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第一話:五男坊Mother Nature’s Son

友人と雑談をしているうちに、異世界ファンタジーを書きたくなりました。

この物語には特定の主人公が存在しません。

異世界が舞台ではありますが、勇者も、魔法使いも、エルフも、ゴブリンも、オークも、ドラゴンもいません。

転生者もいなければ英雄もいません。悪役令嬢もおそらく出て来ません。

チートも無双もありませんし、ザマァ展開もありません。

ただただ、とある異世界の姿を様々な立場から描写するだけのお話です。

感情移入できる登場人物が一人でもいることを願うばかりです。

 神聖皇帝紀元二千六百八十六年のこと。北方の辺境近いナハルストニの()は数年ぶりの豊作だった。

 しかし里人の表情は冴えない。

『過去五年間の未納分を併せて徴収する』

 この御触書の所為だ。


 里の東の端っこの狭い畑の中で、大きな籠を背に鎌を振るって麦を刈り取る数人の農夫たち。その中の、一番若い一人、ベンハミシーが腰を伸ばして額の汗を拭った。

 見上げるとどこまでも青い空の中を、大きな鳥のようなものがゆっくりと横切って行く。銀色に輝き、羽ばたかずに飛ぶ異様な姿も獣のような唸り声も、毎日のことなのでもはや驚きはない。

 誰かが言っていた。あれは空を飛ぶ乗り物で、中に人が乗っているらしい。

 本当だろうか。

 本当なら俺もいつか乗ってみたいものだ。あんな高いところから地面を見下ろすのはさぞかし気分が良い事だろう。

 だがそれは叶わぬ夢だ。ベンハミシーも嫌というほど知っている。

 彼はエレズガドル家の五男坊。

 エレズガドル‐ベンハミシーなんて大層な名前に聞こえるが、エレズガドルは土地の言葉で『杉の大木』を指す。杉の大木のそばに代々住んでいるからそう呼ばれるようになっただけのことだ。

 そしてベンハミシーとは五男坊という意味。

 これは通称であって本名ではない。文字通り名もなき庶民なのである。

 一昨年に親父が死に、長兄エハドが後を継いだ。次男以下には何の取り分も無い。これからは長兄とその嫁に追い使われる奴婢として生きるしかない。

 エレズガドル家が豪農ならともかく、里でも一二を争う貧農なのだ。他の里へ婿養子に言った三男、嫁に行った二人の姉たちはまだ幸運な方だろう。


(俺は生涯この里で畑を耕すだけで終わるのか。嫁を貰うことも出来ず、肉も喰えず酒も飲めず、粟の粥だけを啜って……)


 ベンハミシーはもう一度空を見上げた。あの大きな鳥は山影の向こうへ姿を消すところだった。

「こらッ! 怠けるんじゃねえ! 死ぬまで働け、働かねえなら死ね!」

 畔の方から怒鳴り声が聞こえ、ベンハミシーは思わず首をすくめた。声の主は言うまでも無くエハドだ。


(親父はまだ優しい方だったな)


 怒鳴るのは変わらないが、まだ声の中に温情があった。それに比べて兄貴はどうだ。

 ベンハミシーは再び腰を屈め、無表情のまま鎌を振るい始めた。

 収穫を祝う祭りの日が来たが、祝うどころではない。せっかくの稔りを根こそぎ年貢に取られて、不作だった去年より苦しいくらいだ。

「どうも(いくさ)(ちけ)えらしいぞ」

 里長(りちょう)の一人息子・ヤヒルが訳知り顔で言う。ヤヒルはベンハミシーより一つ年下だが、立場を鼻にかけて威張り散らす嫌な奴だ。もちろん里の娘たちからはモテモテである。

「南のタハウは今年も不作らしいからな、こっちの収穫を狙ってるって話だ。徴兵が始まるって隣の里長も言ってた。おいハミシー、お前みたいな穀潰しは真っ先に前線送りにしてやるからな!」

