第4章 ──眠りの病
その朝、空は鉛色だった。
雨の気配を含んだ風が、通りの端をゆっくりと流れていく。
わたしは、母の部屋の前で立ちすくんでいた。
扉の向こうから、父の声がした。
「……カレン、医者が言っていた。
母さんの熱が、今度は下がらないかもしれない」
息が止まった。
聞こえてくる呼吸が、あまりにも浅い。
母の顔は白く、唇の色はほとんど残っていなかった。
「……嘘でしょ」
「このままだと……長くはもたない」
父の声も弱々しかった。
もう何日も眠れていないのだろう。
昼すぎ、店のベルが鳴った。
来ると思っていた。
ノアだ。
彼はわたしの顔を見た瞬間、何も言わず、ただ静かにうなずいた。
「……お母さん、悪いんですね」
「うん。……もうどうしようもないみたい」
「何か、できることがあるかもしれません」
「……ないよ。薬でも治らないの」
そう言いながらも、
ノアが何かを言いたげに、胸元のノートを握りしめているのに気づいた。
「ノア、それ……」
「これに、書いてあるんです」
ノアはページを開いた。
滲んだ文字の隙間に、小さくこう書かれていた。
“レクイエム・ブリュレ ──炎が魂を鎮め、命を呼び戻す”
その瞬間、心臓が跳ねた。
やめて、と思った。
それ以上、その名を出さないで。
「……やめてよ」
「でも、試す価値がある。カレンさんの力なら──」
「違う!」
叫んでいた。
涙が滲んで、視界が揺れる。
「……あれは、人を救う炎なんかじゃない。
あの日、わたしが村を焼いたの。
家も、友達も、全部……!」
ノアは沈黙した。
けれど、わたしの言葉を否定もしなかった。
ただ、静かに目を閉じて、息を吸い込む。
「カレンさん」
「……なに」
「その炎は、焼き尽くすための炎じゃないはずです」
「……どういう意味?」
「全てを焼き尽くす炎なら、あなたも消えていたはずです。
でも生き残った。
それはきっと、まだやり直せるってことなんです」
ノアの声が、雨の音に溶けるように響いた。
その優しさが、今のわたしには痛かった。
夜になり、母の呼吸がさらに浅くなった。
冷たい手を握りしめながら、
心の奥で何度も自分に言い聞かせた。
──もう二度と、あの炎は使わない。
──もう何も失いたくない。
けれど、目の前の母の命が小さく消えていこうとしているのを見て、
その誓いが、少しずつ崩れていった。
「……助けたい」
声にならない声が、喉から漏れた。
「お願い……もう一度だけ……」
そのとき、
扉の外で、ノアの声がした。
「……レクイエム・ブリュレ。
カレンさん、あれは“死を拒む”炎です」
ノアのノートの中に、もうひとつだけ残された言葉があった。
“炎を正しく灯す者が現れたとき、
レクイエム・ブリュレは命を繋ぐ炎となる。”
それを見た瞬間、
心の奥で、何かが静かに“カチリ”と動いた。
わたしは震える手で、古びたレシピノートを取り出した。
母の字で書かれた文字。
その隣に、幼いころの自分の落書き。
焦げ跡が残るページ。
涙があふれた。
その時、ノアがそっと、わたしの手に触れた。
「……もう、きっと大丈夫です」
「でも……」
「大丈夫。僕が隣にいます」
その言葉が、不思議と胸に沁みた。
あの夜とは違う。
ひとりじゃない。
わたしは小さく息を吸い込み、
炎を灯した。
ぱち。
静かに、やさしく、青い光が揺れる。
その炎はもう、あの日の狂気の色じゃなかった。
柔らかく、包み込むような光。
「……これが、“レクイエム・ブリュレ”」
手の中の炎が、母の胸の上にそっと落ちた。
焼ける匂いはなく、ただ光だけが広がっていく。
ノアが、息を呑む。
やがて、母の指が、かすかに動いた。
「……お母さん……!」
その瞬間、涙がこぼれた。
炎の光の中で、母の頬に色が戻っていく。
レクイエム・ブリュレ──
それは、焼き尽くす炎ではなく、命を繋ぐ炎だった。
「……ノア」
「はい」
「……ありがとう」
「……こちらこそ、信じてくれてありがとうございます」
ノアが笑った。
外では雨が上がり、雲の隙間から光が差し込んでいた。




