異世界探偵事務所
霧雨に煙るラシェル市の朝。街はまだ眠っているのか、石畳の道にはほとんど人影がなかった。けれど、時計塔だけはいつも通り、静かに、確かに時を刻んでいた。
その塔の一角に、ひっそりと掲げられた木札がある。「ノア・ヘリング探偵事務所」。誰も大声で宣伝などしない。だが困った人間ほど、この場所の噂を知っている。
扉を叩く音がしたのは、午前八時を少し回った頃だった。
「おい、ティナ。出るぞ」
ノアは読みかけの新聞を畳むと、椅子をきしませて立ち上がった。足元には白い髪の少女――ティナが、いつものように丸まって本を読んでいた。彼女は返事もせず、すっと立ち上がると静かに扉へ向かった。
そこに立っていたのは、上質なコートを羽織った若い貴族の男だった。目の下には疲れが滲み、眉間には深い皺が刻まれている。
「……妹が、消えました」
それが最初の言葉だった。
◆
依頼人――レオン・カーヴィルは、郊外の準男爵家の次男だった。彼の妹、エミリア・カーヴィルは先週末、ある古い家系の青年との結婚式を挙げたばかりだった。
「式は滞りなく進んだのです。夜の舞踏会も……ええ、賑やかで。だが……」
彼女は、新郎とともに花嫁の間へ向かい、それきり戻らなかったという。
「新郎は『影に連れていかれた』と取り乱して……正気を保っているとは思えません」
ノアは無言で話を聞いていた。タバコをくわえたが火はつけず、ただ目を細めた。
「失踪じゃなく、連れ去り。しかも“影”に、か」
レオンが帰った後、ティナは事務所の窓辺でじっと外を見ていた。
「……感じたか?」
ノアが問うと、ティナは小さくうなずいた。
「揺れてる、空気が……魔力の、古いやつ」
その返答に、ノアは一度だけ口元をゆるめた。
「なるほど。じゃあ少し、仕事をするか」
◆
魔導列車でラシェル市を出ておよそ一時間。霧深い郊外に、カーヴィル家の屋敷は建っていた。
典型的な古式の洋館で、石造りの壁に這う蔦が時の長さを物語っていた。屋敷の者たちは皆どこか怯えたようで、ノアとティナを迎えた執事も目を合わせなかった。
「花嫁の間へ、ご案内いたします……」
部屋は北向きで、窓から差し込む光も弱かった。床には花びらが散り、鏡の前には脱ぎ捨てられた靴がある。
ティナは無言のまま部屋の中央に立ち、目を閉じた。
「……冷たい」
そう呟くと、指先で空気をなぞるように動かした。しばらくして、彼女の手のひらがぴたりと止まる。
「ここに、“触れた”あとがある。影、じゃない……“それに近い”なにか」
ノアは部屋をぐるりと見回し、ドレッサーの引き出しを開ける。化粧品、髪留め、指輪――だが、あるべきものが一つ、なかった。
「……契約書がないな。婚姻契約。貴族家なら必ず保管してるはずだ」
彼の声に、ティナが視線だけを向ける。
「見せかけの結婚、ってこと?」
「あるいは、書けなかった事情がある。どちらにせよ……鍵はこの家の過去にありそうだな」
外ではまだ、霧が止まなかった。まるで、この屋敷そのものが何かを隠しているかのように。
ノアはゆっくりと背を向け、部屋を出た。
「ティナ。村の教会と書庫を調べるぞ。ここには、“影”の匂いがしすぎる」
ティナは、黙ってノアの後に続いた。
◆
ラシェル市の資料局と郊外の村役場には、わずかながら古い記録が残っていた。ノアは持参した手帳に静かに走り書きを重ねていく。
「カーヴィル家の娘が、婚礼の夜に失踪したのは……これで三例目か」
最古の記録は五十年前。いずれも『影に連れ去られた』『夜に姿を消した』という曖昧な証言しか残っていなかった。
「同じ姓の男たちは皆、花嫁が消えたあとも『影の中で生きている』と語ったらしい。狂ったわけじゃない、信じてるんだ」
ティナはノアの肩越しに資料を覗き込んだ。
「影に、住んでる?」
「もしくは“連れていかれること”が、なにかの契約なのかもしれない」
ノアは立ち上がり、上着のポケットから金属製の小箱を取り出した。古道具屋で見つけたという、古いオルゴール。
それを軽く鳴らすと、ティナの瞳がかすかに揺れた。
「……これ、屋敷の部屋と似た音がする」
