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一条翠とパソコン教室すみれ

 そこにはいつも、笑顔があふれていた。これは、今のようにスマホが普及するよりもちょっと前のお話。


「一条先生おはよ」

 小柄な中年女性が、少女のようにガラスの引き戸を少し開けて顔を覗かせる。

「わー、おはようございます。梅澤さん、早いですね。今日はテキスト忘れずに持ってきました?」

 一条翠は、肩まで伸ばした髪を振りながら、遅刻せずに来室した主婦に嬉しそうな笑顔を向けて言った。

「今日は持ってきたよー。ねぇ見てよここ」

 と主婦はテーピングをした指を翠に見せる。

「昨日子供とキャッチボールしてる時、突き指しちゃったみたいなの。タイピング練習無理かも」

「あらら、じゃあ今日はタイピング練習無しで始めましょう。こちらのお席に用意してますよ」

 授業開始とともに、タイピング練習ソフトで練習をしてから各々の進度に合わせた学習を進める。それがこの教室の1コマ五十分の中のルーティンだった。


 ここはパソコン教室「すみれ」。

 町内会のお知らせを作りたいと、家事の合間に主婦が通う。

 また、六十の手習いとシニアが通う。

 資格を取りたい、という若い世代もやって来る。

 やってきた生徒に、講師が愛想良く話しかけて、アットホームな感じを出しているのはもちろん、生徒同士もご近所さんなので仲が良い。

「おはようございます」

「杉田さん。おはようございます。梅澤さんのお隣にお席ご準備してます」

入ってきた長身のきりっとしたおばあさまに、翠は瞬時に明るい笑顔を作って挨拶する。

「杉田さんおはようございます〜」

「あら梅澤さんおはよう。どうしたの、指」

 さりげなく杉田さんの視界に入るように机の上に出した梅澤さんの手に、杉田さんが反応する。

「拓真とキャッチボールしてる時、突き指しちゃったの〜」

「年取ってくると治りが遅くなってくるから、怪我にも気をつけないと。って、梅澤さんはまだそんな歳じゃないか」

 女性同士がワイワイしていると、腰の曲がったお爺様がやってきた。

「間に合ったかな」

「滝田さんおはようございます。これから始めるところですよ。今日はこちらのお席にどうぞ」

 と、翠は滝田さんを女性たちの座った席とは背中合わせになる反対側の席へ滝田のお爺さんを案内した。

 それぞれの席のパソコンには、作りかけの文書や解説動画、そしてタイピング練習ソフトが起動してある。生徒さん同士の関係を考えながら、五十分快適に学習してもらうための座席選びと事前準備も講師の大切な仕事だ。

「では今日もタイピング練習から始めましょう。梅澤さんはそのまま前回の続きを進めてください。では、よーい、始め」

 九時ぴったり開始。今日も完璧だ。


 「すみれ」の教室長、長沼さんは、長くIT企業の社長をしていた。引退後、地元に地域貢献がしたいと、さびれてきていた船橋市高城商店街の一角にパソコン教室を作った。彼は今も現役で教えている。


 その日の朝早く、翠は裏口の鉄製の重いドアを押し開け、教室の電気をつけると、商店街の通りに面した表のシャッターを開けに行った。古い商店街の古いシャッターだ。もちろん手動で開閉する。クレセント錠をアンロックしガラスの引き戸を開け、思いっきりしゃがんでシャッターの窪みに四本の指をかけてエイっと立ち上がる。ガラガラとシャッターを上げると、一面のガラスから降り注ぐ初夏の日差しが20畳ほどの教室の中を照らした。教室の中には、テーブルが左右の壁に向かって並べられ、パソコンが五台ずつ、計十台置いてある。奥には衝立が一枚あり、その裏には講師用のロッカーと椅子が隠してある。

 翠は通りに小さなカフェ風の看板を出し、教室に戻ると低くイージーリスニングのCDをかけた。音楽を聴きながら勉強すると、学習効率が落ちるなんて言う話もあるけれど、この教室はみんなが気軽に立ち寄れる、リラックスした雰囲気作りの方に重きを置いているのだ。

 月謝は現金払いだ。翠は小さなキャッシュボックスの入った机の脇の引き出しの鍵を開ける。引き出しの鍵は、机の鍵のかかっていない引き出しに入れっぱなしなので、防犯という意味ではあまり意味はないのだが、万が一強盗などに狙われた時に、時間を稼ぐ効果はあるだろう。

 開室準備はバッチリだ。今日の生徒さんは・・・九時に四人、十時に六人、十一時に八人。十時頃長沼さんが来る予定なので、何とか質問には対応できるだろう。

 午後には戸外での写真撮影イベントがある。みんなでデジカメで近所に写真を撮影しに行き、教室に帰ってからはカメラからパソコンに写真を取り込む方法をレクチャーするのだ。長沼さんが引率する。私も行きたかったけれど、教室に来る生徒さんの対応も必要だ。参加者はシニアのレディ達5人。みんな今日を楽しみにしていた。いつもと違う試みなので、長沼さんもそれはワクワクしていた。

