8.新たな予見
ベーヴェルン領へ帰ったシャルロッテは、王都での鬱憤を晴らすかのように活動的になった。
馬を駆って領内を巡って領民を驚かせたり、精霊殿や医療施設などを訪問して、担当者を慌てさせたり、とあちこちで話題になっていた。
馬に乗れないエルケはつき添っていなかったが、侯爵家の護衛騎士が常に同行している。
王太子殿下の護衛がついているから大丈夫だ、とは言えるはずもなく、どこへ行ってもそれらしい人も現れないので、目に見える形で護衛がついている必要もあった。
王都の両親からは、それぞれ苦言とも心配ともつかない手紙がときおり届いたが、シャルロッテが大人しくしているわけはない、とふたりともわかっているようだった。
「まあ、王都でおひとり歩きされるよりは、お嬢様を知っている者ばかりの領内を護衛つきで回られるほうが、よほど安心ですからね。でも先触れくらいは出してくださいな。いきなりいらっしゃったから、鉱山の事務所が大慌てだったと聞きましたよ」
お目付け役のエルケには、シャルロッテの行動は筒抜けとなっている。苦情、というよりはお嬢様がいらっしゃるなら、しかるべくおもてなしをしたいから知らせてくれ、という要望があちこちから届いているのだ。
しかし、お嬢様は思いつきでその日の行き先を決めているので無理な話である。
「そのようなことをしたら、かえって仕事を増やしてしまうでしょう。皆の顔を見たいだけなのだから、いいのよ」
王都では噂だけがひとり歩きしている『精霊姫』も、地元では自慢のお嬢様である。シャルロッテが訪れて励ますだけで、鉱山の生産量が増えるといわれるほどだ。
そういった扱いを少し面映ゆく感じながらも、王都では隠していた本来の自分を取り戻して、羽を伸ばしていた。
エルケや本邸の使用人たちも、あまりうるさく言うこともなく、世話を焼いてくれる。
――こういう暮らしをしていられるだけでいいのに。王太子殿下とのお話は正式にはなにもないわけだし、このまま中途半端な状態が続けば、扱いの難しい娘として敬遠されていかないかしら。……でも――
『君が抱える必要はなかったのにな』
王宮の庭でかけられた、思いがけないいたわりの言葉が、あの美しい瞳とともに胸に残っている。
それは気づかぬうちに、ゆっくりとシャルロッテの心に、なにかを育んでいた。
気ままに過ごすことにも飽きはじめて、出かけることが少し減ってきた夏の終わり。
早朝に目を覚ましたシャルロッテは、べったりと背中に貼りついた寝衣の上に、さらに汗が流れるのを感じた。その汗を拭きとることもせず、寝台から下りると、デスクに向かってペンを取った。
――――
フェルディナント王太子殿下
わたくしが、さらわれる夢をみました。
時期はわかりませんが、今と同じくらいの季節の服装で、数人の貴族と彼らに雇われたと思われる男たちに、連れ去られてしまうのです。
手足の自由を奪われてノルトシュヴァルツか、似たような鉱山の洞穴に捕らわれていました。
貴族のほうは、わたくしをさらってくるよう誰かに依頼された、と話していました。
わたくしはアンティリアの侯爵家以上の当主、次期当主の方々の姿絵しか見たことがありませんが、貴族と思われる数人は見知らぬ顔ばかりでした。
邸で大人しくしています。
シャルロッテ・ウルリーケ・ベーヴェルン
――――
手紙を折りたたんで、白い封筒に丁寧に収める。シャルロッテ専用の、濃い茶色の蝋を溶かして閉じ口に垂らすと、印章を押しあてる。ベーヴェルン家の紋章がくっきりと刻まれたそれに手をかざす。飴色の魔力がふわりと光って封蝋に吸い込まれた。
「まあ、珍しい。ご自分でお目覚めになられたのですか」
朝の支度のために部屋へ入ってきたエルケは、振り返ったシャルロッテの青ざめた顔を見て驚く。
「……ご気分がよくありませんか?」
「うん、ちょっと汗をかいて気持ち悪いの」
「まだ暑いですからね。湯を用意いたしますから汗を流して、今日はゆっくりなさってはいかがですか」
エルケは主人が心もとない様子になっている、とすぐに気づいた。長く仕える彼女は、シャルロッテのこのように覚束ない姿を見ることが、幾度かあった。
不安を打ち明けることも、甘えてくることもないシャルロッテを、そっとしておくしかないということも知っている。
だが、今日はこれまでとは少しだけ違う雰囲気で、エルケを上目遣いに見るシャルロッテがいた。
「ねえ、エルケ。これを精霊殿に持っていってくれないかしら。王都の精霊殿へ送ってほしいの」
「王都へですか? お嬢様、宛名がありませんけれど」
「大丈夫、それでいいのよ。……聞かないで」
転移の魔法は、精霊術士が組んだ魔法陣に魔力を注いで、物質を離れた場所へと転移させる術である。ただし、この魔法で人を送ることはできない。通常、魔法陣に乗った生き物は、空間を転移することなくその場で命を失うか、転移先の魔法陣に現れることなく消え失せる。
