青葉と云う女
その女の名前を青葉と言った。
名字だったのか名前だったのかはもう定かではない。
川村湊は美大に通う、どこにでも居るような冴えない学生だった。地方ではそこそこ油絵で賞を取るなどそれなりに活動してきていたのだが、都会の美大に入学した時に感じた、余りの熱量と情熱と質の高さに圧倒され大学に来るのを本気で辞めようかと考えていた矢先、川村は青葉と出会った。
川村が青葉と出会ったのは、もうかれこれ20年前に遡る。青葉の第一印象は、そばかすのある顔が小さい割に目が大きくしかも近視なのか度の強い眼鏡を掛けていた。
眼鏡を掛けなければ、そこそこの美人だったのだが青葉が眼鏡を外す筈もなく、目だけが異様に大きくバランスの悪い顔の女と言うのが川村の正直な感想に他ならなかった。
青葉との出会いと言っても、そこは美大の美術室の一室で、沢山の学生に囲まれた中央に青葉が惜しげもなく自分の裸体をさらけ出しているそんな出会いだった。
最近、筆が全く乗らなかった川村だったが、何故だか青葉を目にした途端、川村の指や腕の感覚が不思議と動き出したのだ。
スケッチブックの上で2Bの鉛筆を強く握りしめた川村は、青葉の乳房に掛かる長い黒髪を陰部を臀部をただ感じるままに、そうまるで今迄何かに取り憑かれ全く描けなかった時間を取り戻すかのように、気付けば一心不乱にスケッチブックに向かっていた川村だった。
青葉がどんな経緯でモデルにしかもヌードモデルになったのかを川村が知る訳もなく、次のヌードデッサン会に来たモデルは、青葉ではない別の女だった。
川村は何故だか分からないが、至極残念に思えている自分を訝しく感じてもいたが、この感情が何なのか等の川村でさえ分かっていなかった。
青葉に出逢ったあの日から、川村は憑き物が落ちたかの様に作品に取組む事が出来るようになっていた。
ある日、風の噂で青葉が日本画の教授と不倫関係となり、教授の妻が大学に乗込んで来て殺傷沙汰になったと聞いたのは確か秋の頃だったように思う。川村がその噂を耳にした時、青葉は既に大学を自主退学しており、それきり青葉の姿を大学で見掛ける事はなかった。
青葉が不倫をしていたとか、妻が大学迄お仕掛け殺傷沙汰になったとか、自主退学したとか。そんな事は川村の日常にはなんの関係もなく、あれからは川村の筆が止まる事も無かったがその代わり大きな賞に入選するでもなく日々は淡々と過ぎて行った。
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ニ年後、川村は大学を卒業し建築等を扱う小さな建築デザイン設計事務所に就職。勿論、青葉との接点など有るはずもなく、時間だけが水道の蛇口をただ捻れば流れ出る水の様に、何の代わり映えのしない日々を送る川村だった。
確かこれも秋の頃だったように思う。
川村が就職して何年か経った頃に、築100年にはなる大きな家のリフォームを頼まれ施主との打ち合わせに伺った時、恰幅のいい60代くらいの男性の横に慎ましく寄り添っていたのが青葉だった。
川村は、あのヌードデッサン会で出会って以来青葉を目にしたのは久し振りだった。
青葉はあの頃とちっとも変わっておらず、相変わらずそばかすの小さな顔に度の強い眼鏡を掛けているため、顔と目の大きさのバランスが悪く見えていた。川村の脳裏にあの時の青葉の裸体が一瞬脳裏を掠めた時、川村の目が青葉のお腹に目がいった。妊娠しているのか?腹が大きく膨らんでいる。その恰幅のいい男は草野のと言い、「これは、妻だ」と川村と同席した建築士の杉田に説明したのだ。と言うことは、お腹の子はこの草野と云う男の子共なのだと川村は理解した。
それから、数日して打合せのため川村1人であの家を訪れた際、玄関には青葉ではなくお手伝いなのか50代くらいの手伝いの女が玄関で川村を出迎えてくれた。
その女は「旦那様をお呼びしますので」川村に一言告げると、奥の座敷を指しこちらで待つ様に川村に話し掛けた。
座敷に通された川村が、主人が来るまでと座敷から縁側に向かって足を投げ出していた時の事だった。
「足をどけろ」と左頭の頭上から声がしたのだ。
川村が驚いて顔を上げるとそこには髪を頭の上で一つにまとめた青葉が立っていた。「聞こえないの?“足をどけろ”と言ったの」大きな腹を抱えた青葉が又同じように川村に言放つ。「これは、すみませんでした」川村も慌てて足を引っ込める。「もうすぐ、主が来るから」青葉はそう告げる。「主?」主人ではなく主?川村もまた妙な所に引っ掛かりはしたが、それを考える間もなく青葉が何を思ったのか突然川村の前に立ち塞がり、大きなお腹を川村の前に突き出したかと思うと「よいしょ」の掛け声と当時に突然しゃがみ込み川村に接吻してきたのだ。それも軽い接吻等と言うのではなく、艶めかしく舐るように舌を絡めしばらく川村も青葉も息ができぬほどの接吻を繰り返した。青葉の頭の上で一つに纏められていた髪がハラハラと下に落ち川村の顔に纏わり付く。勿論川村も青葉からの接吻に抗う事は可能だったが、何故か川村はそれをしなかった。否、出来なかった。が正しいのか今となっては定かではない。