「魔力の音だ。残滓だが……この音に呼ばれた可能性がある」
◆
その夜、ノアとティナは再び屋敷を訪れた。使用人たちはもう目を合わせようともしない。二人は無言で“花嫁の間”に入った。
ノアはランタンの明かりを抑えながら言った。
「影は物理ではなく、意志に反応する。俺たちの世界じゃ“契約魔”とも呼ばれてる」
ティナが床に膝をつき、小声で詠唱を始める。空気がわずかに震えた。
「……きてる。ここにいる」
そして、何もない空間から、黒い波のような“影”がにじみ出た。
ティナの魔法が空間を静かに覆い、ノアの声がその闇に向けられた。
「話を聞かせてくれ。“彼女”は自分の意志でお前に従ったのか?」
影は言葉を持たない。ただ、部屋の空気が柔らかく震えた。
ティナが訳すように呟く。
「“花嫁はここにいる。望んだことだ”……って」
ノアは少しだけ目を閉じると、ため息をひとつ吐いた。
「じゃあ、どうして誰にもそう言わない」
影は一瞬だけ、部屋全体を包み込むように揺れた。
「“言えば奪われる”……“花嫁の意志は奪われるものだから”」
その言葉に、ノアの眉がかすかに動いた。
「望まぬ婚姻からの逃走……古い契約魔が“逃げ場”になるとはな」
ティナが影に近づき、そっと指を伸ばした。黒い影は彼女の指先に触れると、少しだけ色を変えた。青みがかった淡い光。
「……怖がってる」
ティナがそう言うと、影は音もなく、部屋の床に吸い込まれていった。
静寂が戻った。
ノアは懐中時計を取り出し、時刻を確認する。
「“誘拐”でも、“失踪”でもない。これは、“逃避”だ。……だが、これをどう伝えるべきかね」
◆
翌朝、ノアは屋敷の広間でレオンと対面した。ティナは一歩後ろに立ち、静かに様子を見ていた。
「妹さんの足取りはつかめました。ただ……あの娘は、望んで“影”と契約したようです」
レオンの眉がぴくりと動く。
「……何を言っているんです。エミリアは、そんな……逃げるような子じゃ……」
「それでも、あの夜にあの部屋で、彼女は選んだ。影と交わし、姿を消した」
レオンは拳を握りしめ、立ち上がった。ノアは動じず、静かに続けた。
「結婚を“義務”と見たか、“牢”と見たか……彼女の真意までは分からない。ただ一つ、確かなのは、彼女が誰の助けも借りず、あの空間に“行った”ということ」
レオンはしばらく沈黙し、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……ならば、追いかけることも、奪い返すこともできないのですね」
「ええ。彼女の選んだ世界に、外の者が踏み入れば、“契約”は破られ、すべてが壊れます」
その言葉に、レオンはかすかにうなずいた。怒りでも納得でもない、ただ呆然とした顔だった。
「わかりました……。報酬は、後日、正式にお渡しします」
ノアは立ち上がり、帽子を被った。ティナもそれに倣う。
「失礼します。……あなたの妹が、静かに暮らせますように」
そう言い残して、ノアたちは屋敷を後にした。
◆
帰りの魔導列車。カーヴィル家の村は、霧の中に小さく消えていった。
窓辺に座ったノアは、懐中時計を開きながら呟く。
「魔法ってのは、願いに寄り添う分だけ厄介だ」
ティナは膝の上に置いた本を閉じ、そっと聞いた。
「……彼女は、幸せになれると思う?」
「さあな。けど、檻を壊して飛び出した奴は、大抵――後悔しない」
ノアは目を閉じ、微かに笑った。
「ま、俺たちは見届けるしかない。な、ティナ」
「うん」
ふたりの間に、しばし沈黙が流れる。だがそれは不快ではなく、静かな理解のようなものだった。
霧に包まれた村と、影に消えた花嫁。その真相は語られず、記録にも残らない。
ただ一つ、このラシェル市の片隅で、誰かの願いと、誰かの選択が静かに交錯したというだけの、奇妙な事件。
ノアは帽子を深くかぶり直した。
「さ、次はどんな依頼が来るかね」
そして、探偵と魔法少女の旅は、再び始まる。
(第1話・完)
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