第3章 ──ノアの秘密
夜の店内は静かだった。
父と母の寝息だけが、二階からかすかに聞こえる。
わたしは厨房の片隅で、冷めた紅茶を見つめていた。
昼間、ノアが残していった言葉が頭の中で何度も響く。
あの人は、いったい何を知っているの?
どうして、“あれ”を知っていたの?
わたしがまだ答えを探しているうちに、
店の外から足音が聞こえた。
「……また来たの?」
扉を開けると、ノアが立っていた。
手には古いノートと、包まれた紙袋。
「夜分にすみません。これ、差し入れです」
「なにこれ……?」
「パン。昔、修行してた店の味なんです」
包みの中から、温かい香りが漂う。
焼きたてのような、小麦とバターの匂い。
思わず胸がきゅっとした。
「……優しい匂い」
「でしょう? この香りが、僕の原点なんです」
「カレンさん」
ノアは少し間をおいて、静かに言った。
「僕、昔……妹を病で亡くしました」
「……妹さんを?」
「はい。まだ十歳で。
僕はどうしても助けたくて、薬でも何でも試しました。
でも、全部ダメで。
最後に聞いたんです。
“魂を癒やす炎 ”があるって」
胸の奥が熱くなる。
わたしの知らないところで、
“レクイエム・ブリュレ”の名前が、そんな風に伝わっていたなんて。
「それが“レクイエム・ブリュレ”だった」
「……」
「妹を焼いた炎が、もし苦しみを鎮めるものだったのなら、
僕はそれを見たかった。
だから、旅をして、探して、
そして──この店にたどり着いたんです」
ノアの声は淡々としていた。
けれど、その手が震えているのを見逃さなかった。
「……じゃあ、あのノートは」
「妹が残したものです。
“いつか、お兄ちゃんと食べたい”って書いてあって……」
ノアは、少し笑った。
でもその笑顔は、どこか泣き出しそうだった。
「だから、作ってもらおうと思ったんです」
「……わたしにはできない」
わたしの声は、かすれていた。
「“あの炎”は……誰かを救うなんて、できない」
「カレンさん」
ノアはわたしの方に一歩近づいた。
その瞳には、迷いがなかった。
「それでも、僕は信じてます」
わたしは、何も言えなかった。
でも、その言葉が胸の奥で静かに響いていた。
もし──
もしこの手で救えるなら。
そんな思いが、一瞬でもよぎった自分が怖かった。
ノアが帰ったあと、
わたしは一人、厨房の窓から夜空を見上げていた。




