17.ウルリーケの手記
黒い包み布を解くと、革張りの手帳が出てきた。古い茶褐色の表紙には、なめし革特有の艶があり、手ざわりがよい。
シャルロッテは、侯爵邸の自室で手帳の留め具を開けようとして、「封を施した」と言われたことを思い出した。
禁書庫の書物は、王族の魔力が鍵となる。シャルロッテは首にかけたペンダントを外し、トップを開こうとして手を止めた。
王家の精霊石の魔力なら、手帳は開く。しかし、このペンダントの魔力を使うと彼にそれが伝わってしまう。
金色の雫を見つめて少しだけ考えていたが、読まなければならないものなのだ、と思い直して蓋を開けた。
室内灯を打ち消す虹色の輝きが、ふんわりと手を包んで暖かい。そのまま手帳に触れると、ぱちっと小さな音とともに留め具が外れた。
ペンダントを着け直して表紙を開くと、美しい筆跡の署名が目に入る。
――ウルリーケ・クロティルダ・レニエ――
前半は年表のように、出来事が箇条書きになっていた。
ルドヴィカから聞いた話が、淡々と事実の羅列としてつづられているが、これを読めばマーンリオ王家の『精霊姫』がどういう存在であるのか、理解できる。
ウルリーケ王女が、どのような扱いを受けていたのかも。
一度にまとめて書いたものらしく、丁寧な文字が均一に並んでいる。
ウルリーケの心情はなにも記されてはいない。感情を押し殺していなければ、ペンを走らせることができなかったのかもしれない。
時系列の記述は、ヴィルトグラーフ領へ落ち着いたところまでで終わった。
それ以降は、ウルリーケの日記が続く。日々の出来事が短い文章で、しかしウルリーケの豊かな思いとともに記されていた。
『ヘルマンが、騎士に採用された。これからも、一緒に生きてほしいと言ってくれた。うれしい』
『奥さん、と呼ばれて、はい、と返事ができる。くすぐったいけれどとてもうれしい。ヘルマンにも笑われた』
『おなかに赤ちゃんがいる。わたくしの人生に、このように素晴らしい未来があったなんて、知らなかった。知らなくてよかった。望ましい未来は見えなくていい』
『予見はすべての可能性のひとつに過ぎない。起こり得るおそれがどれほど大きくても、ほかの道が閉ざされているわけではない』
『ベネデッタが生まれてくるために、わたくしはこれまで生きてきた。あのとき、予見にあらがったわたくしをヘルマンとコジマが支えてくれたから、ありがとう。すべてが、ベネデッタが生まれるための試練であったのなら、わたくしは大地の精霊に祈りを捧げる』
『ベネデッタのこの小さな手に、たくさんの喜びが握られている』
『愛するヘルマン! 愛しいベネデッタ! どうかわたくしの愛する人たちが、幸せな未来へと導かれますように。わたくしの知らない素晴らしい幸福がたくさん、たくさん待っていますように」
最後に書かれていたのは、夫と娘のための祈りの言葉。己の死を予感していたのか。それとも知っていたのか。
「望ましい未来は見えなくていい」
『予見』の未来は絶対ではない。ウルリーケは、自分が殺される未来からのがれて、新たな人生を切り拓いた。
ルドヴィカはノルトシュヴァルツ鉱山の落盤事故で、失われるはずの多くの命を救った。
シャルロッテも、マーンリオ王国へ連れ去られ、将来が閉ざされるかもしれない危機を回避した。
恐ろしい『予見』は、それを避けるための啓示なのかもしれない。
「望ましい未来」は知らないほうが、より大きな喜びを得られるのかもしれない。
死に向かうウルリーケは、愛する家族の『予見』を得ることはなかったが、彼らが手にする幸せを信じて眠りについたに違いない。
ほうっと息を吐き出して、頬に流れかけた涙を押さえると、シャルロッテは手帳を閉じた。
ちょうどそのとき、扉を叩く音がしたので、振り返って少し大きな声を出した。
「エルケ? 今日は夕食はいらないわ。もう少しひとりにしておいて」
返事の代わりに扉が開く音がして、シャルロッテは重ねて拒もうとしたが、入ってきた人を認めると口を閉じた。
「食事はとったほうがいい、食欲がないときほどね」
「……殿下、どうして」
若い貴族の外出姿のように、シャツにジャケットをあわせただけであるが、その瞳を見ればしのんで訪ねてきたわけではないとわかる。
いつも通り美しい紅い蛋白石の瞳は、いつもより幾分柔らかい輝きにも見える。
案内してきた執事も、お茶を用意しようとする侍女も下がらせて、フェルディナントと向かいあって座る。
いくら正式に婚約していても、この状況は許されないのではないかと思うが、王太子の指示に逆らえはしない。シャルロッテは無言のまま、フェルディナントの口もとを見つめていた。
「そう警戒するな。そろそろ読み終わる頃かと思って、話の続きをしに来ただけだ。昼間の話はまだ終わっていない」
「殿下も、これをお読みになったのですよね」
「もちろん、父上もだ。いろいろとつながったと仰っていた。シャルロッテは得るものはあったか?」
「わたくしは、『予見』で見たことは必ず起きるのだと思っていました。そうではないとわかりました」
フェルディナントはよくできました、というように微笑んでうなずいた。手帳に手をのばして留め具に魔力をまとわせ、封を施す。
「それがわかっていれば、そう恐ろしいものでもないだろう? これからも恐れずに話してくれ」
その笑顔が、虹色の魔力が、シャルロッテの胸を締めつける。そして一度ゆるんだ涙腺は、容易く次の涙を生み出そうとする。
「ずっと恐ろしいと思っていたのです。殿下が、わたくしが抱える必要はなかった、と仰ったときにとてもうれしかったのです。重荷を取り払ってくださったように思いました。だから」
そのときには、もうきっと好きになっていた。
想う人に「必ず守る」と言われて、舞い上がるような心地になったのに。
婚約者候補と言われてとまどう中にも、うれしい気持ちに気づいていたから。
だから、王太子妃になれば『精霊姫』の血筋はマーンリオに還る、という交渉材料だとわかったときに、あれほど悲しくなってしまったのだ。
「ああ、どうして私と話すときは、いつも泣いてしまうのかな。どうか最後まで話を聞いてくれないか?」
フェルディナントが立ち上がって隣にくると、シャルロッテを抱えて立たせる。流れ落ちそうになる涙に手を添えて、苛立ったようすで少し強い口調になる。
「場所を変えよう、外に出る。もう、少し肌寒いだろうから上着を。そうだ、私のマントはあるか? あれを」
「え、あ、はい」
もう外は暗いのに? どこへ? どうして?