 ヤヒルとその取巻きたちがゲラゲラと笑う。

 ベンハミシーは反応しなかった。どんな理由があっても、里長の息子相手に怒ったら負けなのだ。


 そして三日後、ベンハミシーは本当に徴兵された。

 郡役所からの通達は『里一つにつき十五歳以上二十五歳以下の強健な男子を十二名、但し家長及び後継ぎは除く』だった。

 この国の制度では二十五世帯をひと単位として『()』と呼ぶ。人口は凡そ百から二百。そこから貴重な労働力を十二人も連れて行かれるのだ。

 里の負担がどれほど過酷なものか想像していただきたい。

 しかも郡役所までの旅費は自己負担なのである。

 幸いにしてナハルストニから郡役所のあるナハル‐ヤベシュ‐ガドルまでは徒歩一日の距離だ。

 夜明け前、三食分のパンと干し肉、更に三日分の粟を持たされ、他の十一人とともにベンハミシーは旅立った。

 エレズガドルの次男と四男も一緒だ。

 長兄エハドは歓喜して彼らを見送った。体の良い厄介払いが出来たのだ。嬉しくないはずがない。

「もう帰って来るな」

 言葉にこそ出さないが、本音が顔に出ていた。

 里長の屋敷の前を通り過ぎる時、ヤヒルは門の前に立っていた。ベンハミシーと目が合った時、彼は舌を出し、両手を顔の横に広げてひらひらと振った。


 街道を歩く十二人の足取りは重い。それはそうだ。彼らは今、死地に向かって行進しているのだ。

「俺たちは地獄へ向かっているんだ」

 兄たちが嘆く。

 生きて帰れるだろうか。戦そのものは無論のこと、軍というものは過酷な場所だと聞いている。特に徴用の新兵にとっては。

 だがその中にあってベンハミシーだけが明るい顔、弾むような足取りで歩いていた。

 生まれて初めて見る里外の景色が珍しい。

 おまけに麦で焼いた本物のパンと、年に二度の祭りの時にしか食えない肉(保存用の干し肉だが)を持っているのだ。

 嚙み締めた干し肉の塩気と油は舌が溶けるかと思うほどの絶品だった。パンと合わせると更に美味だ。


(生きていて良かった)


 洒落や冗談でなく、ベンハミシーは本気でそう思った。


 日が暮れる頃、郡役所に到着した。

 篝火が燃える前庭には同じような徴用兵が大勢集まっている。役人が彼らの出身地と名前、人数を確認している。

 これほど大勢の人間をベンハミシーは見たことがない。


(いったい何人くらいいるのだ……)


 ナハル‐ヤベシュ‐ガドル郡には百を超える里が連なっている。そこから十二人ずつが集まれば千二百人以上になるが、学の無いベンハミシーにはそんな計算は出来ないし、数字の感覚どころか十を超える数を数えられない彼には概算すら出来ないのだった。


 点呼が終わると更に兵営へ移動し、整列させられた。古参兵らしいのが動きが遅いと言って怒鳴り散らしているが、兄貴に比べれば可愛いものだとベンハミシーは思った。

 古参兵一人につき四人の新兵が集められ、伍という隊を作る(ここら辺は「キングダム」でお馴染みだろうから説明は省略する)

 伍は基本的には同郷の人間を集めて作られる(だから十二人という四の倍数で徴兵されるのだ)が、ベンハミシーは二人の兄とは離ればなれになってしまった。心細いが仕方がない。意見を言える立場ではないのだ。

 その日は伍ごとにテントを張って就寝となった。明日から訓練が始まるそうだ。訓練は三日間だけ。その間は持参した食糧で食い繋がなければならない。


 夜が明けると同時に朝食。素早く火を起こし、粟を煮て流し込むように飲み込む。ぐずぐずしていると伍長が怒鳴り出す。

 初日の訓練は行軍だった。槍代わりの棒を抱えてひたすら歩く。隊列を少しでも乱すと古参兵から怒鳴られる。

 慣れるに従って足が速くなる。列を乱すなと檄が飛ぶ。


 昼食をとる。ベンハミシーの隊の伍長はすぐに怒鳴る怖いやつだと思っていたが、その日はどこからか兎を捕まえて来て皆に振舞ってくれた。


「どうだ、旨いだろう?」


 初めて見る伍長の笑顔は人懐っこく、目尻の皺に愛嬌があった。

 昼食が終わると戦闘訓練が始まった。

 まだ本物の槍を使える段階ではないので、先端に重りを付けただけの棒を使って型稽古をする。

 二日目の午後からは本物の槍を支給された。その重さと鋭さに、ベンハミシーも戦というものを実感して少しだけ怖くなった。

 訓練では号令に従うこと、集団で動くこと、勝手に動かないことを徹底的に仕込まれた。

 物心ついてから農作業以外経験の無いベンハミシーにとってはまるで遊びのように楽しかった。それが殺し合いの訓練なのだとしても。

 小休止の度、あちこちの伍では泣く者や故郷の話をして怒鳴られる者、無言で俯いたまま食事も摂らない者が散見されたが、彼には理解できなかった。


(何故泣くのだ? こんなに楽しいのに)


