魔女と精霊姫 5
その森はエルデの森と呼ばれる。
数百年前、もとはヴィルトグラーフ家の先祖が切り拓いた土地に、『大地の精霊』の泉が見つかったために王家へ献上させられたのである。
しかしながら、ヴィルトグラーフ家にはその経緯は伝わらず、エルデの森は王家の森、という事実だけが残る。今では伯爵領の民は、『大地の精霊』の泉の存在を知らず、森は触れてはならぬ土地として扱われている。
森の入り口の精霊殿は、王家の直轄地に設けられたとは思えないほど小規模で、祈りの場というよりは砦のように見える。
王太子夫妻は、建物の前で護衛の騎士に馬を預けると、精霊殿の敷地へと入った。
石積みの無骨な門の脇に、小柄な老婦人が立っていた。
「お待ち申し上げておりました、王太子殿下。妃殿下」
精霊術士の白いローブを身に着け、清廉な空気をまとった女性の顔には、笑みによって深く皺が刻まれる。それは、これまでの彼女が決して、平穏に過ごしてはいなかったことを表している。
胸の前で手を重ねて深々と腰折った彼女に、フェルディナントは親しげにこたえた。
「久しいな、アーダ。変わりないか」
「おかげをもちまして、つつがなく」
「そうか。シャルロッテ、こちらはこの精霊殿を統括する精霊術士のアーダだ」
「アーダと申します。妃殿下、お目にかかれてうれしゅうございます」
「ありがとう、世話になりますね」
「さあ、どうぞご案内いたします」
門からすぐに届く扉の中に入る。真っ直ぐにのびる通路は壁と同じ石造りで、しんとした空気の中で魔力灯の琥珀色の光は頼りなく揺らいでいる。
いくつかの曲がり角を経て、たどり着いた先の重厚な木製の扉は開いていた。
「……先客か」
「結界が!」
アーダが口を開けた扉に駆け寄ると、その先に続く暗闇の入り口の手前で、ずるずると座り込み、そのまま額を地面に擦りつけた。
「申し訳ありません。殿下!」
「いや、ここの結界を解ける者など、数えるほどしかいない。よい、アーダ、お前は戻っていろ。結界を解いたのは私だ。わかるな?」
アーダは、静かに立ち上がると、深々と頭を下げて来た道筋を戻っていく。
シャルロッテは、フェルディナントの顔が自身へ向けられるのを待ってから問いかけた。
「ここは閉じられていたのね?」
「扉は封印されていたはずだが、それを破ったとしても、結界による石の壁に阻まれる。今はどちらも解かれているな」
「解いた人に心あたりがあるのね」
王家によって秘された泉、その結界は王族の虹色の魔力によって施されている。
厳重な結界は破られたのではなく、正しく解かれている。アーダの慌てぶりからしても、相当の器の持ち主でなければできないのだろう。しかし、フェルディナントは落ち着いている。
「この先にいる人に会わせることが目的だったのかしら?」
「いや、流石にこれは予想外だ。『大地の精霊』の泉がヴィルトグラーフにあるのも、なにか意味があるのかもしれない、とは思っていたが」
フェルディナントが差し出した手を取り、シャルロッテはぱっくりと開いた暗闇へ足を踏み入れる。
体が扉の枠となる石の境を完全に越えると、外からはまったく見えなかった琥珀色の霧が足もとをぼんやりと照らし出した。
「『大地の精霊』の力……」
「扉の封印に、空間を遮断する結界、さらに魔力の透過を阻害する結界。そのうちのふたつだけを解く。王族以外でそのようなことができる者は、私が知る限りはひとりだけだ」
フェルディナントは、シャルロッテの手をあらためて強く握りしめる。
「大丈夫だとは思うが、手を離すなよ」
「ええ」
ゆるやかに曲がる廊下の石の床に、踵のぶつかる音が響く。
入り口からは見えなかった奥の間が視界に入ると、シャルロッテはまぶしさに一瞬目を閉じた。
「やはり、そなたであったか」
フェルディナントが声をかけた相手は、シャルロッテよりも小柄な女性である。銀灰色のローブのフードを深く被っていて顔は見えない。腰の曲がった彼女が手にもつ杖の先は、頭よりも上にある。
濃い琥珀色の光に照らされた空間の中心には、漆黒の大岩があり、その上には白い石を穿った深い鉢が置かれている。鉢の中には葡萄地酒色の『大地の精霊』の力が湧き出し、ゆっくりとあふれて足もとへと流れ落ちてくる。
