12.王女ウルリーケ
ふわふわと琥珀色の雲が浮かぶ中に、シャルロッテの体もゆらゆらと漂っている。薄い膜に閉じ込められているようで、周囲は幻想的な空気が満ちている。
心地よい風がときおり舞って体を揺らす。風の中から美しく煌めく虹色の光が差して、シャルロッテの目の前で光の球になった。
手を伸ばして触れようとすると、ふわんと浮き上がって頭上で弾ける。琥珀色の膜も一緒にはぜて、欠片がきらきらと舞い散った。虹色の光に反射するそれは、次から次へと降り注いでくる。
――きれーい――
シャルロッテが目を覚ますと、見慣れた自室の寝台の上であった。しかし、なにか違和感を覚えて考えていると、扉が開いてメイドが入ってきた。
「おはようございます。お嬢様」
「え? あれ? ここは別邸? エルケは?」
違和感の正体は、本邸ではなく別邸の自室にいることであった。とまどうシャルロッテに、別邸のメイドは満面の笑みを見せる。
「昨日は本当に大騒ぎでしたよ。まさか王太子様をこちらへお迎えするなんて。しかも、お嬢様を抱きかかえたまま、転移していらっしゃったんですよ!」
フェルディナントは、ちゃんと送り届けてくれたらしい。王都のベーヴェルン侯爵別邸へ。
若い使用人が多い別邸に、王都の娘たちの憧れの的である王太子が突然現れたなら、騒然としたことだろう。
興奮冷めやらぬ様子のメイドにうんざりしたシャルロッテは、もう一度エルケの所在をたずねた。
「本邸へお供した者たちは、こちらへ向かっているはずですわ」
「そう、急がなくていいからと伝えてくれるかしら?」
「承知しました。でもお嬢様、王太子様は本当に素敵なお方ですねぇ。こっそりお姿を拝見しましたけど、肖像画の通りで、騎士の装いは物語から出ていらしたみたいで」
扉を規則正しく叩く音が響く。シャルロッテが応じると、ルドヴィカつきの侍女であり、侍女頭も務めるカイェタン子爵夫人が入ってきた。
「まあ、お嬢様はまだお疲れでしょうに。騒ぎ立てるものではありませんよ。仕事に戻りなさい」
若いメイドは、はい! と返事をしながらお辞儀をすると急いで部屋を出ていった。
「お嬢様、ご気分はいかがですか? 朝食は召し上がりますか?」
いつもは厳しいカイェタン夫人を敬遠しがちであったが、今日ばかりは浮き足だったメイドたちよりありがたい。
夫人もメイドを叱るためだけではなく、シャルロッテを心配してきたのだろう。
「ありがとう、もう大丈夫よ。でも朝食は少なめでいいわ」
「かしこまりました。エルケがおりませんので、私がお手伝いいたします。お食事がお済みになりましたら、奥様がお話があるので、お部屋までいらっしゃるように、とのことです」
「……はーい」
着替えて朝食を済ませると、シャルロッテは母の部屋の前でゆっくり深呼吸をしてから扉を叩いた。
「お母様、シャルロッテが参りました」
「お入りなさい」
テーブルを挟んで向かいあって座ると、カイェタン夫人がお茶を淹れてくれる。ルドヴィカが目配せをすると、夫人はなにも言わずに部屋を出て行った。前もってふたりきりにするように伝えていたらしい。
ルドヴィカは右手で拳作ると、一度くっと握りしめてから少し勢いをつけて指を開いた。指先から広がる琥珀色の輝きが舞って部屋の中に静寂が満ちる。
「貴女もこれからは、こういう魔法を覚えておくべきね」
舞い散る魔力の残滓と同じ色の瞳に、少し緊張したシャルロッテが映っている。
シャルロッテは首をぐるりと回して、ルドヴィカが張った遮音の結界を探った。
「お母様が魔法を使うところをはじめて見た気がします」
幼児のようなシャルロッテの身振りに、ルドヴィカは思わず笑みをこぼした。
「気分は悪くない? 王太子殿下がとても心配してくださっていたわ」
「はい、疲れておりましたから、殿下が暗示の魔法で眠らせてくださったのです。よく眠れたのでもう大丈夫です」
「そう、ならよかったわ」
「エルケたちは無事ですか?」
「大丈夫よ皆、怪我もなく保護されて本邸へ送り届けられたそうよ。貴女も無事で本当によかったわ」
「お母様……」
