東宮
庭で書物を読んでいると、屋内が騒がしくなった。
「しゃ、珊瑚様、と、東宮がおいでになりました。きちんとなさってください。しっかりとお詫びするのですよ。昨晩のこと」
はー。とうとう、おっさんとご対面か。
私は、陶器のテーブルに書物を伏せた。
徐に立ち上がる。さささっと杏や他の侍女達がやってきて、速攻で私の着崩れを直し、唇に紅を引いた。
部屋に入ると、東宮は、がたりと音を立ててイスから立ち上がった。口を半開きにし、驚いたような目のまま沈黙している。
初夏の爽やかさが似合う、涼しげな顔の美丈夫だった。
品のいい佇まいを見ても、妻が6人もいる男、皇帝になったら何十人も妻を持つ種馬としか思えなかった。
「昨晩は、申し訳ありませんでした」
杏に言われた通りに詫びる。
「……もう、大丈夫ですか?」
「はい」
「それはよかった。慣れない儀式で疲れただろう。その……今夜はーーー」
今晩のことを窺う言葉に、一瞬で私の顔は凍りついた。
「……」
「ーーーは、絵を描き、一人で静かに過ごす予定だ」
「はい。承知いたしました」
よかったぁぁぁ。安堵。
「座りなさい」
勧められて、私は、東宮から1番遠い席に、おずおずと腰を下ろす。
「……」
「初めて声を聞いた。人見知りするのか?」
「……はい」
No.15や星輝には平気だったのに、東宮の前では言葉が出ない。
緊張? 違う。嫌悪が近い。目の前の人が嫌いというよりも、自分の置かれた状況が嫌。東宮は、その象徴のような存在。
最低限しか関わりたくない。
「珊瑚は何が好きなのだ? 音楽か、舞か、絵画か?」
自分が何を好きかなんて、考えたことがなかった。淑女の教育は厳しくて、自分の気持ちなど関係なく体に入力しなければならない。
視線を斜め上に、うーんうーんと考えていると、次の質問が来た。
「今は何をしていた?」
「庭で書物を読んでおりました」
「ほう。ここの庭にはちょうど梨の花が咲いている。珊瑚を迎える季節を考えて植えたのだ」
「ありがとうございます」
東宮が植えたのならば、チャドクガのクレームを出すことなどできない。
2人で庭に下り、梨の花を鑑賞。
マズい。
さっきNo.15が枝を揺らし、チャドクガの処理をしたから、ほとんど花のない枝がある。地面には大量の花と花びら。不自然すぎ。
陶器のテーブルの上には、先ほどまで読んでいた書物がそのままになっていた。東宮はそれを手に取り、嬉しそうにページを捲る。
花が散っていることに関しては触れられなかった。変なのは、気づいてると思うんだけど。とりあえず、セーフ。
「私もこの話が大好きだ。意外だな。珊瑚は軍記物が好きなのか。ははは」
「はい」
東宮は無防備な笑顔を見せる。
「私は長男だったゆえ、戦には出ていない。書物を読んで、ひたすら英雄に憧れた」
戦に行くのは、武官、兵士。皇帝の次男以下。
血筋を守るため、後継である長男は死から遠ざけられる。
「そうなのですか?」
「それでも武術を磨いた。懸命に。競技や鷹狩りくらいでしか披露する場はないが」
「すばらしいです」
「珊瑚も英雄に憧れるのか?」
「……はい」
女子あるまじき発言。けれど、嫌われてもいい。むしろ嫌われたくて、本心を答える。
「弓を引いたことがあるか?」
「いえ」
「剣は?」
「いえ」
「馬に乗ったことは」
「いえ」
淑女教育には、箏や絵画、縫い物や刺繍があるだけ。
「やってみたいと思うか?」
「はい」
「そうか。では、やってみるか」
「はい?」
「はははは。なんて顔をしている。やりたいことはやってみればいい」
「ですが……」
武術を習う女性など、聞いたことがない。しかも、帝国1番のやんごとなき家の奥様。
「気になることでも?」
「よろしいのでしょうか」
「私が良いと言えば、良い。それがこの国だ。父には負けるが。はははは」
東宮は、また楽しそうに笑った。
「あ、ありがとぅござぃます」
「身を守るためにも、珊瑚には必要になるだろう」
「……はぃ」
やっぱ、ここって、危ないとこなのかな。身を守るためだなんて。
「他の妻達とは上手くやれそうか?」
「はい。みなさん、とても素敵な方々ばかりです」
嫁いだばかりの新参者。とてもチャドクガの話はできないよね。
「そうだな。今は」
「え?」
「ずっとそうあって欲しいものだ」
「?」
そこから東宮は声を落とした。
「油断するな。毒味係を用意しなさい。護衛を増やそう。銀子もいるな」
怖い怖い怖い。めちゃくちゃ物騒ってこと?
