銀河鉄道は来なくとも
あと一歩、あと一歩―。
見下ろすビル群から吹き上げてくる風は、俺を煽るように、そう言っている。
「あと一歩」足を前に進めることができれば、俺はこの腐った地上に真っ逆さま。この世を去ることができる。視線は遠く、摩天楼の明かりが成す、光の絨毯を見渡す。ロマンティック、ミステリアス、センチメンタルだのの言葉を、俺は微塵とも思い起こさない。 無感動――ハード・ボイルドとでも訳したら少しは恰好がつくだろう。
『ロング・グッドバイ』のフィリップ・マーロウは云った。
「人はタフでなければ生きてはいけない」
――事実、俺はタフではなかった。
ネオンサインを見ながら死んでゆくのも悪くはない。意識がシャットダウンすると同時にネオンは消える。まるで自分の命の灯火を見るように。
俺はその場に腰掛けると、両足を中空に投げ出してセブンスターをくわえた。煙草の煙が一瞬、夜と重なるがすぐ風に掻き消される。
「煙草を一本ちょうだいしてもいいかしら?」
耳に痛いほど透き通る声――振り返ると女がいた。
短めの黒髪、キャメルのロング・コートに身を包み、俺の隣に腰掛ける。もちろんここは超高層ビルの屋上。時間は真夜中1時――なぜ?
女に煙草を渡した。金のライターで火を点けてやると、どうもありがとうと彼女は言った。 俺は突然現れたこの女を人生最期の話し相手に選ぶか否かを葛藤していた。
「あなた死のうとしているの?」
取り留めもなく女は俺に訊いてきたが、俺は答えたくなく、閉口したままじっと前を見据えていた。
「自殺志願者じゃなかったら、ジョバンニみたいに銀河鉄道待ってるとか? もしくはチャネリング? まあ、いずれにしてもまともじゃないみたいね」
女は小さく笑って煙を吐き出した。
俺は考えるのを止め、立ち上がった。幻想でも見ているのだろう。いやな幻想だ。まるで俺が死をためらっているかのような。
俺は街の喧騒を見下ろすと、生の淵に向かってじりじりと足を滑らせる。足が震えるのがわかる。二十センチメートルほど足を滑らせただろうか、幻想の女は突如話しだした。
「私この前、猫の国に行ってきたわ」
猫の国? 俺の頭に強く響く。
「あなたも行ったらいいわ、猫の国。そこではね、働いてると軽蔑されちゃうの」
女はすっと立ち上がり、俺に言った。
「明日のこの時間に、ここで待っていてくれれば、私が迎えにくるわ。猫の国に連れて行ってあげる」 そして俺の横を擦り抜けると、造作なくビルからひょいと飛び降りた。
俺は思わず息を呑んで、遥か遠く地上の道路を見下ろした。しかしそこに女の姿はなく、沈んだ暗闇に車のライトが幾多も浮かび上がっているだけだった。
横に残る煙草の吸い殻だけが紅色の淡いルージュを残して、わずかに煙をくすぶらせている。
それだけが、今は現実。
俺は再び、視線を摩天楼へ戻す。
街のどこかから聴こえてくるルイ・アームストロング。曲の名前は忘れてしまったけど、それは狂おしいほど俺の体に染み入る。
――ルージュ?
――幻想?
――猫の国?
俺は踵を返し、夜空を仰いだ。都会の空が近い。星はわずかだが、その光を懸命に湛えている。
猫の国――行ってみるのも悪くない。
別のサイトに一度出したのですが、自分の手違いで消えてしまったので、
今一度投稿してみました。