若さゆえに不謹慎な矢部警部補
教室から無くなったものは特になさそうだ、と一条翠は答えた。
講師用机の脇の引き出しの中にあったキャッシュボックスは、中身もそのままそこに残されていた。翠自身の荷物もロッカーの中にそのまま残されていた。書類にも荒らされた形跡はない。
しかし他に手掛かりになりそうなものがあった。商店街には、商店会で用意した防犯カメラが設置されていて、「すみれ」の表の入口は、防犯カメラで上部からとらえられていた。その映像は、もちろんパソコン教室である「すみれ」で管理されていた。捜査員で溢れた「すみれ」の中で、矢部警部補が防犯カメラの映像をチェックしている。翠と智樹も一緒だ。防犯カメラに映った人物がいた場合、不審者かどうか判断するためだ。
「今日の十二時、この出てきた人はあなたですね」
横で翠は首を縦に振る。
「その後は・・・十二時九分。初老の男性が出ていく・・・と。確かこちらは十一時に入ってきた」
「田角淳さんです。ご提出した生徒名簿に載っています」
「田角・・・と。次は、十二時十二分に教室に女性が入ってますな」
「この方は山本芙美子さんです。長沼さんにホームページの作成を依頼されていて、たまにこうして指示を出しにいらっしゃいます」
「山本さんのご連絡先は分かりますか」
「教室の住所録ファイルの中に、あったと思います」
「ありゃ、山本さん、三分後に教室を出られてますね」
画面には、十二時十五分に教室を出る山本芙美子の姿が映し出されていた。すると、続いて長沼裕樹の上半身がドアから出てくるのが映し出された。ドアに掛けてある札をひっくり返したようだ。
「長沼裕樹氏は、十二時十五分までは生きてらっしゃったようですな」
その後、十二時四十六分に翠が映るまで、防犯カメラには誰も映らなかった。
「被害者が殺された時刻は、十二時十五分から、一条さんが教室に入るまでの間、と言うことになるでしょう。犯人が侵入したのは裏口から、と言うことになりそうですが、裏口側に防犯カメラはないのですか?」
「裏の通りにはありません」
「犯人が表から入るのは無理そうだな。裏口から侵入したってことか。カメラに映らないようにわざわざそうしたのかな」
智樹が独りごつ。探偵気取りかーい、そんなもん見れば誰でも分かるわぁ!と矢部は心の中でツッコミを入れる。
教室という場所柄、正直午前中からの人の出入りが多すぎて、あまり参考にはなったとは言えなかったが、事件のあった時間帯が絞れたのは収穫だった。
矢部は松下に、防犯カメラの映像の内容を報告した。松下は、高木を呼ぶと、田角淳と山本芙美子に当時の教室の状況でおかしなところがなかったか聞くために捜査員を派遣するよう指示した。すぐに高木は自分も含め、四人の捜査官で二手に分かれ二人への聞き取り捜査に取り組んだが、教室にいたのは長沼裕樹だけで、いつもと特に変わった様子は無かった、と二人とも答えたのだった。田角も山本もその後帰宅し、他に家には誰もいなかったところも共通しており、十二時十五分から一時までのアリバイは無かった。
その間に、矢部は松下の後について商店街での聞き込み調査に回った。どうしても一緒についていく、と言う智樹を「遺族の方がご一緒では、みなさん冷静にお答えいただけるか分かりません。後で結果はお伝えしますから」と説得し、連絡先を交換させられた。矢部は仕事用の携帯電話の番号を教える。気持ちは分からんでもないが、もう少し警察を信用して任せてもらいたいものだ。
まずは藤原精肉店へ向かう。そこにいたのは、藤原タネとその夫藤原源一。タネさんは肥えた七十代女性。源一さんも体格の良い七十代男性だった。
「ええと、藤原タネさんですね。先ほどはどうも。こちらはお二人で暮らされているんですか」と矢部が言う。精肉店でタネさんとは、ハンバーグを作るために生まれてきたようなお人ですな!と矢部は心の中で甚だ失礼なことを思っていた。
「はい、子供たちはもう独立して出ていってしまいました。私たち二人で暮らしています」
「早速ですが」
松下が尋ね始める。自分はまた書記係だ。
「お二人は、本日十二時十五分から一時までの間、どちらにいらっしゃったのですか」
「二人ともここで店に出ていました」
「お昼休憩は取られなかったのですか」
「昼はお惣菜を買いに来る人もいるからねぇ。ちょっとお昼の時間をずらして休憩するんですよ」
ショーウィンドウには、生肉の他にコロッケやメンチカツが並んでいる。
「それを証明できる方はいらっしゃいますか」
「うーん、今日はお客さんもあまりいなかったからねぇ。証明と言われても難しいね」
「裏口から外へ出たりはしませんでしたか」
「ちょうど私が昼ごはんの準備をしようと裏口から上へ上がろうとしたら、翠ちゃんにばったり出くわしたんですよ。そしたらあんなことになったでしょ。それまでは二人とも朝から店に出ずっぱりでしたよ」
「ありがとうございました」
藤原精肉店の二人のアリバイははっきりしない。夫婦二人で口裏を合わせれば、いくらでも隣の教室に出かけることはできそうだ。
次は青柳青果展へ向かう。そこにいたのは、母の青柳佐和さんと息子の青柳哲。佐和さんは六十代の小柄な女性。哲さんは三十代の屈強な男性だ。
「お二人は、本日十二時十五分から一時までの間、どちらにいらっしゃったのですか」
「私は店に出ていました。息子は昼休憩で、上の自宅で」
「昼飯を食べて、少し昼寝してました。降りてきたのは、一時半くらいかなぁ」
「お二人とも、それを証明できる方はいらっしゃいますか」
「いえ・・・私は店にいて道行く人に声を掛けていたので誰かが見ているかもしれませんけど、誰も立ち止まってくれなかったから」
「一条翠さんが、昼にこちらのお店の前を通ったというのですが、本当ですか」
「ええ、そうねぇ。その時会釈ぐらいしたかな。翠ちゃんが帰ってくる時も店にいたから、覚えていたら証明してくれるかな」
「俺は自宅にいたので、証明してくれる人はいないな。うちは二人暮らしなんだ」
「そうですか。お二人とも、お昼頃怪しい人物は見ませんでしたか」
答えはノーだった。
「ご協力ありがとうございました。またお話を伺うかもしれませんがよろしくお願いいたします」
次は龍神亭へ向かう。龍神亭のおばちゃんは一条翠の証言通り、十二時過ぎに来店した翠にタンメンを出したこと、翠が十二時四十分過ぎまで店にいたことを証言してくれた。
「これで一条翠と龍神亭のおばちゃんのアリバイは証明されたってことだな」
二人はさらに周辺で怪しい人物の目撃情報を求めて聞き込みをした。が、収穫はゼロだった。高木巡査部長と結果を報告し合い、その日の捜査は終了した。
捜査本部は船橋警察署内に設置された。長沼裕樹殺害の次の日、合同捜査会議が開かれた。会議の間中、矢部の携帯が鳴り続けていた。智樹からだ。矢部が会議の後智樹からの電話に出ると、智樹は船橋警察署に来ているという。捜査状況を教えて欲しいそうだ。やれやれだぜ。身内が殺されたのだ、しょうがないだろうという松下警部殿の優しさにより、矢部は鑑識の捜査結果と午前中に行われた検死結果を伝えたのだった。