1.芝生の上の出会い
青空に流れる白い雲が、次々と形を変えていく。春の嵐がくるのかもしれない。少し冷たい風がときどき強く頬をなぞる。
王都を一望できる小高い丘には物見台があり、近衛騎士が常駐している。その周囲はまばらに木々が植えられ、芝生の絨毯が広がる。庭園と呼べるほどに整えられているわけではなく、どちらかといえば殺風景な場所である。王都の住民が憩うようなこともなく、詰所の騎士以外に人がいることは少ない。
その芝生の上でシャルロッテ・ウルリーケ・ベーヴェルンは、貴族の娘としてはあるまじきことに寝転んでいた。
生糸のように美しく淡い金髪が、緑の草の上に広がる。彼女の飴色の瞳に入ってくる景色は、青い空と流れていく雲だけだ。
まるで体が空に浮かんでいるかのように思えるその場所が、シャルロッテはとても気に入っていた。
その日、シャルロッテは父親であるベーヴェルン侯爵と、いつものようにちょっとした喧嘩をして、いつものように屋敷を飛び出して、いつものようにお気に入りの場所で、ささくれだった気持ちを落ち着けようとしていた。
そこへ誰かが芝生を踏む音が近づいてくる。行き先を知っている侍女が迎えに来たのかもしれない。もう少しだけひとりにしておいてくれないかしら、と思ったそのとき。
「君、どうしたの? 大丈夫?」
予想外に、張りのある男性の声が耳に響いた。驚いて上半身を起こしたシャルロッテの目の前に立っていたのは、焦茶色の髪に、『火の精霊』の加護を示す赤い瞳の若い騎士であった。近衛騎士の見回りの時間らしい。
「あ、いえ、大丈夫です」
体を起こして立ち上がろうとしたシャルロッテと、騎士の視線が交わる。
そのとき、白昼夢のように彼の未来の姿が脳裏に映し出された。
――国王陛下万歳! ――
――フェルディナント王に栄光あれ! ――
長いときを経て、歳を重ねても艶めく金髪の上には重厚に輝く王冠、その手には長い王笏が握られている。
金糸に縁取られた真っ赤なマントに、濃い紅色を帯びた蛋白石の瞳がよく映える。
王宮前広場で国民の歓声を受ける完璧な装いの彼が、シャルロッテに向かって優しく微笑む。
その姿が一枚の絵画のように瞳に焼きつけられた。
――……戴冠式、フェルディナント王太子殿下の。ああ、立派な国王陛下になられるのね――
瞳の中に浮かんだ光景に意識を引きずられて、一瞬、目の前の彼が心配そうに見つめてくる姿と、どちらが現実なのかわからなくなった。
「本当に大丈夫? どちらのご令嬢? つき添いは?」
その言葉に一気に現実に引き戻されて、シャルロッテは慌てた。
そして、急いで立ち去ろうとして、ついうっかり、言ってはならないことを口走ってしまった。
「は、はい。大丈夫です。つき添いの者は下で待っておりますので。ご心配をおかけして申し訳ございません。失礼いたします、殿下」
そのまま足早に立ち去ったシャルロッテは、重大な失態を演じたことに気づいていなかった。
驚愕して目を大きく見開いたその騎士は、彼の本来の姿ではなかったのである。
アンティリア王国が中央に座すその大陸には、精霊の加護の力が漂っており、全ての人が、その力を受け止める器を持って生まれてくる。
器にはそれぞれに加護が与えられ、加護によって魔力と瞳の色が定まっている。『大地』『水』『森』『風』『火』『氷』の精霊の加護の力は、人びとの器に注がれ、その力によって魔法を使うことができるが、民が使える魔力はそれほど多くはない。
しかし、王侯貴族は大きな器を持ち、その身の内に大きな力を宿す。その魔力を「空の石」と呼ばれる特殊な鉱物に込めると、精霊石となる。
精霊石があれば、器が小さい者も己の器以上の魔力を使うことができる。