 午前中の授業を開始する。「先生ちょっと」「先生分かりません」とちょこちょこ呼ばれ、分かるまで解説する。十時五分前に、裏口から長沼さんが登場した。それまで気が張っていた翠は、その姿を見るなりホッとした。

「待ってました」

「お疲れさん。今日も早番ありがとう。ええと・・・次は六人と八人ね」

 それ以降は長沼さんの独壇場だ。生徒さんとの会話も、パソコンやソフトの操作の指導も、長沼さんには敵わない。「長沼先生」には、長年培ってきたこの土地での人間関係と社会経験という大きな強みがある。「一条先生」が「長沼先生」のようになるには、まだ相当の修行が必要だ。

 それでも翠は話しづめ、歩きづめで、午前中の嵐のような授業時間が終了した。が、まだ田角さんというお爺さんが一人、粘って課題に取り組んでいた。終わるまでにどのくらいかかるか知れない。だが、頑張っているのを無下に中断させるのも忍びない。長沼さんは翠にこそっと言った。

「お疲れ様。午後は教室の方留守番頼むから、今のうちにお昼行ってきていいよ」

「はいっ。撮影会、みなさん楽しみにされてましたからね。デジカメ5台、そこに充電中です」

「さすが手際がいいなぁ」

 長沼さんは、何かにつけて褒めてくれる。にっこり微笑んだその顔は、撮影会が楽しみなのか、心なしかいつもよりウキウキしているように見えた。

「では、行ってきまーす」

 ガラス戸から商店街の中通りに出た。まさかこれが、長沼さんとの最後の会話になるとは思いもしなかった。

 隣の八百屋「青柳青果店」を、店のおばさんと会釈を交わしながら通り過ぎ、翠は行きつけの中華料理店「龍神亭」へ入った。

「こんにちはー。おばちゃん、タンメンください」

「あいよー」

 数年前に夫に先立たれたというおばちゃんは、「龍神亭」を1人で切り盛りしていた。腰の曲がった体で今日も大鍋を振っている。他に客は無い。ここにくると大体そうだ。どうやって経営が成り立っているのだろう。

 翠はふうっと気が抜けて、何となく今までのことを思い出していた。


 翠は理工系の国立大学を卒業した後、新卒でソフトウェア開発会社へ入社した。就職説明会で「エンジニアプロ集団」という触れ込みで翠を心酔させたその会社は、システム開発の二次受けの会社、つまり大会社が顧客から請け負った仕事を外注先として受託しプログラミングをする会社であった。給料は安く残業は多いが、残業代は満額出るし、学歴関係なく仕事ぶりで出世していける。実際大卒者は少なく、翠は幹部候補生扱いだった。周りにはコンピュータマニアがゴロゴロいた。彼らは、休みの日にも自作のコンピュータを組み立てたり、プログラムのコードを書いているような人達だった。一応プログラミングの勉強はしていて、コードの何たるかを知ってはいるものの、趣味は読書や音楽鑑賞で職業プログラマーであった翠は、毎日の仕事をこなすことで精一杯だった。それも周りの人よりたくさん時間をかけて。

 残業は続いた。忙しい時には会社に泊まり込むことも多かった。キャスターのついた椅子を同僚の分も拝借して、並べてその上で横になり仮眠をとる。コーディングに没頭している時間はそれなりに楽しいものの、人間的な生活を無視した働き方は、数年かけて翠の体を少しずつ狂わせていった。

 休みの日には寝ているだけになった。朝起きれなくなった。最初は有給を取ってリセットしていた疲れが、休んでもずっと抜けなくなった。常に頭が痛い。マッサージにも行ってみたが、よくなるのは一時だけだ。食事や掃除や服装など、もともと無頓着だったものに一層関心を持てなくなった。全てが面倒でどうでもいい。とうとうそれは、仕事や生きることにも及んだ。その頃には時間通り出社することが、至難の業になっていた。

 翠はうつ病と診断され、会社を休職した。しかし、翠が会社に戻ることはなかった。

 退職が宣告され、無職となった焦りから、翠は自分のスキルを活かせる仕事を探した。まだ心が回復してはいなかったが、実際問題貯金が目減りしお金に困ってくると、社会人としてのプライドと生活への不安がむくむくと湧き起こり、ハローワークへと翠を突き動かしたのだ。

