第1章 異世界への出立 -2-
「待ってたよーってか、渡してる合鍵は?」
「ああ、机の引出しに入れっぱなしにしちゃってさ、忘れた」
「全く…合鍵の意味ないじゃん、ま、入って入って」
香耶が美佐子の家を訪れ、ピンポーンとチャイムを鳴らすと、美佐子はいつもよりちょっとしっかりめに化粧をした顔で迎えてくれた。自宅で化粧する必要なんてないのにと思いながら、いいや違うかと香耶はプルプルと玄関先で頭を振る。これから異世界へと旅立ち、そしてそこで愛しの恋人と会い、結婚するのだと美佐子は信じているのだから。
どうしたら美佐子が現実に戻ってこれるのかなとぼんやり考えながら、取りあえずと靴を脱ぎ、家に一歩踏み入れる。
途端広がったその光景に香耶は愕然とした。
今まで部屋に置いてあったはずの家具や家電の大半がなくなっている。
しかも、美佐子は家具に大変拘りを持っていて、アンティーク物で中々お目にかかれないようなものが沢山あったことを香耶はよく知っている。何度も自慢され、そしてその額を聞いてぶっ倒れそうになった程だ。
「ど、どうしたの美佐子…この部屋…」
「え?…ああ、だってもうこの部屋に住むことはなくなるわけだし」
そう言いながら、美佐子は辛うじて置いてあったドリンク専用の小さな冷蔵庫から缶ジュースを二本取り出し、一本を香耶に渡してきた。呆然としたまま香耶はそれを受け取り、持っていた荷物を部屋の隅に置いて、フローリングにぽんと無造作に置かれたクッションの上に座る。大好きだったふかふかのベッドも、座り心地の良いソファもどこにも見当たらない。
「…そういや香耶、それ何?」
「え、何が?」
「荷物よ、に・も・つ。要らないって言ったじゃん…あんたまさかまだ私の話を信じてな――」
「ち、違う違う違う!だって、1週間も泊まるのに何も持ってこないって可笑しいかなと思って」
「…誰から見て?」
「私の家族からよ。ええと…やっぱ美佐子から言った方が喜ぶと思って…うん…内緒にするための作戦で大荷物になったの!」
「何を内緒に?」
「結婚するってことを!直接、言って欲しい…せめてうちのお母さんにだけは…」
「そっか…そうだよね…」
香耶の咄嗟の嘘に、美佐子はしょんぼりしたように俯いた。
ちょっと悪いかなと思ったが、でも本当に結婚する時も、美佐子が直接香耶の家族に言ってくれたらいいなと思う。母は本当の娘のように美佐子を思っているし、美佐子にも心から、香耶の家族を自分の家族と思ってほしいからだ。
しかしまあ、いきなりな割りに上手く嘘がつけたものだと香耶は自分に感心した。まだ信じていないなんて言ったら、美佐子に絶交宣言されかねない。
「まあ、お母さんたちは置いといてさ。どうやって行くの?異世界には…」
「あ、そうそう!それが問題なんだよね、この問題がなかったら香耶パパもママも翔太くんも呼べたんだけど」
そう言いながら顔をあげ、美佐子は香耶の横にある鏡を指差した。アンティーク好きな美佐子が、半月程前一緒に買い物に出かけた際にショップで見つけて大興奮した代物だ。その鏡に1度目を向けた後、香耶は再び美佐子へと視線を戻した。
「……あれが、何?」
「だから、あれで行くの」
「……は?」
「だから、あれでトロイメルに行くのよ。ロナルドの部屋の鏡に繋がってるから」
「……」
よくあるファンタジーだ。鏡の中の国だなんて。一体美佐子は何の本を読んでここまでおかしくなってしまったのだろうと、香耶は美佐子にばれないようにそっと息を漏らした。
美佐子の言う鏡の前に行き、その裏を覗いてみる。もちろん何もない。ただ、何語かわからないような文字が書いてあるのが見えた。漢字でなければ英語やハングルでもない。一体どこの国の言葉だろうと首をかしげながら鏡の表側に回る。鏡に映っているのはのはもちろん、見慣れた自分の姿と、隅の方でにこにこと上機嫌に笑う美佐子だけだ。
「…とくに異世界に繋がっているようには見えないけど…」
そう言いながら、香耶は鏡を軽く叩いた。しかし手が鏡の向こうにすり抜ける、なんてことはなく、ただコツコツと音を立てるだけだった。
「ああ、向こうに行くには条件があるのよ」
「条件?」
「そ。まあ、こっちに戻ってきて話しましょう」
美佐子が先程まで香耶が座っていたクッションを、ぽんぽんと叩いた。
まだ旅立てず…