眉根を寄せていると、東宮は、ぱさっと扇を開いた。建物の方から私を隠して囁く。
「侍女には他の妃の間者が紛れている。杏以外、今は信用するな。銀子はことあるごとに渡しなさい。そのうち、味方が増える。そうだな、毒味はこちらで探そう。まだ、珊瑚は何もできまい」
「ありがとうございます」
命の危険があることに震えてしまう。
「正直に話せば……私がここへ通わなければ、お前は安全だ。私が通えば通うほど危険になるし、嫌な思いもするだろう」
「……」
「だが、私はお前が気に入った」
死亡フラグ、立ちました。
これも「誰からも好かれる」という呪いのせい。
「……」
「大切にする。珊瑚の気持ちを1番に考える。絶対に守る」
東宮は、ぱたりと扇を閉じた。
「……」
ありがとうございますと言うべきなのに、そっとしておいてくださいと懇願したくなる。
「違うのだな」
「え?」
「女は、誰もが媚を売り、私を楽しませようとする」
「す、すみませんっ」
「責めているのではない。珊瑚のような様が、自然なのだろう」
「はあ……」
退屈な女だと思ってくれたみたい。これでOK。
「そうだ、馬を見に行くか?」
「……はぃ」
東宮は、庭から小路に出て、すたすたと歩き出す。
「こっちだ」「えっ」「おーい」「庭」「お出になった」
お付きの人たちが互いに知らせ合い、ばたばたと慌てて列を作って、東宮と私を走って追いかけてくる。その数、10人以上。
気になって、ちらちらとその様子を眺めていると、東宮から言われた。
「気にするな、珊瑚。私には長い尻尾があるとでも思え」
「はい」
尻尾という言葉に少し笑うと、東宮は、私の顔を嬉しそうに眺める。
「厩はこっちだ」
広い宮殿。
歩く途中、池の亀がどんどん増える話や、ゆで卵を掠め取ったカラスの話、白鷺が大群で押し寄せた話を聞いた。
厩には何頭もの馬がいて、もっしゃもっしゃと飼葉を食べていた。馬車に乗るから、馬には慣れている。
「うっ」
ぴろ〜ん
やーん。ほっぺに鼻水つけられちゃった。
「はははは」
東宮と一緒に馬に触れた。
厩の横に、大きな犬が番をしていた。私を見ると、喜んで「ぐーぐー」喉を鳴らしながら、体を擦り付けてくる。しゃがんで犬の体を両手でわしゃわしゃ。
誰にでも好かれるのは、動物も。呪いという名の特殊能力のせい。
「このまま珊瑚と馬で遠出をしたいところだが、それをすると、あの者達が困る。いつか、日を決めて行こう」
東宮は、さっき尻尾と言った人たちを視線で指した。
「ぁりがとうございます」
その後、梨の花の庭へ送り届けられた。
「犬が好きか?」
「はぃ」
「そうか」
東宮は庭の方から退出した。
あんまり、おっさんじゃなかったかも。