精霊石を作れる魔力を持つことが貴族の資格であり、器が小さく、精霊石を作れない者は貴族の家に生まれても貴族籍に加えられない。
精霊石を領民に配分して、彼らの生活を成り立たせることも貴族の義務であるからだ。
そして、アンティリア王家の直系に生まれた者だけが持つ、特別な瞳がある。全ての加護を宿すその瞳は、虹色の蛋白石のような輝きを放ち、その中には特に強い加護が一つ現れるのだ。
アンティリア王国の当代国王の嫡男、王太子フェルディナント・アルブレヒト・ニーベルシュタインは、輝く美しい金髪に、赤味の強い蛋白石の瞳の持ち主であった。
坂道をくだっていくシャルロッテの後ろ姿を、焦茶色の髪のフェルディナントが赤一色の瞳で追う。彼はふうん、とつぶやくと柔らかく、しかし面白そうに微笑んだ。
丘を急いで下りたシャルロッテは、予想通り待っていた侍女によって馬車に押し込められて、侯爵邸へ連れ戻された。
「お嬢様、もういい加減になさいませ。こう頻繁にお屋敷を飛び出されては、皆心配いたします。危ない目にあってからでは遅いのですよ」
「エルケの仕事を増やして申し訳ないとは思っているわ」
シャルロッテつきの侍女エルケは、いつも通りの困り顔で主人に苦言を呈した。
「私のことはよいのです。そんなことよりもお嬢様は、もう少しご自分を大切になさるべきですよ。侯爵家のご令嬢というだけでなく、とびっきりの美人でいらっしゃるのですから。ご身分にかかわらず、いつさらわれてもおかしくないのですよ」
「王都の治安はいいわよ。心配しすぎだわ。あの丘には近衛騎士もいるのよ」
シャルロッテの容貌は控え目に言っても美しい。
淡い色味の金髪は陽の光を浴びれば、内側から輝くようにも見え、白い肌に映える飴色の瞳は黄玉が飾られているかのようである。
『大地の精霊』の加護を持つが、彼女自身の姿が精霊にたとえられるほどである。
十六歳という少女と大人の女性の境にある今、より神秘的な美しさを増している、と王都では彼女を知る少ない人から噂が広まっている。
「それでも、ですよ。まあ、せっかくの美人もそんなに枯草をくっつけていらしたら、台無しですけどね」
「あ……」
シャルロッテは、髪やドレスにまとわりついた草のかけらを、ぱたぱたと手で払った。車内に飛び散る草にエルケが顔をしかめる。
アンティリア王国の貴族の娘は、十五歳から十八歳の間に社交界にデビューする。春に開かれる王家主催の夜会でデビュタントとなり、国王夫妻に拝謁するのである。
その後は当然、成人女性として扱われ、若い独身男性貴族のお相手候補となる。
一年前、シャルロッテの父ベーヴェルン侯爵アントン・ハインリヒは、十五歳になった娘をいち早くデビューさせるための準備に余念がなかった。
べーヴェルン侯爵令嬢はかなりの美少女である、と貴族社会ではすでに噂になっており、デビュー前から茶会の招待状や、見合いの申し込みはたくさん届いていた。
もちろん噂を流すよう画策したのもアントンである。その上で、すべての申し込みに断りを入れて、相手の飢餓感をあおった。
そして、デビュタントの中でシャルロッテがもっとも輝くように、王都でも選りすぐりの工房や宝石商に、彼女を飾るためのドレスやアクセサリーを用意させていた。
アントンにとってシャルロッテは間違いなく、掌中の珠であった。しかし、ベーヴェルン侯爵家を継ぐのはシャルロッテではなく、弟のテオドール・アウグストである。
愛娘の婚姻は、侯爵家の未来のために重要な手札のひとつでもある。
アントンはシャルロッテを、最も効果的に売り出そうとしていた。
ところが、先に王都で準備を進めていたアントンのもとに、領地の本邸からシャルロッテが部屋から出てこない、と知らせが届いた。