ローブ姿の女性は白い器に右手を浸して、なにかを探している。入ってきたふたりに目を向けることなく、口を開いた。
「久かたぶり、というほどでもないかの」
「そうだな、これほど早く姿を見せるとは思わなかった」
「ぬしはついでじゃ。アウストラシアの最後の『精霊姫』を見ておこうと思うてな」
手になにかを握った老婆は、器から身を離してシャルロッテに向き直った。目深に被ったフードからは口もとしか見えないが、そこに刻まれたしわがわずかに震えた。
「なるほどな、最後にして最大の器を得たか。もったいないことじゃて」
フェルディナントが息を呑む音が、シャルロッテの耳に届いた。その意味を理解したシャルロッテが代わりに問う。
「あなたは?」
「そうよの。顔をあわせるのは、はじめてじゃがフェルディナント王子からは聞いておろう」
フェルディナントはシャルロッテの手を離すと、すぐに腰を引き寄せる。
「件の魔女だ。かつて王家の泉の蓋が破れたときに現れたという。そして昨年は、ローザリンデの帰還を告げにきたな。またなにか起こるのか?」
魔女の口の端がにっと上がる。
「シャルロッテ・ウルリーケの顔を見に来ただけじゃ」
フェルディナントの手に力が入る。その手に己の手を重ねたシャルロッテは夫を見上げた。
「随分な執心じゃな。まあよかろうて」
「『最後の』と言いましたね?」
「そう、正しく『アウストラシアの最後』の『精霊姫』。シャルロッテ・ウルリーケが、この先に『大地の精霊』の守護の証をつなぐことはない。もはや『大地の精霊』の加護は、アウストラシアから離れた」
フェルディナントの緊張がわずかにゆるむが、腕の力は変わらない。
「それは誰の意思だ?」
魔女の口から、ため息とも嘲笑ともつかない音がもれた。
「さてな、精霊の理を唯人がわかろうはずもなし。……だが、アウストラシアには、まだ猶予を与えられておったのだ。それを無にした今、加護を取り戻すことは叶わぬ」
今度は明らかなため息を吐いて、魔女は首を横に振った。
「ウルリーケ王女の遁走ののち、王のもとに生まれた王女が『精霊姫』じゃった。王はウルリーケ王女を赦しながらも、己が娘には自由を与えぬままにした。それが岐路であったかの。猶予はシャルロッテ・ウルリーケを迎え入れられるか否か、であったが……」
「それはありえない」
フェルディナントが魔女の言葉をさえぎると、くっくっと喉の奥を震わせながら、彼女は杖の先でフードを背に落とした。
長くうねった白髪頭が少しだけ上向くと、くすんだ青緑色の瞳がまぶたの間からうかがえた。
「少し喋りすぎたかの。ついでに教えてやろう。新たな『精霊姫』はすでに生まれた。マーンリオはしばらく荒れる」
フェルディナントの眉根が寄り、身を震わせたシャルロッテをさらに強く抱える。
「なにが見えた?」
「さて、儂には『予見』の魔法は使えぬでな」
「白々しいな。そなたは未来視の力をもっているだろう」
「儂に見えるのは幾重にもからまる可能性じゃ。今このときに限れば『予見』の魔法のほうが、よほど優れた未来視であろうよ。シャルロッテ・ウルリーケには見えるじゃろうて」
魔女がフェルディナントをにらみつける。シャルロッテは身をすくめたが、すぐに大きな手が背をなでる。
「私は妃にそれを求めない」
「ほう? ヨアヒム王に似たのは顔だけか。それはよいの」
「お祖父様は名君たることを望んでおられたからな。私はそのようなものに興味はない」
魔女の重そうなまぶたがわずかに上がり、青緑色の瞳がより濃く見える。その眼光は、老婆には似つかわしくない鋭さだが、ゆっくりと弧を描くまぶたによってすぐに隠された。
「ならば、儂の話は仕舞いじゃ」
魔女は再びシャルロッテに目を向けると、握った右手を差し出した。
「シャルロッテ・ウルリーケがもつに相応しかろう」
シャルロッテが両手を広げると、開いた拳から飴色の石が落とされた。
「大地の魔石じゃ」
「魔石?」
「加護の力の結晶、空の石に依らぬ精霊石は、それゆえに強い魔力を秘める。気をつけよ」
シャルロッテは、己の瞳と同じ輝きを放つ石を見つめて、うなずいた。
魔女の目的が、真にシャルロッテに会うことであったと認めて、フェルディナントはやっと緊張を解く。
「ローザリンデは黒髪の美女が現れたと言っていたが、またその姿か」
