6.ルドヴィカ・アンゼルミーナ・ベーヴェルン
ルドヴィカは中庭のテラスで、テオドールとお茶の時間を過ごしていた。
「お母様、ちょっとよろしいでしょうか?」
「ええ、いいわよ。お掛けなさい」
侍女に新しいお茶の用意を申しつけると、ルドヴィカは向かい側の椅子を示した。
シャルロッテは椅子に掛けると同時に、テーブルに置かれた焼き菓子に手を伸ばす。
「お行儀の悪いことをしないの。もう大人の仲間入りをしたのでしょう」
「はあい。外ではいたしません」
「姉さま、王宮はどうだったの? 王様にお会いしたのでしょう? 楽しかった?」
十歳のテオドールが、子どもらしく好奇心いっぱいに話しかけてくる。
溶かしたバターのような色の巻き毛に、冬の透き通った青空の瞳が愛らしい弟は、姉に劣らず将来が楽しみな容姿をしている。
シャルロッテが毎日のように家出をしていたために、王都にきてからはテオドールとあまり接していない。遊びたい盛りのテオドールはいくらか不満に思っていたらしい。
「王宮はとっても豪華で美しい建物だったわ。王様は立派な王冠をかぶっていらして威厳があって、王妃様は優しく微笑んでくださったのよ」
テオドールが喜びそうな話題を選んで話すと、期待通りの笑顔を見せてくれる。
「王子様は? 騎士はたくさんいたの? いいなあ。ぼくも行ってみたいなあ」
足をぷらぷら動かしながら目を輝かせるテオドールに、ルドヴィカが水をさす。
「ほら、テオはお勉強の時間でしょう。そろそろお部屋に戻りなさい」
「えー、姉さまとぜんぜんお話ししてないのに。もう少しくらい、いいでしょう?」
テオドールは口をとがらせて食い下がるが、ルドヴィカは許さなかった。
「だめよ。もう先生がいらっしゃる時間でしょう」
「はあい。姉さまはもう忙しいのは終わったんでしょう? 後でちゃんとお話を聞かせてね」
約束だよ、と言いながら邸内へ戻るテオドールを見送ると、シャルロッテはテーブルの上に悩みの種を広げて見せた。
娘が顔を出した理由に気づいていたルドヴィカは、目を細くしてお茶を飲んだ。シャルロッテもテーブルに置かれたカップを口に運ぶ。
「まだまだたくさん届いているのですけれど、どうしたらよいでしょうか?」
「王太子殿下はどのように仰っているの?」
「!」
思わず咳き込んで、お茶をこぼしそうになったシャルロッテに、ルドヴィカは顔をしかめる。
「礼儀作法をやり直したほうがよいかしらね」
「も、申し訳ありません……」
カップを戻すと、ルドヴィカは娘より少し濃い『大地の精霊』の加護を持つ茶色の瞳で、真っ直ぐに見つめてくる。
「シャルロッテ、今の自分の立場はわかっているの?」
「ええと……」
「もう社交界では、貴女が王太子殿下の婚約者の最有力候補だと言われているのよ。だからそういったお手紙が次々に届いているのでしょう。私のほうにも貴女と同じだけきているわ」
ルドヴィカが形のよい眉を動かして、不快を表す。おそらく娘と同様に社交嫌いの侯爵夫人も、うんざりしているのだ。
未来の王太子妃だけでなくその母親も、今まであまり交流を持っていなかっただけに、慌てて縁をつなごうと考えた者が多くいるようだ。
その点にまったく気がつかなかったシャルロッテは、ゆっくりお茶を飲み直して、首をすくめる。
「今まで婚約者については噂程度の候補者しかいなかったのに、春の夜会でデビュタントと踊ったらどういうことになるか。殿下もわかっていらしたはずでしょう。なぜそうなさったのか、お話があったのではないの?」
ルドヴィカの問いはもっともであるが、フェルディナントから言われたのは、これまで通り『予見の魔法』については誰にも話さないこと。それに触れずにどう説明すればよいかを慎重に考えていると、先に助け舟が出された。
「話せることだけでいいわ。それをどうするかは、殿下のご意向がわからないと決められないでしょう?」
ルドヴィカは封筒を指差して、茶色の瞳を瞬かせた。シャルロッテは小さくうなずいて口を開いた。
「殿下はわたくしが社交界には出たくない、と思っていることをなぜかご存知でいらしたのです。そして、そのようにしてやるから最初の夜会には出席するように、と仰いました」
ルドヴィカが視線で促したので、シャルロッテは王妃の茶会の日のフェルディナントとの会話のうち、夜会にかかわることだけを話した。
「それが、夜会であのようなことになって……。これからくる招待を全て断れば、すぐに誘い自体がこなくなるだろう、と。ただ殿下はなにもしない、と仰いました。わたくしは所在さえお知らせしておけば、好きにしていいそうです。……お父様が持ってくるお見合いを避けることばかり考えていたので、こういったお誘いがくるなんて、思ってもみなくて」
ルドヴィカが呆れた様子で額に手をあてている。母のこのような姿を見たのははじめてだな、と少し驚く。一方で、己の行動がかなり場当たりなものであったことに、いまさら気づかされた。
