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四季四景

夏の引導

作者: 宮本颯太
掲載日:2025/09/28

 東京郊外の空はどんよりとした雲に覆われている。夏の今、この暗雲によって僅かばかり気温は下がるが、代わりに高まる湿度によって心が濁される様な気がして息苦しい。

 私は末期がんで入院している夫を見舞いに多摩市にある病院に来ていた。まだ34歳という若さにも関わらず弱り切った身体で個室のベッドに横たわり目を閉じて、苦しそうにやっとの呼吸をしている夫の傍に座ってそっと手を握った。空調は適温に設定されている筈なのに、ベッドの周りだけ酷く冷たい空気に包まれていたから……。


 夫は私の手の感触に気がついたのか、ゆっくり目を開いて私を見た。


「ああ……小夜(さよ)……来てくれたんだね……」

 辛い呼吸に掻き消されそうな細い声でわたしの名を呼ぶ夫。私は彼に、「うん……」とだけ返した。


 この人と私は幼馴染で生まれた年も一緒。小中高と同じ学校に通って大学は別々だったけれど、だからと言って疎遠になってしまうこともなく卒業と同時に彼の方からプロポーズされて結婚した。

 夫婦になった時は本当に幸せだった。幸せな夢を沢山描いた。物心ついた時からずっと育んできた愛が自然と実った私達は、これからもっと暖かい気持ちを共有して、3年くらい二人だけの時間を過ごしたら子供も作って、家族で色んな所へ行って思い出を沢山つくって、それから――、


「小夜、ごめんな……」

 思いに(ふけ)っていた私の意識に、悔恨に震える夫の声が霹靂した。

「俺は最悪な夫だった。自分の人生で最初から一緒にいてくれたお前に……一番大切にしてやらなきゃいけない時に最低な仕打ちをした。夫として以前に人間として最悪な事をした……」

 深謝する夫に私は息が詰まった。

「うん……」

 私は夫の手を握ったままひとまず応えて、暫く逡巡して、心から湧き上がる感情が喉元にまで込み上げて来て、言葉になってしまうのを抑えようとした。

 でも……でも……私の心が私の口の中で、私の舌の上で言葉を暴れさせる。

 夫には震える唇を引き結ぶ私の顔が見えているのだろうか、それとも病に霞む眼に私の輪郭を捉えるのみなのか。それは分からないが、薄く開いた視線を私の顔に向けて、一筋の涙を流した。

 その涙が夫の頬を伝って、衰え痩せ細った顎の縁で雫となって落ちるのを見た時、私はもう感情の具現化を抑えられなかった。


「本当だよ……私がどんな気持ちだったか分かる?幸せに胸いっぱいで、世界一幸せな夫婦になれるって信じてたのに。生まれた時からの良縁がやっと熟した幸せが2年も経つ頃にはどんどん腐り果てていく時の哀しさ、苦しさ、虚しさ……!私がどれだけ傷付いたか分かる?」

 私の声は自分でもイラつくほどに震えていたが、文字通りの怨みつらみの言葉に夫は何も言い返せずに、啜り泣くだけだった。

「私はどうすれば良かったの?あなたは私にどうして欲しかったの?どうして……あんなことになったの?」


 そう。私達は良き幼馴染であっても、良き夫婦にはなれなかった。


 結婚して2年経った頃、夫は私に対して急に冷たく乱暴になった。他に女ができたわけでもなければ、大きな喧嘩をしたわけでもない。ただこの人は、私が妻になって人知れず戸惑っていたんだと思う。妻となった私にどう接すれば良いのか分からなかったんだと思う。きっと結婚してすぐにその違和感が芽生えて、ずっと悩んでた。その苦悩が2年続いた頃、夫は壊れてしまった。


 ――それなら、私はどうすれば良かったの……?


「ねえ聞いて」

 私はグッと夫に顔を近づけて、彼の耳元に口を寄せた。震えるこの声でもしっかりと伝える為に。

「私は精一杯に努めたよ?あなたの暴言や暴力に削られて、擦り減っていく心に何度も泣いたり、吐いたりしても、あなたに妻として、女として……!目一杯の愛を捧げたよ?」


 私も抱え込んで、苦しんでいたのだ。


 その思いが、今になって心から口の外に、言葉の濁流となって氾濫していた。


「私は親にも友達にも、相談すらしなかった!そうしたら別れろって言われるに決まってるから。私の事を大切に思ってくれる人たちは皆んなそう言うって分かってたから!でも、私は……私の大切な人はあなただったから……。優しくて楽しいあなたに戻って欲しくて……今度こそ幸せになりたくて……」

 ここまで心待ちを吐き出して、私は慟哭(どうこく)した。しかしそれでも、このまま途切れてしまいそうになる言葉を紡ぎ続けた。


「大切に大切に、あなたを愛するほどに、この心の傷が深まっていった苦痛が分かる?こんなに苦しむのなら別れようって、どんなに意思を固めようとしても、あなたとの思い出に後ろ髪引かれて……」