夜会のひと月前には、シャルロッテも王都へ来て準備に加わる予定であった。
衣装合わせにダンスの練習、出席者の確認、すべきことは山ほどある。ひと月でも時間は足りないかもしれない。
それなのに、シャルロッテは夜会には出ないと言い張って、部屋に閉じこもってしまったのだ。
娘はデビューを楽しみにしている、と思い込んでいたアントンは、予想外のことに混乱し激怒した。
引きずってでも王都へ連れて来るようにと命じたが、そのとき、本邸にはシャルロッテより大きな器を持つ者はいなかった。
高位貴族のお嬢様が本気で張った結界を、使用人が破れるはずがない。
結局、ベーヴェルン侯爵令嬢は、その年のデビューを見送った。社交界では残念がる声とともに、理由を訝しがる声もちらほらと聞かれたが、まだ十五歳なのだから侯爵が出し渋ったのだろう、ということに落ち着いた。
その後、ベーヴェルン侯爵令嬢は精霊と見紛う程の美貌らしい、との評判だけが広がっていく。シャルロッテのあずかり知らぬところで、彼女は『精霊姫』と呼ばれるようになっていた。
そして、今年。
今度こそ確実に夜会に参加させるべく、シャルロッテは早めにアントンに捕獲され、一緒に王都へ連れ出された。
前評判の高い令嬢が、十六の歳にもデビューしないとなれば、貴族社会でさまざまな憶測を呼ぶだろう。
悪い噂でも立とうものなら、今後の縁談にも差し障りがある。アントンはなんとしても、それを避けたい。
屋敷には厳戒体制が敷かれ、シャルロッテが逃げ出しても決して見失わないように厳命された。
シャルロッテにしても父はともかく、真面目に仕えてくれる使用人たちに迷惑をかける気はない。
しかし、デビューを回避する方法を考え続けているところに、アントンからの厳しい監視と期待の圧力が加わって、このところ毎日のように親子喧嘩と、一時的な家出を繰り返していた。
シャルロッテは、『大地の精霊』の大きな器を持っている。与えられた大きな加護は、ときおり彼女に、いつかその瞳が映す未来を見せる。
望まぬ未来視を嫌っているシャルロッテは、これまでこの力を誰にも語ることなく過ごしてきた。
夢だと思っていたことが現実に起こったときに、まず感じたのは大きな恐怖だったからだ。
今、シャルロッテはその選択が正しかったと確信している。望んだ未来も、知りたい将来も見えはしない。ただ、これから起こる事実が、ごくまれに見えてしまうだけなのだ。
これまで、避けたいと思うことが見えても、避けられた試しはない。己に与えられた力を持て余し、嫌悪している。
貴族社会で生きていくには、余計な力としか思えなかったが、精霊術士であれば活かす道もあるかもしれない。そう考えたシャルロッテは、どうにかして貴族令嬢の身分を捨てて、精霊術士になりたいと思っている。
加護の器に注がれる魔力は精霊の力であるとされている。ゆえに、魔力の込められた石は「精霊石」と呼ばれる。だが、精霊の存在は信じられてはいるが、目にしたものはいない。
精霊殿は精霊への祈りを捧げ、赤子の器を測り、死者の魂を精霊の加護に委ねる場所である。王都の大精霊殿が統括する精霊殿が各地におかれ、民の信仰の拠り所となっている。
民間にも器が大きく、相当の魔力を有する者が生まれることがまれにあるが、彼らは精霊殿で修行を積み、認められれば精霊術士となる。
精霊術士は精霊殿において、魔力を用いて民を助け導く役割を担う。
シャルロッテはこれまでにも何度か地方の精霊殿に受け入れてもらえないか、と書簡を送ったことがあった。だが、成人前の侯爵令嬢の気まぐれなど、どこの精霊殿にもまともに取りあってもらえなかった。
王宮の春の夜会まで、あとひと月。シャルロッテは妙案も浮かばないまま、過ぎていく時間を恨めしく過ごしていた。