 四日目の早朝。出立を前に兵糧の支給が始まる。堅焼きのパンとコンビーフ。初めて見る缶詰に戸惑うベンハミシーに、伍長が大笑いしながら開け方を教えてくれた。

 世の中にこんな美味い食べ物があったとは……。干し肉も美味かったが、コンビーフはそれを遥かに上回る。

 美味いだけじゃなく、量も十分過ぎるほどだ。

 久し振りに腹一杯になったベンハミシーは満足げにほほ笑んだ。軍隊というのは、もしかしたら天国なのではないだろうか。


 整列の号令がかかる。いよいよ戦場へ向かうのだ。だがまだ実感が湧かない。私語は禁止され、隊列を組み歩調を揃えて歩く。

 隣の列に街出身の兵がいた。歩き始めてまだ小半時しか経っていないのに、早くも死にそうな顔をしている。

 一方でベンハミシーを始めとした農村出身組は余裕綽々だ。

 前線の城まで十日掛かると言う。


(ずっと行進が続けば良いのに)


 ベンハミシーは願わずにいられなかった


 途中何度か雨に降られ、二つの城を通り過ぎてナハリム‐ビツォ城に到着した。大きな城だった。

 これで野宿が終わる、屋根の下で休める……と思っていたら、また「行軍隊形に並べ」のラッパが鳴った。


(また歩くのか。ここが目的地ではなかったのか)


 流石に兵たちもざわつき始めた。それを百人隊長が叱咤して鎮める。

 千人将以上の者しか知らないが、途中で見た二つの城が既に敵の手に落ちたのだ。ここに集まった一万の軍が、最前線で孤立してしまったことになる。

 干上がる前に城と補給線を取り返さなければならない。時間が無かった。たった今到着した補充部隊の兵糧は既に底をついている。

 二日分の携帯食料を受け取り、足りない分は敵から奪えと言われて再び彼らは歩き出した。


(これが戦というものか)


