第2章 ──再会の朝
朝の空気が冷たくて、息を吐くと白くなった。
店の前の通りはまだ静かで、風が落ち葉をさらっていく音だけが響いている。
昨日のことを思い出すたび、胸の奥がざわついた。
あの旅人──ノア。
もう来ないと思っていた。
けれど。
カラン、とドアベルが鳴った。
驚いて顔を上げると、そこに彼がいた。
「おはようございます!」
……本当に、来た。
「……あの、昨日の……」
「ノアです。手伝いに来ました」
笑顔。
しかも、朝日を背にして。
眩しくて、見ていられないくらいだった。
「だから、いらないって言いましたよね」
「言ってましたね。でも聞こえなかったことにしました」
「……強引」
「よく言われます」
どうして、そんなに平然としていられるの。
わたしが何をしてしまったか、知らないくせに。
それでも、午前中の仕込みが始まると、
ノアは勝手にエプロンを着けて、卵を割っていた。
「料理経験、あるの?」
「パン屋で少し。あとは旅の途中でいろいろと」
「パン屋……」
少し驚いた。
彼の手は思ったよりも器用で、動きに無駄がなかった。
「カレンさんのケーキ、昨日食べました」
「……勝手に?」
「はい、こっそり。美味しかったです」
少し悪びれたように笑う。
でも、その笑顔は、どこか懐かしい匂いがした。
仕込みの最中、オーブンの中で砂糖が溶ける音がした。
“ぱち”という音。
その瞬間、体が固まった。
焼ける匂い。炎の残像。
村を包んだ光景が、一瞬にして脳裏に浮かぶ。
「……カレンさん?」
ノアの声が現実に引き戻す。
わたしは震える指を押さえながら、無理に笑ってみせた。
「な、なんでもない。オーブンの温度、ちょっと上げすぎただけ」
ノアはじっと見ていたけれど、
何も言わず、静かに火加減を調整した。
午後になり、母の部屋へお茶を運ぶ途中。
階下からノアの声が聞こえた。
「──よし、これで……っと」
覗くと、ショーケースのガラスを磨いている。
飾り棚の位置を整え、焼き菓子をきれいに並べて。
その姿が妙に馴染んでいた。
「……勝手に触らないで」
「お客さんが入りやすいように、少しだけ」
「……几帳面なんですね」
「ええ、神経質なくらいに」
「自分で言うんだ……」
ふと、笑ってしまった。
ほんの少しだけ。
ノアも驚いたように目を丸くして、笑い返す。
その瞬間、店の空気がやわらかくなった気がした。
夕方、父と母の様子を見に行くと、穏やかな寝息が聞こえてきた。
朝より体調は良さそうだった。
閉店の準備をしていると、ノアが静かに言った。
「……カレンさん。ひとつ、聞いてもいいですか」
「なに?」
「“レクイエム・ブリュレ”って、誰かを救うためのものじゃなかったんですか?」
その名前を口にされただけで、息が止まりそうになった。
「……違う。あれは、誰も救わない。
あの炎は、何もかも……焼くだけのものよ」
ノアはゆっくり首を振った。
「僕が聞いた話では、違いました。
“レクイエム・ブリュレ”の炎は、人を救うための炎だって」
「そんなの、伝説の中だけの話よ」
「でも、その伝説は誰かの“願い”から生まれたものじゃないですか?」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
“願い”──そんなもの、わたしにはもう持つ資格がない。
「……帰ってください」
「わかりました」
ノアはそれ以上何も言わず、静かに頭を下げて出ていった。