ただし、アンティリアの王族は魔法陣を使うことなく、身一つで望む場所に転移できる。また、『王家の精霊石』の魔力を使えば、人が魔法陣で転移することも可能である。
各地の精霊殿には転移所が設けられており、通信や必要物資の転移を精霊術士が行っている。
大きな加護の器を持つ者がいる貴族家では、独自に転移所を設けていることもあるが、ベーヴェルン侯爵家では、領内の精霊殿の転移所を利用していた。
王太子フェルディナント宛の魔力封が施された王族専用の封筒は、王都の精霊殿へ送れば、すぐに王宮へ届けられるだろう。
封筒を受け取ったエルケは、封筒とシャルロッテの顔を交互に見ると、おもむろに口を開いた。
「私はお嬢様のお嫁入りには連れていっていただきたいと思っていましけど、王宮となるとやっぱり難しいでしょうか?」
シャルロッテは目と口をぱっくりと開けて、はっと渇いた息を吐き出す。
「な、なんで、そういう話になるのよ! 私が結婚したくないって思ってることは知ってるじゃないの!」
「えー、だってお嬢様、これ、王太子様宛なんでしょう? ということは、やっぱり王都の噂は……」
「違う違うちがーう! もう、違うから! いいから、はやくそれを持っていってったら!」
くすくす笑うエルケを追い出して、熱くなった顔を手であおぐがちっとも熱は引かない。
エルケが言い置いていってくれたらしく、すぐにメイドが湯を用意してくれたので汗を流した。
しかし、その日は結局重苦しい気持ちから逃れられず、一日自室で過ごした。
夜、寝支度を整えて部屋の灯りを落としたが、寝つけない。寝台に腰掛けて足もとに置かれた常夜灯を見ると、中で大地の精霊石が琥珀色の光をゆらめかせている。儚げな光はとても頼りなく、不安をかき立てられる。
シャルロッテは手を伸ばして、ガウンのあわせから金の鎖を引き出した。丸みを帯びた金の雫にそっと指をかける。カチッと小さな音を立てて開いた隙間から、鋭く伸びる虹色の光が部屋の中に広がる。
精霊石は宝石とは異なり、石自体が光を放つ。太陽の光のもとでもきらきらしく輝いていたフェルディナントの精霊石は、夜の帳を切り裂くように力強く輝く。
常夜灯の精霊石はシャルロッテの魔力を込めたものだが、フェルディナントの精霊石の光にからめ取られて、用をなさなくなった。
「綺麗……」
ペンダントの蓋を完全に開くと、部屋の中は昼間のように明るくなった。シャルロッテは体の強張りがゆるんで、ほっと息を吐いた。無意識に張り詰めていた心が、ゆっくりとほぐれていく。
揺れ動く虹色の光の中で、紅い帯がシャルロッテを包むと頬に流れる涙が照らされる。
紅い帯の流れを目で追っていると、徐々にシャルロッテの正面に集まっていく。
「えっ?」
紅い光が集まって、その周りに虹色の膜ができる。巨大な精霊石の塊が現れた、と思った一瞬。
膜が解けて消えていく。
そこに、フェルディナントが立っていた。
「あ、あっ」
驚いて口を押さえると、フェルディナントは素早く近よって、シャルロッテの手の上の精霊石の蓋を閉じた。
部屋の中が、常夜灯のぼんやりした灯りだけに戻る。フェルディナントの瞳が、夜空に浮かぶ星のように瞬いた。
「驚かせてすまない。話をしに来ただけだ。頼むから静かに」
こくこくと首を縦に動かすと、フェルディナントは微笑んで手を離したが、指は頬の涙をなぞっていく。そのまま体を引き寄せられるとゆるやかに、だがしっかりと抱きしめられた。
「で、殿下……」
「ひとりで不安だっただろう。すぐに来られなくて悪かった」
その言葉に、また涙が流れた。これまで、己に直接降りかかる事態の予見を得たことはなかった。夢とはいえ、はっきりと目にしたその光景が、近いうちに現実になると知っている。今日一日、不安でたまらなかった。
大きな胸に身を任せていると、強健な鼓動が掌に響く。少しはやいその振動を感じて、シャルロッテは落ち着いていった。
「大丈夫……、ではないな」
少しして腕を解いたフェルディナントは、それでもシャルロッテの顔を両手で挟んでのぞき込む。涙のあとはまだ乾いていない。
「殿下。近いです……」
「ああ、そうだな」
手を離して笑みを見せたフェルディナントは、シャルロッテと並んで寝台に座る。これ以上距離を空けることは許されないらしい。
「あの! 私、このような格好で、申し訳ありません。えっと、着替えて参りますので!」
落ち着いてくると、寝室に男性とふたりきりでいる、その事実に心臓が耐えられそうにない。ガウンだけでは心許なく、せめて、身なりを整えたい。
「ああ、そのようなことはかわまない。……というわけにはいかないか」
シャルロッテの心情を理解したフェルディナントは、立ち上がってマントの留め具を外した。黒いマントをシャルロッテの背にふわりとかけると、座り直す。シャルロッテは体の前でマントの端を握りしめた。
王都の丘の上で感じた風の薫りが、シャルロッテを包んだ。