 改めて現実の厳しさを味わうベンハミシーだった。


 速足で行軍すること二日。

 日が落ちた頃に、五日前に見たケツェ‐ハビーツァの城下に辿り着いた。手持ちの食料は既に食べ尽くし、皆疲労困憊である。

 せめて小休止を……と思ったが、直ぐに城攻めを始めると下知が飛んだ。

 訓練通り、横隊の陣を組む。

 伍長が顔をしかめた。経験豊富な彼は、この作戦が如何に愚策か解っている。しかし彼らの立場では服従以外の選択肢がない。

「そんなにビビるなよ、ベン・ハミ」

 伍長は無理に笑顔を作ってベンハミシーの肩をポンと叩いた。

「俺達には攻城戦の装備が何もない。出来ることは歩兵が鬨の声を上げて、弓兵が矢を射掛ける程度だ」

 少なくとも今日ここで死ぬことはなさそうだ……とベンハミシーは思った。

「夜戦では城兵が出て来ることはないからな。まあせいぜいお務めを果たそうぜ」

 伍長が笑った、その時である。

 強い光が彼らの上に降り注いだ。目を細め、手をかざして見れば城壁の上から幾つものサーチライトがこちらの陣を照らしているではないか。

 戸惑っているうちに城門が開いた。

 中から出て来たのは歩兵ではない。三本足の、奇妙な怪物だった。

 背丈は人の三倍くらい。細い足の上に、銀色に鈍く光る丸い頭のようなものが乗っかっており、目玉が一つついていた。

 その頭の下の部分からは鞭のような、あるいは縄のようなものが何本も垂れ下がっていた。

 そのうちの一本の先には四角い箱のようなものが付いており、それが頭と同じ高さに掲げられていた。

 そういう化け物が、全部で三つ出て来たのだ。

 余りの不気味さに陣が静まり返った。


 突撃ラッパが鳴り響いた。敵陣からではない。

「正気か?」

 思わず伍長が叫ぶ。指揮を執る五千人将は、開いた城門に突入するつもりなのだ。そこには当然敵兵が待ち構えていると思うのだが……。

 だが命令は命令だ。援護の矢が飛ぶ中、歩兵部隊が駆け足で進軍を始める。

 ベンハミシーの伍は先頭の百人隊の一番後ろだった。


(一番前よりはマシなのか……。だがここで手柄を立てれば俺も出世できるのだろうか。千人将とは言わないまでも、伍長とか什長くらいにはなりたいものだ)


 そんな余計なことを考えていたせいだろうか、ベンハミシーは石ころか何かに蹴躓いて転んでしまった。

 このままでは後続の兵に踏み潰される。恐怖から必死に顔を上げるベンハミシー。伍長が何か叫ぼうとしたその時、サーチライトを遥かに上回る、目も眩むような閃光と肺腑を圧し潰すような衝撃を感じた。

 ベンハミシーの意識はそこで途切れた。


 肌寒さに目を覚ました時にはもう夜が明けていた。衣服は夜露に濡れ、全てが夢だったような気がした。

 周りを見渡すと、そこかしこに消し炭のようなものが転がっている。あれは何なのだ。人の形をしているように見えるが。

「オイ、ごいづ生きでるべよ(こいつ生きているよ)」

 聞き慣れない、訛りの強い声が背後から聞こえた。伍長や味方の兵のものではない。

 ギョッとして振り返ると三人の敵兵がいた。髭面で、如何にも獰猛そうだ。槍を探したがどこにも見当たらない。まあ見つけたところで何が出来る訳でもない。今は成り行きに身を任せるしかなかった。


 後ろ手に縛り上げられ、連行されるベンハミシー。向かう先は故郷とは反対方向。

「女だら高ぐ売れだべなあ(女なら高く売れただろうなあ)」

「だどもごいづ若えがら、そごそご値ぇ付ぐべ(だけどこいつは若いから、それなりに良い値段が付くだろう)」

 城に戻らず、ひたすら歩き続ける三人の敵兵たち。手持ちの食料が乏しくなると略奪に走る。

 何日かするとベンハミシーにも解って来た。彼らは軍を逃げ出し、勝手に帰るところなのだ。そしてベンハミシーを売って儲けるつもりなのだろう。

 捕虜が奴隷として売られるという噂は彼も聞いたことがある。


(手柄を立てるどころか奴隷とは。まったく、やれやれだぜ)


 ナハリム‐ビツォの城下を通り過ぎた。この城ももう敵のものになったらしい。

 自分が奴隷にされることに、ベンハミシーはこれといった感慨を抱かなかった。どうせ里でも奴隷みたいな生活だったのだ。

 故郷に帰りたいとも思わなかった。帰ったところで今より状況が良くなるとも思えない。未練はなかった。

 ただ一つに気がかりは一緒に従軍した二人の兄、ベンシェニとベンレヴィのことだ。彼らはどうなったのだろうか。


(まあ生きてはいるまい)


 そう思いつつも、どこか諦めきれないものがある。口に放り込まれた黍団子を咀嚼しながら、ベンハミシーは空を見上げた。

 あの大きな鳥がゆっくりと旋回していた。


 十日間歩いて港に着き、そこで奴隷商人に引き渡されて船に乗せられ、更に三日。大きな街に着いた。

 ここは都なのだろうか。ナハリム‐ビツォの城が小さく感じるほどだった。

 戦をしているわけでもないのに、売り買いをする人々の喧しさ。これが(いち)というものか。目に入るだけでいったいどれだけの人数がいるのやら。郡役所に集まった兵よりも遥かに多いだろう。

 こんな世界があるんだなあ。

 鉄の首輪を着けられ、鎖に繋がれて、ベンハミシーは筵の上に座らされた。ここで買い手が現れるのを待つわけか。

 俺を買うのはどんな人だろう。誰でもいいが、意地悪な人でなければ良いなあ。

 ベンハミシーの関心事は今やそれだけだった。


 見回すと売りに出された奴隷は他にも大勢いる。やはり戦争捕虜が多いようだ。女や子供もかなりたくさんいる。彼らはどこから連れて来られたのだろう。

 皆恐怖や悲しみに満ちた表情で、怯えながら粥を啜っている。ベンハミシーのように微笑みさえ浮かべているものは一人もいない。

 空腹を感じ、ベンハミシーも粥を一口食べてみた。


(美味い!)


