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異世界探偵事務所

作者: 信幸



 霧雨に煙るラシェル市の朝。街はまだ眠っているのか、石畳の道にはほとんど人影がなかった。けれど、時計塔だけはいつも通り、静かに、確かに時を刻んでいた。


 その塔の一角に、ひっそりと掲げられた木札がある。「ノア・ヘリング探偵事務所」。誰も大声で宣伝などしない。だが困った人間ほど、この場所の噂を知っている。


 扉を叩く音がしたのは、午前八時を少し回った頃だった。


 「おい、ティナ。出るぞ」


 ノアは読みかけの新聞を畳むと、椅子をきしませて立ち上がった。足元には白い髪の少女――ティナが、いつものように丸まって本を読んでいた。彼女は返事もせず、すっと立ち上がると静かに扉へ向かった。


 そこに立っていたのは、上質なコートを羽織った若い貴族の男だった。目の下には疲れが滲み、眉間には深い皺が刻まれている。


 「……妹が、消えました」


 それが最初の言葉だった。



 依頼人――レオン・カーヴィルは、郊外の準男爵家の次男だった。彼の妹、エミリア・カーヴィルは先週末、ある古い家系の青年との結婚式を挙げたばかりだった。


 「式は滞りなく進んだのです。夜の舞踏会も……ええ、賑やかで。だが……」


 彼女は、新郎とともに花嫁の間へ向かい、それきり戻らなかったという。


 「新郎は『影に連れていかれた』と取り乱して……正気を保っているとは思えません」


 ノアは無言で話を聞いていた。タバコをくわえたが火はつけず、ただ目を細めた。


 「失踪じゃなく、連れ去り。しかも“影”に、か」


 レオンが帰った後、ティナは事務所の窓辺でじっと外を見ていた。


 「……感じたか?」


 ノアが問うと、ティナは小さくうなずいた。


 「揺れてる、空気が……魔力の、古いやつ」


 その返答に、ノアは一度だけ口元をゆるめた。


 「なるほど。じゃあ少し、仕事をするか」



 魔導列車でラシェル市を出ておよそ一時間。霧深い郊外に、カーヴィル家の屋敷は建っていた。


 典型的な古式の洋館で、石造りの壁に這う蔦が時の長さを物語っていた。屋敷の者たちは皆どこか怯えたようで、ノアとティナを迎えた執事も目を合わせなかった。


 「花嫁の間へ、ご案内いたします……」


 部屋は北向きで、窓から差し込む光も弱かった。床には花びらが散り、鏡の前には脱ぎ捨てられた靴がある。


 ティナは無言のまま部屋の中央に立ち、目を閉じた。


 「……冷たい」


 そう呟くと、指先で空気をなぞるように動かした。しばらくして、彼女の手のひらがぴたりと止まる。


 「ここに、“触れた”あとがある。影、じゃない……“それに近い”なにか」


 ノアは部屋をぐるりと見回し、ドレッサーの引き出しを開ける。化粧品、髪留め、指輪――だが、あるべきものが一つ、なかった。


 「……契約書がないな。婚姻契約。貴族家なら必ず保管してるはずだ」


 彼の声に、ティナが視線だけを向ける。


 「見せかけの結婚、ってこと?」


 「あるいは、書けなかった事情がある。どちらにせよ……鍵はこの家の過去にありそうだな」


 外ではまだ、霧が止まなかった。まるで、この屋敷そのものが何かを隠しているかのように。


 ノアはゆっくりと背を向け、部屋を出た。


 「ティナ。村の教会と書庫を調べるぞ。ここには、“影”の匂いがしすぎる」


 ティナは、黙ってノアの後に続いた。



 ラシェル市の資料局と郊外の村役場には、わずかながら古い記録が残っていた。ノアは持参した手帳に静かに走り書きを重ねていく。


 「カーヴィル家の娘が、婚礼の夜に失踪したのは……これで三例目か」


 最古の記録は五十年前。いずれも『影に連れ去られた』『夜に姿を消した』という曖昧な証言しか残っていなかった。


 「同じ姓の男たちは皆、花嫁が消えたあとも『影の中で生きている』と語ったらしい。狂ったわけじゃない、信じてるんだ」


 ティナはノアの肩越しに資料を覗き込んだ。


 「影に、住んでる?」


 「もしくは“連れていかれること”が、なにかの契約なのかもしれない」


 ノアは立ち上がり、上着のポケットから金属製の小箱を取り出した。古道具屋で見つけたという、古いオルゴール。


 それを軽く鳴らすと、ティナの瞳がかすかに揺れた。


 「……これ、屋敷の部屋と似た音がする」


 「魔力の音だ。残滓だが……この音に呼ばれた可能性がある」



 その夜、ノアとティナは再び屋敷を訪れた。使用人たちはもう目を合わせようともしない。二人は無言で“花嫁の間”に入った。