「ごめんなさいね。もっとはやく話すべきだったわ。でも貴女が受け継いでいないほうにかけていたのよ。……いいえ、言い訳ね。もしや、と思うことはあったけれど、貴女が黙っているのをいいことに、都合のよい解釈をしていたのよね」
受け継いでほしくなかったのは、『予見の魔法』だ。その存在をルドヴィカも知っていたということだ。
「あの、お母様。どういうお話ですか?」
「そうね、なにから話せばいいのかしら。……ウルリーケ」
「え?」
「貴女の祖名、ウルリーケはわたくしのひいおばあ様のお名前なの」
「ベーヴェルン侯爵家ではなく、ヴィルトグラーフ伯爵家の、ですか?」
祖名には厳密な決まりはないが、高位の貴族であるほど、家名の先祖の名からとることが多い。「ウルリーケ」はアントンの曾祖母の名だと聞かされていた。
ルドヴィカは整った眉の端を小さく下げて、困ら顔をつくる。
「偶然、そう偶然ね。わたくしのひいおばあ様と旦那様のひいおばあ様の名前が同じだったのよ。同じ名前が先祖にいることは、それほど珍しくないのでしょうけれど、同じ親等にというのはなにか縁があるのだろう、と旦那様が貴女の祖名に選んだの」
「そうだったのですね。でも、どうして教えてくださらなかったのですか?」
ルドヴィカはさらに口もとをゆがめる。そのままなんとか笑み取り戻そうとして、上手くいかず息を吐いた。
「祖名のことは、ベーヴェルン家の名を継ぐのが自然なことだから、あえて言わなかっただけよ。ヴィルトグラーフ家のほうは、……ウルリーケ王女、その当時のマーンリオ王国の第三王女だったそうよ」
「あの男が言っていたことは、事実だったのですか!」
ルドヴィカはゆっくりお茶に手を伸ばしながらこたえた。
「殿下からだいたいはうかがったわ。その男が言っていたことは、おおむね事実よ。ただし、ウルリーケ王女はさらわれたのではなくて、自ら逃げ出したのよ」
「逃げ出した?」
マーンリオ王国の守護精霊は『大地の精霊』であり、王族の多くは『大地』の器を持って生まれる。空の石の鉱脈が豊かであることも、大地の精霊の加護のひとつだとされている。
現在のアウストラシア王朝は大陸の中では、アンティリア王国のニーベルシュタイン王朝に次ぐ歴史を持つが、それでも半分の長さであるという。
ウルリーケ王女は当時の国王の末娘として生まれた。一男二女の兄姉がいたが、この兄姉とは産みの母は異なる。
国王が晩年に王妃つきの美しい侍女に手をつけた。その結果生まれた娘が、ウルリーケであった。
難産により生母は亡くなり、王妃の憎しみを一身に受けることとなったウルリーケを、歳の離れた兄姉たちは無視した。ウルリーケは、マーンリオ王家の汚点として扱われたのである。
最低限の世話のみで生かされている王女を、不憫に思う者もいたが、王妃の逆鱗に触れる覚悟でかばうことはできなかった。
国王夫妻の仲が長年良好であったからこそ、王妃の恨みは深く、気の迷いだったのだと弁解を続ける国王も、表立って助けてくれることはなかった。
ウルリーケにつけられたのは、女官と護衛騎士がひとりずつ。どちらも生母の実家に連なる家の出身であり、彼らがウルリーケに読み書きを教え、貴族としての教養を身につけさせた。
文字を読めるようになった頃から、ウルリーケは王宮の書庫に通ってあらゆる書物を読み漁った。書庫に行けば、ほかの王族と顔を合わせることなく、文字の世界に閉じこもっていられる。安全を求めて行き着いた場所だった。いつしか書庫に近づく人も減っていった。
父王が亡くなり、異母兄の治世となっても、ウルリーケの処遇は変わらなかった。王太后となった兄王の母とは、普段は一切接触することなく過ごしていたが、ひとたび彼女の視界にウルリーケが入ると、顔が腫れ上がるまで打ち据えられた。
ウルリーケの美貌は、かつてかわいがっていた侍女によく似ていたのである。
王族も王宮に仕える者も皆、王太后の怒りを恐れて無視を通した。ウルリーケが書庫に引きこもるようになってからは、存在を忘れていることさえあった。