 干し肉やコンビーフほどではないが、粥を美味いと感じたのは初めてだ。よく見ると、ナハルストニで食べていた粟より粒が大きいし色も白い。


(なんだろう。これは粟でも麦でもないようだが)


 都会では奴隷の食事も里の農夫より豪勢なのか。

 粥を食べ終えた時、彼の上に影が差した。見上げると奴隷商人が一人の客を連れて立っていた。でっぷりと太った商人の、下卑た笑顔。どうにも不愉快だ。客は小鳥のように色鮮やかな服を着ていた。

「どうです。ご注文通りの品でございますよ」

「おい、立て」

 客に言われ、ベンハミシーは立ち上がった。

「ふむ。体は強そうだし、顔立ちも悪くない。これなら(あるじ)にもご満足いただけよう」

 客は金袋を商人に渡し、商人はいよいよ相好を崩した。

「へっへっへっ、毎度ありィ」


 荷車に乗せられ、運ばれて行くベンハミシー。牛馬も無しに動く車なんて初めて見る。

 着いたところはこれまたお城のような大きな建物だった。

 初めは本当に城だと思った。しかし城壁がないし、城門も無い。中に入っても兵士の姿が見えない。

 ここが個人の家だと知ったのは奴隷小屋に入ってからだ(その奴隷小屋でさえ、故郷の家よりずっと立派だったのだが)

 白髪の奴隷頭(どれいがしら)・アントニオがいろいろと教えてくれた。

 ここがオストリヒ‐ハウプシュタットという、四大陸で最も栄えている場所であること。

 この屋敷はカイネ‐ライスフェルダ様という大地主の別邸であること。

 この屋敷だけで自分も含めて二十人の奴隷がいること、彼もまた戦争捕虜だったこと、南のカパラルガの出身であること、粗末な食事で重労働をさせられていること……等々。

 明日からはお前も働くことになる、着替えて飯を済ませ、今日はもう寝てしまえとアントニオ。

 手渡された煙管服という上下が繋がった衣服は、生地は厚いが柔らかく着心地が良かった。

 食事は市で食べた粥と同じ白い粒だが、今度は丸い塊になっている。それが板の上に乗り、肉……だろうか? オレンジ色の何かが一切れ添えられていた。ところどころに塩の塊がこびり付き、木目のようなものが見え、片側の皮の部分には焼け焦げがある。

 近くにいたもう一人の奴隷に聞いてみる。

「これは何?」

「ラックスだ。知らんのか?」

 初めて見る、そして初めて聞く食べ物。嚙り付いてみると塩辛いが脂が乗って旨かった。もしかしたら、これが魚というものなのかも知れない。

 白い塊はまだ温かく、指にしっとりと張り付いた。食べてみると、粟にはない粘り気と弾力。しかも噛むほどに甘みが増す。ずっと咀嚼していたいような、早く飲み込みたいような……。

 二口目を食べると、何か赤いものが出て来た。

 恐る恐る食べてみると……舌が痺れ、体が縮み上がるほどの酸っぱさ!

 びっくりして吐き出しそうになったが、勿体無いのでそのまま飲み込んだ。なんだか疲れが消えていくようだった。

 指先に残った粒を、舐め取って飲み込む。これがまた実に美味い。

 アントニオ爺さんは『粗末な食事』と言った。これがそうなのだろうか? こんな美味い物なら毎日でも食いたいんだが。

 翌日から始まった労働も、想像とは大いに違った。

 ベンハミシーは里にいた頃、麦が詰まった大袋4つを同時に担いで里の端から端まで毎日歩いていた。

 ここでは荷車で運ばれて来る箱や袋を降ろし、台車に乗せて屋敷に運び入れ、色分けに従ってそれぞれの部屋や小屋に持って行く。

 ただそれだけだ。それだけのことで、あの美味い飯が毎日食えるのだ。


(こりゃあ軍隊よりいいかも知れん……)


