13. ヴィルトグラーフ伯爵家
王宮から逃れたウルリーケ王女の一行は、生母の実家に身を寄せた。しかし、追手が必ずやってくる場所に長居はできない。
祖父母は、しわが刻まれた顔をぐしゃぐしゃにして泣いてくれた。
行儀見習いのつもりで王宮へ送り出した娘は帰らず、忘れ形見の孫娘に会うことも、これまで叶わなかった。
伝え聞くウルリーケの処遇を嘆きながらも、なにもしてやれず申し訳なかった、と幾度も詫びるふたりを抱きしめて、ウルリーケも生まれてはじめて涙を流した。
祖父母に、逃亡者となるには歳をとり過ぎていた女官を預けると、ウルリーケと護衛騎士ヘルマン・レニエはすぐに出発することにした。
ヘルマンは母の従姉の子で、ひとりになったウルリーケにとって唯一の身内であり、兄であり、慕う人であった。
祖父母との別れを済ませると、ふたりはアンティリア王国を目指した。祖父母がせめてと用意してくれた路銀と身分証のおかげで国境を越えられたとき、ウルリーケは祖国を捨てた。
アンティリア王家を頼ることも考えたが、マーンリオへ引き渡される可能性がある以上、危険を冒すことはできなかった。
国境の町から南へ下り、穏やかな気候のヴィルトグラーフ伯爵領に落ち着いた。騎士としての技量を充分に備えていたヘルマンは伯爵家の騎士隊に入り、ウルリーケは妻としてささやかな幸せを手に入れることができた。
ヴィルトグラーフ伯爵は、隣国の子爵家の紹介状を持った夫婦が、訳ありであると気がついていた。雇い入れたときにはわからなかったが、ときおり見せる妻を敬う夫の態度。明らかに育ちのよい、素養を身につけた妻。ただの子爵家の使用人には見えなかった。
それでもふたりを見る限り、互いを思いやる心に嘘はなく、彼らが日々の暮らしに満足していることはわかったので、様子を見るに留めた。
数年後、伯爵夫人の出産とほぼ同時期にウルリーケも一人娘のベネデッタを産み、乳母として伯爵邸に入った。
王都から離れたヴィルトグラーフ領には、伯爵夫人の話し相手になれる女性がいなかったこともあり、ふたりはよい友人といえる関係になっていった。
ウルリーケの最も幸せなときであった。
ベネデッタと伯爵の嫡男がともに五歳になる年、風邪をこじらせたウルリーケはそのまま帰らぬ人となった。もともと丈夫ではなかった身体が、出産後にさらに弱っていた。
抑圧された幼少期を乗り越え、穏やかな幸せを手に入れてから、まだ数年であった。
ウルリーケを支え続け愛したヘルマンは、悲しみに沈んだが、まだ幼いベネデッタのために、涙をこらえた。ヴィルトグラーフ伯も父娘をなにかと気にかけてくれた。
ウルリーケが亡くなったことで、マーンリオ王家との繋がりは絶たれたと思われた。
ベネデッタの顔は明らかに父親似で、母の面影が残るのは透き通った樺色の瞳だけ。
アンティリアに逃れたこと、ベネデッタについては存在すら知られていないはずだ、といくらか気をゆるめていた頃にそれは起きた。
十八歳になるベネデッタが頬を赤らめて、しかし少し淋しさをにじませてヘルマンに話しかけた。
「お父様、なんだかとてもはっきりとした夢を見たのですけど」
「いい夢だったのかな?」
「すごく素敵なドレスを着て、結婚式をする夢なんです」
「ほお、相手は誰かな?」
ベネデッタは頬を染めるだけでこたえなかったが、幼馴染の伯爵の嫡男に想いを寄せていることをヘルマンは知っていた。
叶う望みのない恋を思う心が見せた夢だろう、とそのときは思っていた。
数日後、伯爵に呼び出されて嫡男とベネデッタの婚約を打診されるまでは。
「君たちの素性については、詮索する気はなかったのだが、息子がどうしてもベネデッタと結婚したいという。私も妻もそれについては吝かでない。どうだろう、もう長いつき合いだ。そろそろ話してはくれまいか」
ベネデッタの夢は『予見』だったのか? もしそうなら、マーンリオ王家は『精霊姫』を探しているだろう。娘を守るために、ヘルマンは腹を括ってヴィルトグラーフ伯爵に全てを打ち明けた。