そして、彼らは重要なことも忘れていった。ウルリーケは、間違いなくマーンリオ王家の血を引いた王女であるという事実を。
書庫の奥深くにある閉ざされた扉、禁書庫の鍵は王族の魔力である。ウルリーケの瞳は『大地』の加護、透き通った樺色の魔力によって重い扉は容易く開いた。
王家の秘密に興味があったわけではない。有り余る時間を埋め、人と会わない場所で過ごすための手段に過ぎなかった。
だれにとがめられることもなく、ほとんどの禁書を読みつくしてしまうと、ウルリーケは十八歳になっていた。
その頃、はじめての予見を得たのである。
病の床でウルリーケの存在を思い出した王太后に、死出の旅の道連れにされる恐ろしい未来を。
マーンリオ王家の『予見の魔法』は、王族の女性に受け継がれていた。
王族の中に大地の精霊に愛された『精霊姫』が生まれる。『精霊姫』は『大地の精霊』の加護により、「起こりうる未来を知る」魔法を操る。
ときに災害を知って備え、王家の危機を防ぎ、国王の命を救ったこともあったという。
『精霊姫』はその力をもって王家に仕える精霊術士となり、生涯未婚を貫く。一代の王ににひとりの『精霊姫』が出るといわれているが、王太子が定まるよりも先に、次代の『精霊姫』が生まれることもあった。
次代の『精霊姫』が見いだされた後に、力を失う姫もまれにいたが、予見の力が失われたとしても、『精霊姫』は自由を得られなかった。生涯『予見』の秘密とともに王宮に閉じ込められた。
ウルリーケはこれらの秘密を、禁書によって知っていた。
兄王の治世の『精霊姫』は王妹の第二王女である。公にされてはいないが、とうに婚期を過ぎた王女が精霊殿の預かりとなっているのは、そういうことなのだろう、とウルリーケは気づいていた。
ウルリーケが『予見』を兄王に伝えれば、『精霊姫』として保護されるかもしれない。だが、それではこれまで以上に不自由な暮らしを一生強いられる。
しばらくして王太后が倒れた、という噂が王宮で広まりはじめた。時間がないと悟ったウルリーケは、信頼する女官と騎士に事の次第を打ち明けた。
マーンリオ王家の秘密と、敬愛する姫君の危機を知ったふたりの行動ははやかった。いつかこの王宮からウルリーケを逃がしてやりたい、とずっと考えていたのである。
その日のうちに、ウルリーケは女官のお仕着せを着て、三人で禁書庫の奥にある隠し通路を通って街に逃れた。
禁書庫の扉はもとの通りに、しっかりと閉じて去った。ウルリーケの失踪はすぐには露見しなかった。
ウルリーケが書庫にいると知っていた者も、禁書庫にまで入っているとは思いもしなかったのだ。
発覚したのは二日後、死に際の王太后がウルリーケを呼び出したときである。
王太后がなにをするつもりなのか理解した国王は、さすがに諫めた。もはや父王は亡く、ウルリーケ本人にはそもそも罪はない。
だが、死に向かう王太后の執念は凄まじく、あの女を生かしたままでは死なぬ、とまで言い切った。もはやウルリーケと、夫を奪った彼女の母の区別がついていなかったのかもしれない。
渋々連れてくるよう命じた国王のもとに、ウルリーケと女官たちが消えた、という報告があがってきた。
普段から所在を確認されることのないウルリーケがいなくなっても、だれも気づいていなかったのだ。
王宮中を探しても、逃亡の痕跡も見つからないどころか、いつからいないのかすら判明せず、床に額を擦りつけて伏せる侍従に国王は怒鳴った。
「どういうことだ! 仮にも王女だろう!」
その場にいただれもが、国王の言葉を聞いて思い出した。
そう、ウルリーケは王女であったのだと。王宮にいくつか用意されている隠し通路の鍵は全て、王族の魔力である。
その気になれば、通路の存在を知ってさえいれば、彼女はいつでも脱出できたのだ。
国王の怒鳴り声を聞いた王太后は、侍女であったウルリーケの母への呪いを吐いてこと切れた。
国王自ら禁書庫の隠し通路にウルリーケの魔力の痕跡を発見したときには、すでに彼女の行方はわからなくなっていた。
国王は長年冷遇した妹への贖罪のつもりもあったのか、早々に捜索を打ち切った。