 ノアはランタンの明かりを抑えながら言った。


 「影は物理ではなく、意志に反応する。俺たちの世界じゃ“契約魔”とも呼ばれてる」


 ティナが床に膝をつき、小声で詠唱を始める。空気がわずかに震えた。


 「……きてる。ここにいる」


 そして、何もない空間から、黒い波のような“影”がにじみ出た。


 ティナの魔法が空間を静かに覆い、ノアの声がその闇に向けられた。


 「話を聞かせてくれ。“彼女”は自分の意志でお前に従ったのか?」


 影は言葉を持たない。ただ、部屋の空気が柔らかく震えた。


 ティナが訳すように呟く。


 「“花嫁はここにいる。望んだことだ”……って」


 ノアは少しだけ目を閉じると、ため息をひとつ吐いた。


 「じゃあ、どうして誰にもそう言わない」


 影は一瞬だけ、部屋全体を包み込むように揺れた。


 「“言えば奪われる”……“花嫁の意志は奪われるものだから”」


 その言葉に、ノアの眉がかすかに動いた。


 「望まぬ婚姻からの逃走……古い契約魔が“逃げ場”になるとはな」


 ティナが影に近づき、そっと指を伸ばした。黒い影は彼女の指先に触れると、少しだけ色を変えた。青みがかった淡い光。


 「……怖がってる」


 ティナがそう言うと、影は音もなく、部屋の床に吸い込まれていった。


 静寂が戻った。


 ノアは懐中時計を取り出し、時刻を確認する。


 「“誘拐”でも、“失踪”でもない。これは、“逃避”だ。……だが、これをどう伝えるべきかね」



 翌朝、ノアは屋敷の広間でレオンと対面した。ティナは一歩後ろに立ち、静かに様子を見ていた。


 「妹さんの足取りはつかめました。ただ……あの娘は、望んで“影”と契約したようです」


 レオンの眉がぴくりと動く。


 「……何を言っているんです。エミリアは、そんな……逃げるような子じゃ……」


 「それでも、あの夜にあの部屋で、彼女は選んだ。影と交わし、姿を消した」


 レオンは拳を握りしめ、立ち上がった。ノアは動じず、静かに続けた。


 「結婚を“義務”と見たか、“牢”と見たか……彼女の真意までは分からない。ただ一つ、確かなのは、彼女が誰の助けも借りず、あの空間に“行った”ということ」


 レオンはしばらく沈黙し、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。


 「……ならば、追いかけることも、奪い返すこともできないのですね」


 「ええ。彼女の選んだ世界に、外の者が踏み入れば、“契約”は破られ、すべてが壊れます」


 その言葉に、レオンはかすかにうなずいた。怒りでも納得でもない、ただ呆然とした顔だった。


 「わかりました……。報酬は、後日、正式にお渡しします」


 ノアは立ち上がり、帽子を被った。ティナもそれに倣う。


 「失礼します。……あなたの妹が、静かに暮らせますように」


 そう言い残して、ノアたちは屋敷を後にした。



 帰りの魔導列車。カーヴィル家の村は、霧の中に小さく消えていった。


 窓辺に座ったノアは、懐中時計を開きながら呟く。


 「魔法ってのは、願いに寄り添う分だけ厄介だ」


 ティナは膝の上に置いた本を閉じ、そっと聞いた。


 「……彼女は、幸せになれると思う?」


 「さあな。けど、檻を壊して飛び出した奴は、大抵――後悔しない」


 ノアは目を閉じ、微かに笑った。


 「ま、俺たちは見届けるしかない。な、ティナ」


 「うん」


 ふたりの間に、しばし沈黙が流れる。だがそれは不快ではなく、静かな理解のようなものだった。


 霧に包まれた村と、影に消えた花嫁。その真相は語られず、記録にも残らない。


 ただ一つ、このラシェル市の片隅で、誰かの願いと、誰かの選択が静かに交錯したというだけの、奇妙な事件。


 ノアは帽子を深くかぶり直した。


 「さ、次はどんな依頼が来るかね」


 そして、探偵と魔法少女の旅は、再び始まる。


(第1話・完)

本日はこの作品を見てくださり誠にありがとうございます。

この作品はいかがでしたでしょうか?

私はまだまだ文学に弱いのでここはこう表現したほうがなどのフィードバックをどしどしまってます。

もしよければ感想など簡単にでも書いていただけるとすごくうれしいです!

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― 新着の感想 ―
ノアとティナ、いいコンビですね。 事件の真相は物悲しさもありますが、「檻を壊して飛び出した奴は…」から救いを感じました。
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