予想だにしなかった話に、ヴィルトグラーフ伯爵も悩まなかったわけでははない。だが、ウルリーケに対する哀憫もあり、幼い頃から可愛がり見守ってきた息子の想い人を、引き受ける決断をした。
『予見』通りの結婚式を迎えて驚くベネデッタとその夫に、ヘルマンはウルリーケの過去を話して聞かせた。
「ウルリーケが残した手記があるから読みなさい。そして、これから、もし力を持つ娘が生まれるなら、守っていかねばならない。もちろん君たちの幸せも守ってほしい」
ふたりの父親の覚悟によって結ばれた若い夫婦には、一人娘が生まれた。家族の心配をよそに、すくすくと育ったその娘には『予見』の力は現れなかった。
ヘルマンはそれを見届けて、安心したかのように、ウルリーケのもとへ逝った。
当代の『精霊姫』であるはずのベネデッタも、重大な『予見』を得ることはなかった。精霊の加護の器が、それほど大きくなかったことが幸いしたのかもしれない。
一人娘に婿をとり、マーンリオとの繋がりを誰もが忘れて過ごしていた。ベネデッタが『予見』を得ることもなくなっていた。
「おばあちゃま、お空にきれいな星がふるのよ。夜の間にいっぱい、いっぱい。とってもきれいなのよ」
幼いルドヴィカが祖母ベネデッタに話した三日後の夜、流星群が空を覆った。
「夢とおんなじ! ね、おばあちゃま! ルドヴィカがお話ししたとおりでしょう?」
「それから、わたくしはお祖母様に育てられたの。お母様はなにもご存知なかったから、不思議に思っていたようだけれど、お祖母様たっての願いに折れた形ね。伯爵家の跡継ぎのお兄様も既にいらしたし。……泣かないで。もし貴女が力を持たなければ、話さなかったわ。そういうことよ」
ルドヴィカは微笑み、ハンカチーフを手渡した。涙を拭きながら、シャルロッテは母を見つめる。
シャルロッテが誰にも話せなかったように、ルドヴィカもシャルロッテに話せなかった。できれば、話さないままでいたかった。
ルドヴィカも『予見』の力を受け継いでいた。シャルロッテは驚く気持ちと同時に、すとんと腑に落ちるような感覚を抱いていた。母が距離をあえて作っている、と感じていたことは間違っていなかった。
「貴女が『予見』を得ているのかもしれない、と疑ってはいたのよ。もしそうなら、きちんと話さないといけない。でも、同時に重荷を背負うことにもなるわ。まだ貴女には重すぎるとも思ったのよ。私も全てを聞いたのは結婚が決まってからだったし」
「お父様はご存知なのですか?」
「いいえ。話さないように、というのがお祖母様の遺言だったのよ。知っているのはヴィルトグラーフ伯爵家の当主だけ。お兄様もお祖母様の言う通りにと」
小さく肩をすくめたルドヴィカは、視線を窓の外へ移して口もとを緩めた。
「お父様とは夜会で出会ったのだけれど、一度踊っただけなのに翌日から毎日お花が届いて、お祖母様は呆れていらしたわ」
「想像できませんわ」
「ふふ、可愛らしいところもあるのよ。でもベーヴェルン侯爵家の跡継ぎでしょう? 領地はマーンリオ王国にも近いし、あれで貴族らしい野心もそれなりにあるしで、最初は周りは大反対だったのよ」
「でもお父様、貴女のお祖父様がね、このままヴィルトグラーフに閉じ込めておくなら、それはウルリーケ姫と同じになってしまうと仰って、許してくださったの。そのときに全てを聞かされて、秘密にするように言われたのよ」
「お父様とお母様が恋愛結婚だったとは、知りませんでしたわ」
ルドヴィカは柔らかい表情のまま、視線を落とした。
「今の貴女と同じことを考えていたわ。世間となるべくかかわらずに暮らしていきたいと。お祖母様もそれを望んでいらしたし。でも、旦那様があんまりにも熱心にプロポーズしてくださるから……」
少し夢をみたくなったの、そう言ったルドヴィカは少女のように頬を赤くしていた。
