第1章 ──灰のケーキ屋
朝の光が、ショーケースのガラスをやさしく照らしていた。
ミルク色の光に包まれた小さな店。
その奥で、わたしは焼きあがったタルトを並べていた。
──「カレン、今日も頑張ってるね」
父の声が聞こえる気がして、思わず振り返ってしまう。
けれどそこには、いつも通り静かな厨房と、かすかに焦げた甘い匂いだけ。
母は二階の寝室にいる。
昨日より少し熱が下がったけれど、まだ起き上がるのは難しい。
父も同じ。ふたりとも、原因の分からない病に侵されていた。
──あの日の炎が、まだわたしたちの中にあるのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎるたび、胸の奥がきゅっと痛くなった。
「……今日も、売れるといいな」
つぶやきながら、ショーケースにケーキを並べる。
苺のタルト、シュークリーム、はちみつのプリン。どれも、母が教えてくれた“普通の”お菓子だ。
焦がすことのない、やさしい甘さ。
それがいまのわたしにできる、せめてもの償いだった。
お昼を過ぎた頃、
外からドアベルの音がした。
「すみませーん!」
明るい声。見知らぬ青年が、光を背にして立っていた。
ややぼさぼさの髪に、旅人のような装い。
けれどその瞳は、不思議なほど真っ直ぐだった。
「ここが“ブリュレ家のケーキ屋”で合ってますか?」
「……え?」
その名前を聞いた瞬間、胸が凍りついた。
“ブリュレ”はもう、名乗っていないはずなのに。
「ご、ごめんなさい。うちは“スノーベル”っていう店で……」
「あっ、間違えたかな。いや、でも……ほら」
青年は、古びたノートを広げた。
ページの隅には、淡く焼けた跡がある。
そこに書かれていた文字──“Requiem Brûlée”。
息が止まった。
「これを……作れる人を探してるんです」
「…………」
手が震えた。
あの名前を、誰かの口から聞くことになるなんて。
青年は首をかしげながら、続けた。
「僕はノア。旅をしてて……ある村で、このデザートの伝承を聞いたんです。
“魂を鎮める炎の菓子”って。
でも、もう誰も作れないって」
「……作れません」
思わず言葉が漏れた。
「それは、作ってはいけないものなんです」
ノアの瞳が揺れる。
「どうして?」
「──ひとつの村を、焼いたから」
外の風の音すら止まったようだった。
ノアはすぐには何も言わず、ただじっと、わたしの手元を見つめていた。
焦げ跡を隠すように巻いた手袋。
その奥の痛みまで、見透かされた気がした。
「……でも、あなたがそれを知ってるってことは、ブリュレ家の人なんですね」
やさしい声だった。責めるでもなく、ただ確かめるように。
わたしは何も答えられなかった。
ノアは少し間を置いて、言葉を選ぶように笑った。
「……この店、手伝わせてもらえませんか?」
「え?」
「あなたひとりで全部やってるんですよね?
病気の家族を支えながら、これだけのケーキを作ってるなんて、すごいと思う。
だから……力になりたいんです」
まっすぐな声。
その言葉が、胸の奥に刺さった。
けれど、簡単に誰かを信じることなんてできない。
炎の夜からわたしはずっと、何も信じられなくなっていた。
「……勝手に決めないでください」
「ごめん。でも、放っておけないんです」
ノアの目はまっすぐで、どうしてか、嘘の色がなかった。
わたしは思わず目をそらし、震える声で言った。
「……あなたがここにいると、ろくなことにならない。
だから──」
言葉を遮るように、ドアの外から風が吹き抜けた。
ベルが揺れて、ショーケースの中のケーキがかすかに光を反射した。
ノアはその光の中で、少しだけ笑った。
「それでも、また明日来ますね」
そう言い残して、扉が閉まった。
わたしはしばらく動けなかった。