なにも問いかけることもできずに、急いで衣装部屋の奥からマントを持ち出してくる。受け取ったフェルディナントは、それを大きく広げてシャルロッテを包み込む。
そのまま抱きしめると、耳もとでじっとしていろ、とささやいた。
フェルディナントが細く息を吐き出す。ふたりの周りに虹色の粉が舞い、光の帳に閉じ込められる。
そのまま虹色の魔力に包まれて、まぶしさに目を閉じると、ふわりと体の中心が、なにかに持ち上げられて宙に浮くような、不思議な感覚にとらわれた。
足もとがおぼつかない不安に、フェルディナントにしがみついた。
浮遊した体がすとんと地につく感覚がして、恐る恐る目を開ける。あの王都を一望できる丘の上にいた。身を包んでいた光は夜に溶けるように消えたが、そのまま結界となっているようだ。
「転移の魔法ですか?」
「気分は悪くないか?」
「大丈夫です、驚きましたけれど」
「流石だな、器の小さい者は酔うらしい。己の器をこえる魔力は身を蝕む毒になる」
「え?」
「シャルロッテの器の大きさは私にはわかる。問題ないだろうと思っていた」
フェルディナントの腕の中で、身じろぎするが腕はゆるまない。むしろのがすまいとするように抱き込まれる。
流れる風は秋の気配をにじませて少し冷たい。
「重要なことが伝わっていない、とラルフに言われた。あれに言われるのは不愉快だが、確かに伝わっていないようだ」
フェルディナントはそっと手を離して芝生の上に座り込むと、シャルロッテの手を引いた。シャルロッテはマントの上に座るのをためらったが、握られた手を離すことはできず、そのまま隣に腰を下ろした。
「私もうれしかった。どれほど自身の責務に真摯でいるか、か。そのように見てくれているとは思わなかった」
肩が触れ合うほどの距離で、まばゆい笑顔を浴びて、シャルロッテの頬が熱をもつ。
恥ずかしさに下を向いても、つながれた手から想いが伝わってしまうような気がする。
「わたくしは侯爵家の娘であることさえ、重たいと感じていました。殿下はわたくしとは比べられないほどの重責を既に負っていらっしゃるのに、それを当然とされていて、恥ずかしく思ったのです」
「シャルロッテも自身の責務に真摯に向きあっている、と私は思う。その重さを知らない人間は、恥じることもないからな」
「そのように立派な志ではないのです。ただ面倒を避けて静かに暮らしていければ、としか思っていませんでした」
「はは、正直だな」
ゆっくり顔を上げてみると、フェルディナントはずっとこちらに笑顔を向けている。
「私も志が高いわけではない。王太子、国王は重責だが、それをやってやろうという気でいるだけだ」
「そのように思えることが、志ではないのですか?」
フェルディナントの言葉の真意がよくわからない。
「うん、私はやりたいことを、やろうとしているだけだからね。人から見て立派だとか、高潔だとか、そういったことはどうでもいい。貧しいものを助けたり、身寄りのない子を救ったりするのは、確かに誰にでもできることではない。ゆえにそれをする者を人は褒め称える。が、それをしたくて行っている者からすれば、他人の評価など取るに足りないものだ。まあ、褒め称えられることを目的に行う者もいるだろうが、それはそれで望みは叶っているといえるだろう」
フェルディナントのいわんとすることがシャルロッテにもぼんやりと伝わった。
シャルロッテには大任と思える王族の地位は、フェルディナントにとっては、望むところであるらしい。
「だから、私は思う通りになるよう生きている。不本意なことを、甘んじて受け入れているわけではない」
「それでも充分に思えますわ」
フェルディナントの目が弧を描いて、手がシャルロッテの肩を少し強く押した。されるがままにシャルロッテは後ろへ倒れたが、芝生の絨毯に受け止められる。
たくさんの星々がシャルロッテの目に映る。夜空が広がる視界に、すぐに上からフェルディナントが虹色の瞳でのぞき込む。
「なにを望んでいるのか? と何度かきかれたな。私は、私の意思でシャルロッテを望んでいる」
「……え?」
「ここではじめて会ったとき、精霊が眠っているのかと思った。すぐに人だと気づいたが、目を離せなかった。そのときには、もうシャルロッテに心を奪われていたのだと思う」
「殿下、あの……」
口を挟もうとしても、フェルディナントはそれを許さない。今度こそ最後まで話を聞けとばかりにたたみかける。
「だから、これからシャルロッテが得る『予見』に不穏なものがあれば、私がすべて未然に防いでみせる。それができるだけの権力も能力も手に入れる。手に入れられる立場には、既にある」




