検視官 松下警部
千葉県警捜査一課松下綱三郎警部は、相棒の矢部名津夫警部補とともに船橋市高城商店街に降り立った。
ここも御多分に漏れず、店舗の半分はシャッターが閉まった商店街だ。すぐ近くに団地があるので、辛うじて営業している商店がある。
商店街のアーケードを正面にして眺めると、左手には小さなスーパー、右手には肉屋・パソコン教室・八百屋・町中華屋と店が並んでいる。その奥は両側ともシャッターの閉まった空き店舗ばかりだ。店舗兼住居という古い作りなので、家賃が結構する割にお客は来ず、営業を続けることが難しいのだろう。商店街の真ん中あたりに、大きなプラタナスの木が植えられている。
松下と矢部は、向かって右手の肉屋の店舗のそのまた右側にある、植え込みで目隠しされた路地に入った。ここは店舗裏口の通用路だ。路地に入って二軒目、パソコン教室の裏口が開け放されていた。重い鉄製の内開きの扉。ドアクローザーのストップ機能で、ちょうど人一人通れるくらいに中途半端に空いたままになっている。
中へ入ると、四人の人間がたむろしている。
「県警の方ですね」と、松下に気づいた白髪まじりのショートカットの中年女性がこちらへ近づいてくる。温厚そうだが眼光は鋭くテキパキした身のこなしだ。女性の巡査部長が待っていると連絡を受けているので、この人がそうに違いない。バッジを見せながら名乗る。
「松下です。こっちは矢部」
「船橋警察署の高木です。警部殿をわざわざお呼び立てしてすみません」
「自殺らしいと伺ったのですが」
「状況的にはそう見えるのですがね」
高木は隣にいる女性にちらりと目をやって言った。
「こちらのお嬢さんが、どうしても自殺ではおかしいとおっしゃるので。検視官のお墨付きをいただきたくて。」
高木に紹介された関係者らしい若い女性が、泣きながら何か言おうとするのを目で制して、松下は言った。
「詳しくお話を伺う前に、まずは見てみましょう。あなたは少々お待ちください」
死体に手を合わせて、確認していく。遺体の身長は百七十センチメートルくらいで、体重は八十キロはあろうか。衝立は約百八十五センチメートルなので衝立がバランスを崩して傾けば、容易に足がついて自死は失敗してしまう。これで自殺しようと思うだろうか。だが実際には衝立はしっかりと立っていた。自死であれば、近くにある椅子に乗ってロープに首を架けたことになるだろう。
縊死と絞殺の見分け方は難しい。以下のことを注意深く確認していく。故人が首に巻かれた凶器を緩めようとした際についた傷、首についている跡と首に巻きついているロープの結束部分の差異、擦れた部分の皮膚の剥がれ方、眼球の状態・・・。
松下は判定を下した。
「高木さん・・・こりゃ、殺しですぜ」
その場にいる全員の表情が凍りつく。
これより、事件の捜査は松下が指揮をとることになった。
鑑識隊の到着を待つ間、現場を観察しながら高木が状況を説明し、矢部がメモをとる。
「現場は手をつけていません。ご覧の通りです。関係者の方にも物に触れないようにしていただきました」
「ふむ、自殺だと思っていたのに、よく現場保存されましたな」
矢部が褒める。松下は尋ねた。
「正面の出入り口はずっと施錠されていたのですか?」
すると室内にいた女性が答えた。
「長沼さんを見つけてから一度、看板に休業のお知らせを書きに出るために鍵を開けて外に出ました。それからまた鍵をかけています。生徒さんが間違って入ってくると困るので」
高木が発言者を紹介する。
「こちらが第一発見者の一条翠さんです。こちらで講師をなさっています」
先ほど泣きながら自殺を否定しようとしていたお嬢さんだ。中肉中背、セミロングとワンピースで上品な雰囲気を醸し出している。神経質そうな顔立ちだが、なかなか美人だ。二十代後半といったところだろう。
「被害者はパソコン教室すみれの経営者、長沼裕樹。80歳。家族は、息子夫婦がいますがこちらは現在アメリカ在住だそうです。他に孫の智樹さんが2階に住んでいます。現在24歳無職です。こちらの方です」
この部屋に来たときに居た四人のうちの三人目。肩まで髪のある長髪でひょろっと痩せた男の子が、苦々しげに顔を歪めた。24歳無職と紹介されたのが気に障ったのだろうか。矢部が言う。
「お孫さんでしたか。このたびは・・・」
智樹は床に目を落とした。高木巡査部長が紹介を続ける。
「こちらは通報してくださった、お隣の藤原タネさんです」
タネさんは少し頭を下げた。
「たまたま翠ちゃんが死体を見つけた後に、バッタリ出くわしたもんで」
「ご協力感謝します」
松下は翠に向き直ると、
「一条さん。あなたが死体を発見された時のことを、詳しく教えていただけますか」
「私は二軒隣の中華屋さんでお昼ご飯を食べて、12時50分頃教室に戻ってきました。表が施錠されていたので、肉屋さんの脇から裏口にまわり、鍵を開けて入ったんです。そうしたら・・・こんなことに・・・」
「その時、中には誰もいませんでしたか」
「ええ、入ってからそのロープが目に入って、長沼さんを見つけた時には動転していましたから、教室の中に不審者がいないか探したわけではありませんが・・・他の人には会いませんでした」
翠はハッとしたように言った。
「これって、密室というやつですか」
松下は内心「これだから刑事ドラマや推理小説なんぞが流行ると困る」と思いながら、メガネの中の目を細め、微笑みを浮かべて落ちつかせるように言った。
「さあ、この部屋の鍵を何人持ってたか分かりませんし、まだ何とも言えませんね」
松下は話題を変えた。
「ところで、机の上にデジタルカメラが五台も並んでいますね」
「そうなんです。午後は、生徒のお婆さんたちと写真撮影会があったんです。メインはパソコンに写真の取り込み方を教えることなんですけど、みなさん教室の外に出かけられるというので一種の遠足みたいにウキウキなさって。行き先?いえ、商店街の花壇を撮りに行くだけなんですけど。でも長沼さんもとても張り切ってらして。だから、その直前に死んでしまうなんて、どうしてもおかしくて、それで自殺じゃないって思ったんです」
翠の後をタネさんが続けた。
「そうですよぉ、今日の夜には商店会の会合もあって、朝私にお茶の準備頼むよ、なんて話されてたんですもの。やっぱり自殺じゃなかったんですね」
「一条さん、鑑識が到着して指紋を採取し終わったら、教室から無くなっているものがないか、一緒にご確認をお願いします。皆さんの指紋も、採取させていただきますよ。第三者のものと区別をつけたいので」
松下は智樹に向き直った。
「お孫さん、智樹さんですね。お祖父様のご遺体は、検死・・・司法解剖に回されますが」
智樹は強い意志の感じられる眼差しで、ポマード頭の松下と無造作ヘアの矢部の頭部を見据えて言った。人と目を合わせるのが苦手なようだ。
「爺さんの司法解剖には同意する。事件を解決して欲しいしな。でも、代わりに、操作の内容や進捗については俺にも教えてくれないか。爺さんを殺すような奴について、俺にも手掛かりになるようなことがないか探してみたいんだ」
「操作に支障のない範囲内で、捜査状況は遺族にお伝えできることになっています。もちろんお知らせしますよ」
松下は後で矢部に言った。
「長沼智樹に動機がないかどうかも、よく調べろ。保険金とか、遺書とかな」