それから直ぐ奥から主人の声が聞こえてきたため青葉が川村から離れ、しばらく川村を値踏みするように見つめると「こんなものか」と一言言い残しその場を大きなお腹を庇うようにのっそりと立ち上がり川村の前から去って行った。それから程なくして主人が座敷に現れたため、川村の思考はそこで一旦停止したのだった。
その後、打ち合わせも順調に進み家のリフォーム工事が始まった。工事が始まった頃から青葉の姿を見かけなくなった事に川村は気付いたが、「あぁ、出産の為に里帰でもしているのだな」と思い直し、そこからは川村もあの時の事も青葉の事も考えるのをやめにしたのだった。
年が明けた三月に大掛かりなリフォームも終わり、施主の主人と話をしていた時の事。奥の座敷から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
川村は「あぁ、里帰から帰ったのだな」と思った矢先「旦那様!旦那様!大変で御座います。青葉様のお姿が見当たりません」それを聞いた主人が慌てて奥の座敷に顔を出すと、元気よく泣いている赤ん坊の横に徳田秋声全集に挟まれた離婚届がハタハタと風に靡いていた。奇しくも、その離婚届けは徳田秋声全集の『黴』のページに挟まれていた。青葉はこの屋敷にお手伝いとして雇われ、そのまま歳の離れた草野に見初められ結婚したのだとその時初めて手伝いの女から聞いたのだが、それはそれで川村の中で腑に落ちる話でもあった。
それからしばらくして、あの築100年の家に一緒に同行した建築士の杉田から「どうもあの家の奥方は、主人の秘書をしていた男と駆け落ちしたらしい」と耳打ちされ「じゃあ、あの赤ん坊は?」と川村の喉元迄出掛けたが、それは考えても詮無い事と諦め口にするのを止めた川村だった。
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あれから十数年経っただろうか。あの築100年の家をリフォームした翌年川村は結婚。一つ歳上の姉さん女房とでも言うのか、気立ての良いよく気が付く妻だった。
お互い共働きで、結婚生活も何事も無く平凡を絵に描いた様に過ぎて行き、一人娘を授かった川村のプライベートもそれなりに過ぎていた。
その頃から川村も段々と自分のペースで仕事を熟せるになって行った。
時折、不図した拍子に青葉の事を思い出す川村だったが、あの女、青葉は幻なのか幻想なのか自分の中で勝手に作り上げた、自由奔放な手のつけられない女として自分の人生に関わる事のない女なのだと云う結論に何時も思い至り、その都度自分の意識から追いやっている川村だった。
そんなある日、小学生の娘が高学年になった時クラス役員に選ばれた。妻も仕事をしていた事から、二人で話し合い役員会に川村が顔を出す事になった。
川村が初めて役員会に出席した時の事。
少し遅れて来た川村が空いている席に座り、隣の席の役員に軽く会釈をし顔を上げた時、隣に青葉が座っていたのだ。まさかこんな所で再会するとは川村は心底驚いていた。ところが、青葉は川村の事を忘れたのか、小さく会釈を返すと再び役員会の司会者の方へと顔を向けたのだ。
川村はなるべく隣に座る青葉を意識しないようさり気なく様子を伺った。青葉の髪はショートに短く切り揃えられ、耳には金色のピアスが光っていた。そばかすの顔は変わっておらず、相変わらず顔は小さく度の強い眼鏡は昔のままだったが、眼鏡のフレームは細身の物に変わっていた。
役員会が終わり、学校のグランドの端に停めてある車に役員が家路に着くため銘々の車に乗り込んで行く。川村も同じ様に愛車に乗り込もうとした時「川村さん?川村さんですよね?」暗がりの中誰かに呼び止められる。川村が声のする方へ振り向くと、なんとそこには青葉が立っているではないか。先ず最初に川村が思ったのは、ここはなんて答えを返せば良いのかだった。それでも一瞬迷った川村だったが「何か御用でしょうか?」何とか返事を返す。「御用って…(苦笑)。まさか、あたしを忘れたの?冗談よね?あたしのこと忘れる訳無いわよね(笑)」そう念押しする青葉が川村に近寄ってくる。川村は運転席のドアを開けた横に立っていたため、後ろに下る事も出来ず気付けば青葉が目の前に立ち塞がり、下から川村を探るような眼つきで微笑んでいた。