 ほくそ笑むベンハミシー。だが顔には出さない。うっかり『楽だ』などと口走り、もっときつい仕事をさせられては敵わない(無学な男とはいえ、その程度の知恵は回るのだ)


 そんなこんなで三年が過ぎた、ある日のこと。

「おいハミシー、執事さまがお呼びだァ」

 突然のことに脅えながら、アントニオ爺さんと一緒に奴隷小屋を出て本館の裏口に回る。そこには使用人の監督が使う小さな部屋がある。監督は時折り見かけるだけの、長兄と同じくらいの年代の男だ。

 執事とは、三年前彼を買い取ったあの男だった。

「ベンハミシーをお連れいたしやした」

 アントニオが言うと、執事は監督と顔を見合わせ、後は任せたと言って立ち去った。

「アントニオ、お前も下がって良いぞ」

 監督に言われ、爺さんも部屋を出る。

 いったい何なのだ。偉い人が俺に話とは。

「御用でごぜえますか」

 つい声が小さくなり、腰を屈めてしまう。

「ついて来い」

 遅れないように歩く。初めて会話したが、監督はあまり愛想のある人間ではないようだった。

 庭の片隅に小さな小屋があった。以前から目にしてはいたが、何に使われているのか判らなかった小屋だ。

「お前は今日からここに住め」

 中に入ってみると女がいた。驚いて監督を見る。

「その女と住んで、子を作れ。ご主人様のご意志だ」


 しばらくの間、ベンハミシーは呆けていた。


(この俺が……戦争捕虜で、奴隷の身の子の俺が? 女と住んで子を作るだと?)


(つまり、この女は俺の嫁なのか? 俺は、嫁を貰えるのか?)


 なんという幸運だろう。里の貧農の五男坊が、軽い労働で毎日美味い飯を食って、飢える心配も無く、怒鳴られることも無く、その上嫁だと……?

 女は(名前をプルムプアンという。親も奴隷で、南の方から売られて来たそうだ)美人ではないが気立てが良く、笑うのも笑わせるのも好きな気立ての良い女だった。

 これは夢なのか……夢なら覚めないで欲しい。

 俺は……俺は今、最高に幸せだ!


 それから何年経ったことだろう。

 アントニオ爺さんは疾うの昔に亡くなり、今はベンハミシーが奴隷頭だ。

 プルムプアンとの間には息子と娘を二人ずつもうけたが、みな売られて行った。寂しいがこればかりは仕方がない。奴隷の子とはそういうものなのだ。

「おいベンハミシー! 匿ってくれ! 悪い奴らに追われているんだ!」

 夫婦の昼餉を遮り、小屋の入り口の筵を跳ね除け飛び込んで来た少年はニーデリヒ。主人・カイネ‐ライスフェルダの孫である。

「なーにが『悪い奴らに追われている』ですかい。また授業をサボりましたな?」

「仕方ないだろ。僕には難し過ぎるんだよ、算術なんて」

「坊ちゃんはいずれ儂らのご主人になるんですから、学問をしていただかにゃ困りますなあ。さあ、先生が来る前に戻りなされ」

「ちぇー。ベンハミシーなら解ってくれると思ったのにー」

 少年は頬を膨らませながら小屋を出て行った。

 中断された昼餉を再開しようとした時、小屋の入り口よりも背の高い男が入って来た。ニーデリヒ付きの家庭教師・リーゼェだった。軍人上がりの、気のいい男だ。

「やあベン・ハミ、飯時に済まない。ニーデリヒが来なかったかね?」

「ああ、少し前に見えましただ。あっちの方に逃げて行きなさったよ」

「ありがとう。今度差し入れをするよ」

 そう言ってリーゼェは走り出した。ニーデリヒが捕まるのも時間の問題だろう。

「あんた、早く食べちゃいなよ。時間が無いよ」

 ニーデリヒたちを見送るようにいつまでも外を見つめるベンハミシーにプルムプアンが声を掛けた。

 ベンハミシーは諦めたように再び匙を取った。


  (第一話:完)


第1話、お楽しみいただけたでしょうか。

ベンハミシーの出番はこれで終わりですが、今後どこかでちらりと顔を出すかもしれませんが、今後の展開は考えていません。

落としどころも見えていません。

ゆるゆると続けて行きたいと思っていますので、気長にお付き合いください。

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