「……貴女は本当に。まあ、そうね、いろいろ考えているうちに面倒になって、結局成り行き任せにしてしまうのは小さい頃から変わらないわね。……もう少し気を配っていればよかったわ」
「あの、お母様?」
「もう起こってしまったのだから、仕方がないわ。それで、貴女はどうしたいの?」
「え?」
シャルロッテが望んでいるのは、社交界から遠ざかって静かに暮らしていくことだ。
「わたくしは貴族社会に向いていないと思うんです。だから、ずっと本邸に引っ込んで過ごしていたい、と本気で考えていました。本当は精霊殿にお仕えしたいと思っていたのですけど……」
後ろめたい気持ちがあるので、わざとらしく上目遣いで母の顔色をうかがったが、大きなため息で返される。
「こそこそなにかしていたのは、知っていたわ。でも、向いているとか、いないとかの話ではないのよ。ただでさえ大きな器を持って侯爵家に生まれたのだから、それ以外の道を選ぶことはできないわ。なにもかも自分の思い通りに生きられる人はいないのよ。貴族が貴族である理由はわかっているでしょう?」
こんなにたくさん母と話したのは、覚えている限りでは、はじめてのことだ。近寄りがたいと勝手に思い込んでいただけで、母はそれなりに娘を心配してくれていたのかもしれない。
「精霊石が、領民の暮らしに必要なものだとはわかっています。それが貴族の務めだということも。でもそれは精霊術士になっても、できることではありませんか?」
「精霊術士は、器の大きなものが民間に生まれたときの受け皿よ。貴族の気まぐれで彼らの社会を乱してはいけません」
「気まぐれではありません!」
思わず大きな声が出てしまう。しかし、本心からの言葉を取り消すことはできない。勢いそのままにシャルロッテは訴えた。
「わたくしの器はわたくし自身に扱いきれません。……怖いのです、お母様。今はベーヴェルンのために使うだけで済んでいます。ですが、結婚したらそれだけではなくなるでしょう?」
ルドヴィカは今度は無作法をとがめなかった。厳しい表情でシャルロッテを見つめながら、耳をかたむけている。
「そうね、結婚すれば婚家の人間になるのですからね。そちらの意向を尊重しなければならないでしょう。旦那様が考えておられるように、我が家の分家として婿入りしてくれる相手を探すのも、簡単ではないでしょうね」
「なら、お母様から仰ってください。無理ですと」
「無理ではないし、旦那様もわかっていらっしゃるわ。それに貴女がこれからも、貴族として生きていくことに変わりはないのよ?」
シャルロッテの顔がふてくされていくのを見て、ルドヴィカは冷たい口調で告げる。
「本当に、精霊術士として生きていく覚悟があるの? 彼らの世界にも大変なことは多いのよ。貴族の暮らししか知らない娘が、その中で平穏に過ごせると思うの? どれだけの修練を積んだとしても、貴族の生まれであることは消せない。異分子は受け入れるよりも、排除するほうが楽なものなのよ。不安から逃げ出したい気持ちはわかるけれど、それなら貴族として、どのように身を処していくかを考えるほうが現実的ではないかしら」
己の考えが甘いとはわかっていたが、はっきりと指摘されて素直になれるほど大人ではない。シャルロッテは膝の上で拳を握りしめた。
「お母様だって、貴族の暮らししか知らないでしょう?」
「ええ、そうね。だから、貴族がどういうものか、貴女よりよく知っているのよ。少なくとも今後の行動については、王太子殿下にお伺いを立てなければならない、と理解しているわ」
ぴしゃりとルドヴィカは言い、シャルロッテは背筋を伸ばした。もはやシャルロッテの手には負えない事態になっている。
正式に婚約の話が出ていなくても、有力貴族の集まる場で、王太子がわざわざデビュタントと踊った。その事実だけで、様々な思惑がもう動きはじめている。
「殿下のお考えはわからないけれど、もう好き勝手はできませんよ。旦那様も王家のご意向を探っていらっしゃるみたいだけれど、直接のご指示がない以上待つしかないでしょうね」
顔を上げると、いまにも泣き出しそうなシャルロッテに、ルドヴィカが苦笑をこぼした。
「……お母様」
「ふふ、そんな顔を見るのは久しぶりだと思ったのよ。今できることはないのよ、本当に。……でもそうねえ、確かにそれはうっとうしいわね」
翌日、シャルロッテは逃げるように王都をあとにして、ベーヴェルン領の本邸へ帰った。夜会から一週間と経たないうちのことであった。
フェルディナントへは、渡された封筒を使って最低限の連絡を入れた。
ルドヴィカの助言を受けて、所在を知らせて好きにすることにしたのである。
王都の別邸ではルドヴィカが、約束したのに! と怒るテオドールと、呆然するアントンをなだめながらも口もとをゆるめていた。