 私の脳裏に、まるで走馬灯の様に彼との思い出が蘇る。


「ねえ、憶えてる?小っちゃい頃に手を繋いでいつも一緒に遊んでたこと。小学生の時にお互いのランドセルを見せ合って笑ったこと。中学生の時に行った花火大会で『小夜が幼馴染で良かった』って言ってくれたこと。高校生の時には、少しだけ大人びて見えるねってお互いの制服姿にグッと来ちゃってさ!大学生の時なんか、同じ市内の大学なのに別々の学校ってだけで二人で泣きそうになって……。大学を卒業したら抱き締めながらプロポーズしてくれて……。雪が降ってた駅前の広場でさ。皆んなに見られて恥ずかしかったけど、すごく嬉しかった……」

 この愛おしくて仕方がない筈の思い出が、私を苦しめた。多分、夫のことも……。それでも私は、私の哀しさや苦しみを吐き出さずにはいられなかった。


「あなたから体も心も傷つけられて、逃げ出したい別れたいって思う度に……それでもやっぱり好きなんだって何度も思い直して。幸せになる為に人を愛したいのに、それに心を締め付けられて苦しまなきゃならなかったこの気持ちが分かる……?」


 自分の言葉に私は思う。

 そうだ。私はどんなに乱暴に扱われても、虐げられても、この人のことを見捨てたくなかった。愛する心によって愛する人に苦しめられ続ける最悪のスパイラルから逃れることができない。いや逃れたくないと思ってしまう自分自身の矛盾。


 これ以上、傷つけられて苦しみたくない……。

 でも、この人のことを愛し続けたい……。


 この葛藤に私の心も壊れて、それで私は――

「それで私は……っ!!」

 夫が仕事に行ってる時に、リビングで、夫の新卒の就職祝いにプレゼントしたネクタイで輪を結んで……、


 首に掛けた。


 私は夫に顔を近づけたまま、頭が真っ白になった。

 夫の手を握る力が弱まり、私は思い出す。


 そうだ。私はあの時に死んだのだ。もう何年も前に。そういえばこの病院の個室にも、どうやって来たのか記憶がない。私はあの時、夫のネクタイに首を掛けて、意識が沈む様に途切れて……気付いたら病院のベッドに横たわる衰弱した夫を見下ろしていた。


 混乱しながら虚空を見つめ、視界がホワイトアウトしていく中で、夫がボソボソと何かを呟く声に意識が引き戻された。


「ごめん……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 いつの間にか目を瞑っていた夫が、閉ざされた瞼の間から滝の様に涙を流して小さく細く咽び泣くのを見て、私は更に気付く。


 私はきっと、今まさに最期を迎えようとしているこの人が()()()状態で見ている幻覚に過ぎないのだ。

 私は本当は『小夜』ですらない。この人が幼い頃から連れ添っていた小夜という女性に対する罪悪感と、一人で死ぬ事への寂しさと恐怖が、この人の死に際に見せた幻。私は小夜本人の魂でもなければ、残留思念でもない。私はあくまでも、私が夫だと思っていたこの人自身。この人の心の闇が映し出されたモノに過ぎない。


 ただ、映し出されているだけ。


 小夜としての記憶……楽しい思い出も幸せな記憶も、哀しみも苦しみも虚しさでさえも、全部この男性の記憶と想像の産物でしかないのだ。

 私が私の心だと思っていたものさえも、全て私の錯覚……。


 気付いてから、私は自分の胸に大きな鉛玉がめり込んでくる様な息苦しさを覚えた。気付いた今、この息苦しささえもが本当は私の感覚ではない、私のものではないことに戦慄して、夫の手を離した。


「小夜……小夜……小夜……」

 夫が……恐らく夫と表現するべきであろう男性が私の名を呼んでいる。いやそもそも、小夜とは私の名前という認識すら間違っているのだが、彼は私の事を小夜と呼んでいる。

 だから私は「何?」と返した。彼の中の罪悪感と死の恐怖によって呼び出された私であると知った今、自然と声が優しくなった。


「小夜、お願いだから……手を握ってくれないか。怖い……」

 ただでさえ苦しそうだった彼の呼吸が、更に荒くなってゆく。この呼吸が止まった時、つまりは彼が息を引き取る時、私も一緒に消えるのだろう。私は彼の意識の投影なのだから。それが消滅してしまえば存在の拠り所を失って、私はもう……。


 私も怖い。凄く怖い。でも私は、最後にこの恐怖と不安を癒すことが出来る気がして、夫の手を握った。


「大丈夫……大丈夫だから。もういいよ。私も言い過ぎちゃって、ごめんね」

 私の言葉に夫は驚いた様子で、ゆっくりと顔を私に向けた。もう瞼を開くことは出来ない様だったが、その代わりに心の眼で私の微笑みを見ているのが分かる。


「生まれ変わったら、今度は優しい夫婦になろうね。お互いに」

 私はそう言って、夫の手をそっと握り直した。自分の事も夫の事も騙す言葉であったが、私たちの心は安らぎに満たされた。

 その安らぎに呼応して、冷たい空気に沈んでいた病院の個室は温かな光に包まれて、私たちを優しく抱き込んでくれた。

 本当にこれが最期の時だ。病室を包む温かな光もまた、夫の心象の投影なのだろう。


「良かった……」

 私は夫の手を握ったまま、微笑んだまま語りかけた。


「幸せだね」

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