「えっ?」川村が少したじろいでいるのを青葉が感じ取ったのか、シアーレッドの唇が川村の唇と重なった。青葉の舌が否応なしに川村の唇を押し広げながら入って来る。その瞬間、あの縁側での接吻が川村の脳裏に、いや唇に鮮やかに蘇りはしたが、川村が慌てて青葉の肩を押し青葉を突き離した。
少し肩で息をする川村の唇にシアーレッドの口紅が薄く線を引いていた。「ほら、忘れる訳ないでしょ(笑)」青葉が川村の前で唇を手で拭いながら薄く笑う。これはいかん。危うく青葉のペースに巻き込まれてしまう所だった。川村がそう思った時、青葉が川村の耳元で「十年前の事。誰にも言わないと約束して。さもないと」青葉が川村の耳朶を少し囓る。「痛っ!」川村が慌てて自分の耳に手を当てる「もっと痛いめにあうから」青葉が耳元でもう一度呟くと「川村さん。おやすみなさい」と、まるで何事も無かったかの様に自分の車に乗込み去っていった。
家に帰った川村は、別に自分が疚しい事をした訳でもないのに(いや、不可抗力とは言えあれは疚しい事なのか?)何だか落ち着かなかった。では、今さっきの事を妻に話せるのかと問われると、それはやはり話せる訳もなかった。
次の役員会は、仕事が立て込んでいるからと理由を付け妻に変わってもらった。それからも、何やかやと予定を入れた川村は、あれから等々一度も役員会に顔を出す事無く一年が過ぎ、その間に川村の娘も小学校を卒業し青葉の事もすっかり忘れ去っていた。
そんなある日、妻から思い掛けない話を聞いた。「お父さん覚えてるかな?他の学年で名前は忘れちゃったけど、六年生の時一緒に役員やってた人で、確か髪はショートで眼鏡を掛けてたと思うんだけど」妻がここまで話すと一息つく。「それがねその人、同じ役員をしていた父兄と駆け落ちしたって聞いて、本当にビックリしたの」これを聞いた川村は、「あぁこれは間違い無く青葉の事だ」と一瞬にして思い至った。「可愛そうなのは、子供達よね」妻は心底心配そうな顔をして川村を見る。「そうだね。親の身勝手な行動の犠牲者はいつも子供に降り掛かってしまうね」その時川村の脳裏に、そう言えばあの築100年の屋敷に残それた赤ん坊は今頃どうしているのかとふと思い出した時、妻が寂しそうに「本当に」と呟いた。
青葉と言う女は、何処までも母親の前に女で在ることをやめられない、女を捨てられない性根の女なのだと川村は改めて思った。
あの、一年前の駐車場での出来事を思い返し、青葉のあのシアーレッドの唇に心を絡め取られなくて本当に良かったと、川村は心の底から思うのだった。
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季節は秋と言う名に変わりつつあったが、まだ暑い日が続いていたある秋の日の朝の事。
川村が何時もの様に新聞に目を通していると地方欄に小さな記事を見付けた。そこには『救助しようとした女性、遺体で発見 小2の水難事故』そんな小さな見出しだった。
東中区の千本川で7日、区内の小学二年の女児(7)が川で溺れ、救助のために川に飛び込んだまま行方不明になっていた無職の青葉美月さん(40)が死亡する事故が起きた。
女性は11日早朝、遺体で見つかった。現場から直線距離で約3キロ離れた南中区の一意川で見つかった。警視庁が連日、捜索を続けていた。
東中署によると、事故は7日午後3時ごろ、同区4丁目の千本川の右岸で起きた。左岸にいた女児の兄がサンダルを誤って川に落としてしまい、右岸にいた女児が流れるサンダルを手元に引き寄せようとした際にあやまって川に転落したという。
近くいた成人女性1人と近くを通り掛かった成人男性が川に飛び込んで助けようとしたが、女性が行方不明になっていた。もう1人の男性は女児を助け自力で岸にたどり着いた。
そんな記事だった。
青葉美月。
青葉は名前ではなく名字だったのか。
おかしなもので、川村は紙面に青葉の名前を見つけた時、最初に思ったのはそんな事だった。
そして、改めて記事を読み直した川村。
これは、本当に青葉なのか?人違いなのではないのか?子供を捨てたはずの青葉が子供を助け様として死んだと言う?
あの、どうしようもなくどこまでもだらしない女だった青葉。その彼女が、子供を助けようとしして命を落とした。俄には川村も信じられなかった。
これはやはり、青葉は名字では無く名前で、青葉と言う名字の別の女が正解なのではないのか?川村が思いを巡らせては見たものの、それが正解なのか不正解なのかも分かるはずもなく、結局そのまま新聞を閉じて仕事に向う準備を始めた川村だった。
この事を妻に伝えようか?
いや、妻も仕事から帰れば、何時もの様に新聞に目を通すはず。妻も記事に気が付けば川村に何かしら言ってくるはずだ。そう思い直した川村は「行ってきます」と妻に伝え何時もの様に仕事に向かった。
(完)