「王族と馴れあう気はないでな」
「ローザリンデも王族だが?」
「あの娘はアンティリア王家には戻らぬ」
そうか、と満足そうにうなずくフェルディナントを見て、魔女は片方の眉だけをゆがめた。瞳も片側だけが少し色を見せる。
「本当に喋りすぎたの。やはり、王族にかかわるものではないわ」
魔女の足もとの琥珀色の霧が渦を巻き、青緑色に変わっていく。霧が魔女を包み込んで弾けると、彼女の姿は消えた。
青緑の光は次第に色を失って白く煌めき、琥珀色の中に溶けていく。
シャルロッテは、掌に残された飴色に輝く石を見つめる。一般的な精霊石よりも一回り大きい。大地の濃い魔力が込められた石の輝きに、不思議なあたたかさを感じる。
「少なくとも、シャルロッテのことは気に入ったようだな」
「そうなのかしら?」
シャルロッテは眉をゆがめて、フェルディナントにあらたまった調子で問う。
「魔石はどういうものなの?」
「魔女の言った通りだ。空の石に魔力を込めた精霊石ではなく、魔力のみを集めた結晶。魔力そのものであるから強力な力をもつが、使いきれば霧散してなにも残らない」
「で?」
「それをつくれるのは、叔父上と父上。……あとは、おそらくローザリンデも。だが、姉上と私にはできない。泉から取り出したようにしていたのは見せかけだろう。ここの魔力でそれだけの石がつくれるとは思えない。ましてや、魔石だ。魔女が用意したものだな」
飴色の石の輝きは、これまでに見たどの大地の精霊石よりも濃く美しい。石の中に渦巻く魔力は、うっかり見惚れてしまうと、取り込まれてしまいそうに思える。
「大地の魔力が、これほど明るく光るとは知らなかったわ」
「それを渡すために来たのかもしれないな」
「なぜ私に?」
「ラルフは、あの魔女は気まぐれなようでいて、無駄に動くことはない、と言っていた。少なくとも必要がある、と魔女が考えたときにしか動かない。逆に言えば、出てきたということは、なにかあるのだろう」
フェルディナントが金糸の髪をゆっくりとなでる。シャルロッテの表情は固いまま、フェルディナントを見上げる。
「『マーンリオはしばらく荒れる』と言ったわ」
大地の魔石にフェルディナントの長い指がのびて、シャルロッテの掌ごと包み込む。
「ウルリーケ王女の兄王は、『精霊姫』である娘をそれまでと同様に王宮に囲い込んだ。自由を与えられなくとも、婚姻させて次代を産ませる途もあったのにだ。魔女の言う通りなら、シャルロッテの存在は、アウストラシアに与えられた最後の機会だった。それを無碍にしたのは奴らの責任だろう」
「そうね。でも国が荒れていいこともないわ」
「マーンリオ王家の不始末は、マーンリオの民が負う。どれほど理不尽でも。我らアンティリア王家は、アンティリアの民を守ることにのみ責任がある。王族であろうとも、すべてを掌握できるわけでも、意のままに動かせるわけでもない。倒れぬ王朝もない。ニーベルシュタインとて、守護の証を失えば倒れる」
シャルロッテが抱いた罪悪感は、アウストラシア王朝を助ける最後の鍵が失われたからなのか、それとも自分がアウストラシア最後の『精霊姫』であるからなのか、彼女自身にもよくわからなかった。
マーンリオの王朝交代によって起こる混乱は、マーンリオの民に少なからず苦難をもたらすだろう。しかし、それを憂う心は、人としてはあるべきかもしれないが、アンティリア王家の人間としては切り捨てなければならない。
「……私は、アンティリアの王太子妃です」
フェルディナントが、ただひとりにしか見せない極上の笑みを浮かべて、シャルロッテの手を唇に引き寄せる。
「あの魔女はこちらの知りたいことを話しはしないが、その言葉に嘘はない。『マーンリオは』と言ったからには、アンティリアへの影響は限定的なのだろう。王太子夫妻に今できるのは、父上の耳に入れてご判断を仰ぐことくらいだ。……アーダが心配しているだろう、そろそろ戻ろう」
引かれた手にしたがって、心地よい魔力の満ちた奥の間から遠ざかる。
琥珀色の霧の中に一条の青緑の帯が再び揺らめいたが、それは細く細く微かな光を残しながら消えていった。
王太子妃シャルロッテ・ウルリーケが第一子を懐妊するのは、それから一年後のことであった。




