込まれて、自分がこの子の一部になってしまいそうなくらいだ。
「では、これで」
ぺこり、と、牧野玲子はお辞儀をする。その頭の上に、どういうわけか、僕はハンカチを載せた。
その行動の意味が解らず、牧野玲子は目をぱちくりさせている。やがて頭を上げて、自分の頭の上に載っていたハンカチを手に取ると、僕は言った。
「濡れてるでしょ?それ、上げるよ」
いきなりの言葉に、まだ彼女はぼうっとしている。後ろを向いて、僕は歩き出そうとした。
「それで、濡れてるところを拭いた方が良い。後……お母さん、元気になると良いね」
雨の中に、一歩踏み出す。ぱしゃん、とはねた水しぶきが足に掛かったが、どぎまぎした今の心境では何も感じない。雨の音も、どこか遠くに聞こえて、離れたところで、誰かが水遊びをしているみたいに心もとない。
そんな中、彼女の声だけが、聞こえた。
「遠藤さん、ありがとう!」
最期に、もう一度だけ振り返る。牧野玲子は、天使のような微笑で手を振っていた。
あれから十年。大人になった僕は、母が盲腸で入院したために、この第一病院へと来ていた。
天気は雨。この病院に来るだけで、彼女のことを思い出す。
雨の中、震えるウサギの様に、十字路を右往左往していた彼女を。
雨の中、母の病気で、今にも泣き出しそうだった、あの顔を。
ロビーから入って、そのまま受付へ。母の病室の在るのは三階だ。そこまで、階段を歩いていく。やけに長いように思える階段を上り終え、そのままの足取りで三回の面会受付を済ませ、病室まで歩く。首には、「第一病院三階面会者」と書かれた、名札がぶら下がっている。
そうして、病室のドアに手をかけたとき。
「遠藤さん?」
身体が硬直する。心臓は一瞬ストライキに入って、今度は猛烈な勢いで働き始めた。恐る恐る振り返ると、そこには、また雨に濡れた彼女の姿が在った。
「牧野さん」
感動で声がかすれる。彼女は、やはり綺麗だった。髪の毛は少し伸びて、身長も同じくらい伸びた。だけど、あの日に会ったときと同じ身長差だったので、何だかあの頃に戻った気がする。
「遠藤さん、お元気でしたか?」
それはもう、まるで病院の中に突然、お花畑が現れたかのような華やかさで、彼女は手を差し出した。迷うことなく、彼女の右手に自分の右手を重ね、握り締める。
「そっちこそ。今日は、どうしたの?」
「はい。今日は、なんとなく来てみただけなんです。何か、貴方に出会えるような気がして」
どきりとしたが、落ち着いて、深呼吸をする。僕たちは、十年来の再会の余韻で、そのまま立ち話を始めた。
「牧野さんは、なにかお付き合いしてる人とか、いるの?」
「いいえ。遠藤さんは?」
「俺もいないよ。強いて言えば、今までいなかった」
その言葉に、牧野玲子は心底驚いたようだった。
「遠藤さん、彼女できなかったんですか?」
なんだか恥ずかしくなって、顔を逸らす。
「出来なかったって言うより、作らなかったんだ」
きょとんとした顔。
「へえ……意外です。敢えて言うなら、私も彼氏さんは、できなかったんですけど」
今度はこっちが驚いた。
「おいおい、牧野さんほどの人が彼氏が出来ないわけないじゃないか」
その言葉に、彼女は、あの儚い笑みを浮かべた。
「いいえ。本当に、できなかったんです」
「……ふうん。それは、他の男たちがだらしなかったんだなぁ」
「遠藤さん」
呆けていた頭が切り替わる。やけに切迫した彼女の声が、僕を自然にそうさせたのだ。
「どうした?」
瞳を見つめる。本当に、不思議なくらい、やけに時間が長く感じられて……
「貴方が好きです。十年前のあの時から、愛していました」
ショックで何もいえない僕に、彼女はそう告白した。
「それだけが、言いたかったんです。それじゃ」
意識が急転する。目を開くと、そこは病室だ。真っ白な天井の中央には、丸型蛍光灯が取り付けられ、自分の寝ているベッドの横にはテーブルが置かれ、その上には花を挿した花瓶が置いてある。
「遠藤さん、遠藤さん」
「牧野……?」
首を横に向ける。そこには、牧野玲子ではなく、白衣を着た医師がいた。男性医師の隣には、看護師が二人、ファイルを抱きしめるようにして立っている。
「遠藤さん、聞こえますか」
「はい……これは、どういう……」
「記憶の混乱ですね。貴方は、一週間前に交通事故に遭ったんです。乗用車の正面衝突でした。脳にダメージを負っていたんですよ。でも、もう大丈夫。意識が戻ったということは、脳に異常が無い証拠です。今度から、記憶障害などを確かめる試験が―――」
医師の言葉が止まる。僕が、彼の腕を掴んだせいだ。その行動に、看護師二人も驚いた顔をしている。
「先生、牧野は?牧野玲子はいますか?」
その言葉に、医師は眉を吊り上げる。反射的に看護師二人を見やると、彼女たちも頷いた。
向き直った医師は、哀しそうな表情を浮かべた。
「牧野玲子さんは、二年前、この病院、この病室で亡くなりました。貴方と同じ、交通事故です。そのときの担当医が、私でした」
頭を、プロボクサーに殴られたかのような衝撃が走り、その後のことは余り覚えていない。
気づけば、僕は雨の日に退院して、ロビーの前に立っていた。
ロビーの、傘たてにささっている大きな黒い傘を見て、あの日のことを思い出す。
あの儚い少女は、この病院で死んだ。交通事故で。僕に、もう一度会うことなく。
その時、ふと思った。彼女は会いに来た。自分と同じ境遇の僕の目の前に、もう一度現れてくれたじゃないか。
頬を涙が伝う。雨の日、僕は傘をささずに帰った。涙は雨と混じりあい、そのまま排水溝へと流れていく。
彼女に、もう一度会いたかった。好きだと伝えたかった。だけど、今はもう叶わない。
あの一日の出来事に、かえりたくて仕方が無かった。けれど、物事は巻き戻せない。それが、どうしようもなく、ただ哀しかった。
一人、雨に打たれて帰る男の耳には、いつまでも、儚い音を響かせる、雨の協奏曲が流れていた。
いやあ、書いてて心が和みました。
この作品が、皆さんの心にしみこむ、雨の一滴でありますように。