 パソコン教室なら、自分のやっていたことが役に立つかもしれない。そう思って応募した「すみれ」で、翠は自分の心がキラキラと光を浴びて輝くのを感じた。自分の経歴を見た長沼さんの喜びよう。長沼さんも生徒さんも、いつも笑顔で挨拶をしてくれること。どちらかと言うと口下手だと思っていた自分が、パソコンの使い方を説明する時にはイキイキと自信を持って説明できること。いちいち「ありがとう」と言われること。太陽の光を浴びた教室内での他愛もないおしゃべり。商店街の行きつけの中華屋で食べるラーメンの美味しさ。教室でのあらゆる活動の全てが、再び自分の心に色を付け、生きがいを与えてくれたのだ。もう翠にとって、「すみれ」はなくてはならない居場所だった。絶対に失いたくない。


 ぼうっとしている間に、タンメンを平らげた。いつも通り美味い。

「おばちゃん、ごちそうさま」

 700円を手渡す。

「おうっ、今度は友達でも一緒に連れてきてね」

 やっぱり、経営厳しいのかな。でも、長沼さんはいつもおにぎり持参でお昼食べに出ないし、生徒さんと個人的に出かけるのは控えたいし。私は外の空気を吸いたくて、少しでも太陽光を浴びてセロトニン出さないと鬱がぶり返さないか心配で、なるべくいつも出かけるのだけれど。


 商店街の中通りを通って「すみれ」に帰ってくると、通りに面したガラス面にはロールスクリーンが下ろされ、出入り口には「休憩中」の文字が見えた。生徒さんが帰ってから、長沼さんが下ろしてくれたのだろう。鍵も閉まっている。翠は裏口にまわり、朝と同じように鍵を開け、重い鉄製の扉を開いた。

 キイ・・・

 あれ、何だろう。講師休憩スペースの目隠しに置いてある衝立の上から、ロープが出て、講師用ロッカーの扉に括り付けられている。衝立の裏に、何か吊り下げられているのか?

 教室の中へと進んでいく。そして翠が衝立の後ろに見たものは。

 長沼裕樹の、変わり果てた姿だった。

「キャアアアアアアァァァァッ」

 駆け寄ると、長沼さんは首にロープを巻き付けて、ものすごい形相でぶら下がっていた。とても生きているとは思えなかったが、翠は「長沼さん、長沼さん」と言って長沼さんを抱っこし、ロープを緩ませようと試みた。しかし、完全に力が抜け動く気配のない長沼さんの体はとても重く、どちらかといえば虚弱な翠には到底持ち上げることができなかった。

 誰か、誰か呼ばないと。

 そう思って翠は裏口に戻った。

 裏口を出たところで、隣の肉屋「藤原精肉店」のおばさん、藤原タネさんが隣のドアから出てきた。

「どうした翠ちゃん、そんな怖い顔して、ゴキブリでも出たかい」

「タネさん!タネさん・・・長沼さんがあぁ」

 タネさんの腕にしがみつき、必死で「すみれ」の裏口へ連れて行く。「すみれ」の中に入ったタネさんは、長沼さんの体を発見した。

「キャアアアアアアァァァァッ」

 タネさんも、翠に負けず大きな悲鳴を上げた。しかしそこは年の功、冷静さを保って彼女は言った。

「何てこった・・・!警察は呼んだかい?」

 頭を左右に振る。そのうちに、ロールスクリーンの向こうに人影が集まってきていた。今日は写真撮影会が開催予定なのだ。現在時刻は11時50分。みんな張り切って早めに来たのだろう。

 翠はロールスクリーンを上げずに表へ出て、集まった生徒さん達にお詫びを言った。長沼さんが具合が悪くて、と言い訳した。

 その間にタネさんが警察に通報した。

「高城商店街のパソコン教室で、経営者が首を吊っていまして。はい、私は隣のもので、発見した従業員に連れてこられて・・・」

 翠は、外のカフェ看板に「臨時休業」と書いた。

「智樹さんにも知らせなくちゃ」

 高城商店街は、店舗兼住宅がいく棟か連なった長屋のような建物でできている。一階は店舗で、二階は住居スペースになっている。「すみれ」の二階もそうなのだが、長沼祐樹は別に家があり、そこを使っていなかった。代わりに、孫の智樹が住んでいた。

 一階と二階の玄関は別だった。裏口の脇にある外階段を上り、インターホンを押す。しばらく待っても出ないので、何回か押す。すると

「・・・はい」

と眠そうな声がした。

「智樹さんですが?従業員の一条です。下りてきてください。お祖父様が大変なことに・・・」

 ガチャリ、と戸が開いた。

 長い前髪で前が見えなそうな、ボサボサ長髪の若い男性が、ヨレヨレのTシャツにスゥエットのズボンといういでたちで出てきた。

「大変なこと?」

「いらっしゃったら分かります」

 彼の後ろにはギターが何本かと、楽譜だろうか、散らばった紙類、そしてグシャグシャの寝床が見える。

 智樹は舌打ちをして、サンダルをつっかけて下へ降りていった。

 ドアクローザーでだんだんと閉まって行く扉を見ながら、今更翠は信じられない出来事に呆然としながら、涙が溢れてくるのを止められなかった。

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