「結婚を許してもらっても、秘密にしたままでしょう? 余計な問題が増えないように社交は最低限、侯爵夫人としては不足よね。だけど、好きにしてかまわないと言ってくださったから」
「お母様からお話が聞けて嬉しいです」
シャルロッテの本心からの言葉は、ルドヴィカにとっては苦いものであったらしく、眉根が寄る。
「お祖母様に育てられて、わたくし自身、お母様とは母と娘としての関係を築けないまま大人になってしまった。それだけではないけれど、母として子どもにどう接していいのか、わからなかった。それに、……あなたたちの未来が見えてしまうのが怖かったのよ」
ルドヴィカの言葉にシャルロッテは息を呑んだ。
「一緒にいなくても見えてしまうものだけれど、目の前にいる我が子の未来を見る覚悟はなかったわ」
「お母様はこれまでなにをご覧になったのですか?」
「それほど多く見たわけではないわ。大きなことはふたつ。ひとつは十年前のノルトシュヴァルツの落盤事故」
ルドヴィカはひとつうなずいて続けた。
「旦那様に『今回の大雨は今までとは違う気がするから、念のために鉱夫たちを避難させたほうがよろしいと思います』とお願いしたの。わたくしがそうしたことに口を出すのは、はじめてだったから驚いていらしたわ。でもだからこそ聞き入れてくださって、おかげでベーヴェルン領では死者は出なかった。でも……」
ノルトシュヴァルツ鉱山の落盤を引き起こした川の氾濫、その川はアンティリア王国とマーンリオ王国の国境である。
複数の箇所で決壊した川の水は、当然マーンリオへも流れ込み、住民ごと流された村や町もあった。マーンリオ国内の人的被害は少なくなかった。
マーンリオ王国には、空の石の鉱山はほかにも多くあったため、石はまかなえたが、失われた人的資源は一朝一夕には戻らない。ノルトシュヴァルツに並ぶ鉱山は一時閉鎖に追い込まれ、採掘が再開されたのは一昨年のことである。
「そのせいで、マーンリオ王家に気づかれてしまったようなの」
シャルロッテは目を見開いて、ルドヴィカの表情をうかがう。ルドヴィカはまた息を吐いた。
「マーンリオでは大きな被害が出ていたのに、ベーヴェルンでは死者はひとりもいなかった。知っていた者がいるのではないか、それは本来ならマーンリオ王家にあるべき力だ、と気づいた」
そういうことだったらしいわ、とルドヴィカは肩を落とした。
どうやってたどり着いたのか、ヴィルトグラーフ伯爵家からベーヴェルン侯爵家へ嫁いだ娘がウルリーケ王女の血を引いているらしい、とマーンリオ王家に知られてしまったのである。
これまでの『精霊姫』が子を産むことはなかった。そして、マーンリオ王家では現在『精霊姫』が途絶えている。
ベーヴェルン領における奇跡のような被害の回避。
ウルリーケ王女の血を引いていると思われる女性の存在。
ウルリーケの名を持つ娘。
疑いを持つには充分な情報であった。
しかし、ベーヴェルン侯爵家はアンティリア王国でも特殊な地位にあり、うかつに手は出せない。なにより、マーンリオ王国の秘密も守らねばならない。
その結果、拉致計画が企てられ、シャルロッテのデビューが狙われたのである。ウルリーケ王女の血筋、『精霊姫』を取り戻すために。
領地からほとんど出てこないシャルロッテだが、夜会のために王都に滞在する間には、隙が生じる可能性が高い。
「実際、貴女は別邸をよく飛び出していたでしょう?」
「で、でも、危ない目に遭ったことはありませんでしたわ」
ルドヴィカは小さくため息を吐いて、口をゆがめる。
「まあ、私も貴女が狙われているとは思ってもいなかったから、あまり言えないわね」
シャルロッテの様子を見て、ルドヴィカも話を聞くべきか悩んだ。やはり『予見』を受け継いでしまっているのではないか。少なくともヴィルトグラーフ伯爵である兄には相談しなければ、と思いはじめていた。
そして、ルドヴィカにとって二度目の、重大な予見を夢に見たのである。