第2話 竜の秘薬
「…間違いない、完全に若返っとる。しかも肉体は健康そのものだ。長年患っとった喉も腰も治っとる」
時間をかけあたしの身体を診察したハロイスは、真面目な顔をして言った。
ハロイスはあたしより5歳年下の69歳。今は白い顎髭を中途半端にちょぼちょぼと生やした冴えない爺だが、魔術師としての腕は確かである。
医療系魔術に長けていて医術師の資格も持っているので、その見立てに間違いはないだろう。
自分でもさっき鏡で確認してみたが、そこに映っていたのは間違いなく若い頃のあたしの姿だ。
歳は17~18くらいだろうか。皺だらけだった肌はすべすべで、真っ白だった髪は昔の色を取り戻し、艶のあるワインレッド色をしている。
腰の痛みや喉のいがらっぽさもない。気力や魔力も充溢していて、一言で言うと元気いっぱいだ。
…そして、何より。
「その右足まで、完璧に治っとる」
ハロイスが持ち上げたのは、長年慣れ親しんだあたしの義足だ。
しっかり装着していたはずのそれはいつの間にか外れていて、代わりにあたしの右足には新しい足が生えている。
義足ではない、本物の生身の足だ。さっき軽く歩いたり動かしてみたが、痛みもなく思い通りにちゃんと動く。何十年ぶりかで踏みしめる足の裏の感触に、やたらとムズムズしたくらいだ。
「一体どういう事なんだい、これは。この薬のせいなのかい?」
机の上にあった赤い小瓶を持ち上げる。
こうして若返った視力でよく見ると、瓶のデザインがいつもの咳止め薬のものとは違う。さっきは老眼で気付かなかったのだ。
ハロイスが困ったように眉間を押さえる。
「まさかそれを飲んでしまうとはのう…」
「てっきりあたしの薬だと思ったんだよ、悪かったね。それで一体、これは何の薬なんだい?若返った上に失った手足まで生えてくる薬なんて、今まで生きてきて聞いた事がないよ」
若返り薬なんてものはこの世に存在しない。研究している魔術師もいるが、成功したなんて話はない。
失った手足を生やす薬もだ。魔術や薬で怪我を治したり病気を癒やす事はできるが、どんな高度な魔術、高い魔法薬を使った所で、一度失った手足を元通りに生やす事などできはしない。
あたしも表面上はこうして落ち着いたふりをしているが、正直な所かなり混乱している。夢だと言われた方がよっぽど納得できるだろう。
「その瓶に入っとったのは竜の秘薬だ。古代遺跡の近くから発掘されたものでな、瓶が収められていた箱の内側には『どんな病や傷もたちどころに治す』と書かれていた」
「なんだって…?守護竜様が作ったもんなのかい?」
守護竜『流星』。このヘリオドール王国があるベリル島の守護者、黒い鱗を持つ竜だ。
神によって作られたこの竜は、遠い昔には今よりも遥かに強大な奇跡の力を持ち、時折気まぐれに人間の願いを叶えたという。
竜の秘薬とやらも恐らく、ミーティオが誰かの願いを叶えて与えたものに違いない。
「…す、すまん…あたしは、何てことを」
ミーティオは今はもう奇跡の力は使えない。その力は弱り、島を守護するだけで精一杯なのだと言う。
竜の秘薬とは、もはや二度と手に入らない貴重なものだったはずだ。
…その最後の一滴を、あたしは飲んでしまった。
思わず口元を抑えて青くなるあたしに、ハロイスはゆっくり首を横に振る。
「知らずにやった事だ、気にせんでいい。…それに、あの薬は人の手には余る物だった。いずれ何らかの争いを引き起こしていたかもしれん。正直儂も、預かったは良いがどうしたものか迷っとったしな」
「でもあんた、この薬を研究したかったんじゃないのかい?」
ハロイスは長年、さまざまな魔法薬の研究を続けている。
どんな病や傷もたちどころに治す薬など、喉から手が出るほどに欲しい物ではないのか。
「実はもう調べとった。だがすぐに分かった、これは神の奇跡で作られた薬で、人には絶対に作り出せん代物だとな。…儂が作りたいのは多くの人間を救うための薬だ。再現できんのでは、研究には何の役にも立たん」
ハロイスは肩をすくめながら言った。その表情に、失われた薬を惜しむ様子は感じられない。
あたしを慰めてくれてるんだろうが、本当にこの古代遺物を持て余していた部分もあるんだろう。
「…まあ、若返った事は羨ましく思うがな。お肌ぴちぴちで良いのう…」
「それなんだが、これは病や傷を治す薬だったんだろう?何であたしはこんなに若返ってるんだい?」
そう疑問を口にすると、ハロイスは貧相な髭をしごきながらあたしの足を見た。
「お前さんのその右足、確か失ったのは17の時だったか?」
「ああ、そうだけど…」
「恐らく、それのせいだろうな。失った足を完全に元に戻すために、その当時の年齢にまで戻った」
「はあああぁ!?」
「あるいは、70過ぎのババアの身体じゃ新しい足を生やしても耐えられんからかも知れんが…何にせよ、人智の及ばん力によるものだ。儂には分からんわい」
「なんてこった…」
あたしは思わず頭を抱えこむ。
おとぎ話の中で見た、竜が起こした奇跡の数々。病を癒やしたり、時を巻き戻したりという話もその中にはあった。
それがまさか、本当に自分の身に起こるとは…。
「今更こんな小娘になっちまうなんて…。なあ、元のババアには戻れないのかい?」
「多分な。普通に年は取るだろうから、戻りたきゃ後50年待つ事だ」
「50年…!?勘弁しとくれよ!」
「良いじゃないか、二度目の人生を謳歌できるんだぞ?蘇ったその美貌がありゃあ、社交界に返り咲くことだってできるだろう」
「そんなの絶対ごめんだよ!!」
確かにあたしは元々子爵家の出だ。貧乏貴族だったが、美貌の令嬢なんて言われそれなりにモテたりもしていた。
だけど17の時に片足を失い、家を出て魔術師の道を志したのだ。
あの胸糞悪い貴族の世界になんか、もう二度と足を踏み入れたくない。
「しかし、若い男を捕まえれば今度こそ結婚できるかもしれんぞ?」
「余計なお世話だよ!!!…大体、見た目がどんなに若返ったってあたしゃババアなんだよ、ケツの青いガキ共の相手なんかしてられるかい!!」
「中身がどんなにババアだろうと、見た目はうら若き美女だ。『精神は肉体という器に引っ張られて変容する』と、お前さんの尊敬する青薔薇の魔女も言っておったろう」
「そりゃそうだけどね!」
青薔薇の魔女。この国の歴史に名を刻む、偉大な女魔術師だ。あたしが魔術師に憧れるきっかけになった人でもある。
彼女はいくつもの論文を残しているが、その中には精神と肉体の関係について書かれたものもあった。
あの論文の通りなら、若返った肉体に慣れていくにつれ、あたしの精神もまた若さを取り戻していく事になるのだろうが…。
「…男なんて、あたしには必要ないよ」
顔をしかめて吐き捨てると、ハロイスは口を噤んだ。
もうずっと昔の話だ、吹っ切れている。
あいつだって爺になって、とっくに死んでいるんだから。
…それでも、思い出すと未だに嫌な気分になるのが、自分でも腹立たしくてしょうがなかった。