第1話 家庭教師の魔女と落ちこぼれ生徒※
「…だから!!火魔術の構成式はそうじゃないって何回言ったら分かるんだい!それは風魔術向きの構成だよ!」
若葉が風に揺れる庭の中、周囲に被害が出ないよう結界の魔術を広げ、あたしは大声を上げた。
すぐにそれに応じたのは、水色の瞳にやや癖のある黒髪をした生意気そうな少年だ。
「うるせー!俺はこれでやりたいんだよ!こっちのが簡単だろ!」
全くこいつは、人の話なんか聞きやしない。間違ったやり方を覚えたって何の意味もないってのに、自分の好きなように勝手にやろうとする。
魔術は失敗すれば自分に跳ね返ってくる事もある。適当に扱えば危険だっていうのに。
「やめなっつってるだろ!それで失敗したらあんた自身が燃え上がるよ!!」
「つまり失敗しなきゃ良いんだな!わはは!!…うおっ!?」
少年の右腕がボッといきなり燃え上がった。周囲の空気を取り込みすぎて、炎の制御ができなくなったのだ。
「言わんこっちゃない…!『水よ』!」
すぐさま水の魔術で周辺の水分を集め、少年の右半身に向かってぶちまける。
「冷ってえぇ…!!」
「助けてもらっといて文句を言うんじゃないよ!…ほら、見せてみな、ユージアル」
名前を呼ばれ、少年…ユージアルは渋々濡れた右腕を差し出した。
袖の先が焼け焦げ、皮膚が少し赤くなっている。軽い火傷のようだ。
そこに向かって手をかざし、治癒魔術をかける。みるみる赤みが引いていった。
「助けてくれなんて言ってないんだからな!」
「若者が古のツンデレみたいな台詞を吐くんじゃないよ。こういう時は『有難うございます』だろ!全く…ゲホッ!」
その瞬間、何かが喉に引っかかる感触があり、思い切り咳き込んでしまった。
「ゲホッ、ゴホ、今日は空気が乾燥してるねえ…ゴホッ!」
「…大丈夫か、ババア」
咳を続けるあたしに、ユージアルが気遣わしげな顔をする。
この小僧にまで心配されるとは、いよいよあたしも焼きが回ったかね。
…大魔女と呼ばれたこのあたしエリトリットも、もう74歳。寄る年波には勝てない。
顔も手も皺だらけ、髪は真っ白でぱさぱさ、いつも腰が痛む。
事あるごとに咳が出るし、食べ物は飲み込みづらい。毎晩眠りが浅いのも悩みだ。
何より、足の古傷が痛む。脛の途中から下をまるごと失った右足が。
人は皆あたしに「まだ若くて元気だ」などとお世辞を言うが、この身体がすっかり衰えている事は、誰よりもあたし自身がよく知っている。
すぐにお迎えが来る程ではない。だけど、そう遠い未来でもない。
「ゴホ、ゴホッ!」
「いつもの薬はどうしたんだ?あの赤い瓶のやつ」
「切らしちまったんだよ…ゴホッ」
ユージアルが言っているのは、あたしがいつも持ち歩いている液状の咳止め薬だ。
友人が調合してくれている魔法薬なのだが、新しいものを頼むのを忘れていて、昨日から切らしていた。物忘れが多いのも、老人の困った所だ。
次の薬を貰えるのは今日の午後。だから、午前中の間くらいは我慢しようと思ったのだが…。
「ゴホッ、あたしの心配をするくらいなら、もっと真剣に授業に取り組みな。真面目にやりゃあいくらでも良い成績が取れるだろうに、あんたと来たら…」
「あーもう、お説教するなら中に入ってからにしろよ!庭は風が強いから余計に咳が出るんだろ!」
「そうだね、今日の実習はここまでにしとこうか。あとの時間は全部座学だよ」
「げえ…」
ユージアルは大人しく屋敷に向かってゆっくりと歩き出したが、その顔は不満たらたらだ。
…本当に困った生徒だね。
家庭教師になって3年、この小僧の勉強嫌いはちっとも治りゃしない。
ユージアルはこれでも、ゲータイト伯爵家…このヘリオドール王国でも特に裕福な名家の跡取り息子だというのに、16歳になった今でも中身はてんで子供だ。
わがままで飽き性、忍耐力がなく何をやっても長続きしない。
剣術をやらせれば、あっという間に「手が痛い」だの「もう疲れた」だのと言って音を上げる。
ゲータイト家は高名な騎士を何人も輩出している家だ。こいつも才能がない訳じゃなさそうなのに、修業嫌いのせいで剣術の腕は人並み以下らしい。
さらに、座学も魔術もとんでもなく成績が悪い。
昨年の秋に王立学院に入学したばかりなのだが、最初のテストは酷いものだった。何と下から2番めだ。
当然父であるゲータイト伯爵や姉のガーネットにこっぴどく叱られ、家庭教師であるあたしもまた、伯爵から苦言を呈されてしまった。
いたずらが大好きだというのも困った所だ。
あたしや他の家庭教師に対しても、扉を開けると上から蛇のおもちゃが落ちてきたり、椅子に変な音が鳴るクッションを置いたり、お茶にやたら苦い薬を混ぜたり、そんな事ばかりしている。
ただ、その度に魔術できついお仕置きをしてやったので、あたしへのいたずらの回数は今では随分減った。忘れた頃にまた仕掛けてくるから油断はできないんだけどね。
そうして庭を出て屋敷の中に入ろうとした時、突然足がずるりと滑った。
しまったと思った時にはもう、身体がグラっと傾いている。
「…ババア!」
さっと伸ばされた手があたしの身体を支えた。ユージアルだ。
「足が悪いんだから、ボーッとしながら歩くなよ。危ないだろ」
そう言って、ちらりとあたしの足元を見る。
そこには小さな石が転がっていた。どうもあれを義足で踏んだせいで転びかけてしまったらしい。
「悪かったね。ありがとさん」
「へへん、俺は立派な騎士だからな!」
ユージアルは偉そうに胸を張った。
こいつがやけにゆっくり歩いてたのは、こういう時にあたしを助けるためだ。自分で立派とか言ってしまうせいで台無しだが。
…根は良い子だし、名領主になれる素質は充分あると思うんだけどねえ。
今日も座学は難航するだろうと想像し、あたしはひっそりため息をついた。
「…ほらそこ、また間違ってるよ!何でそう単純な計算ミスばっかりするんだい、もうちょっと落ち着いてやりな!」
「ちゃんとやってるだろ!どこが間違ってんだよ?」
「ほらここ!」
「げ、こんな最初のとこかよ!やり直すのめんどくせえ…」
「そう思うんだったら、ちゃんと確かめながら…ゲホ、ゴホッ!」
「おいババア、本当に大丈夫か?そんなにゴホゴホされたら集中できないだろ。さっさと帰って、薬貰ってこいよ」
数学の授業の最中、また咳き込んだあたしに、ユージアルが顔をしかめる。
どうせこの小僧は授業を早く切り上げたいだけだろうが、その言葉には一理ある。別に伝染るような病気じゃないが、あまり生徒の前で咳き込んでいるのは良くない。
「…しょうがないね、今日はここまでにするよ」
「やった!」
「ただしその分、次回の授業は時間を長くするからね」
「うげえ…」
がっくりと肩を落とすユージアルににやりと笑い、「よっこらせ」と杖を取って立ち上がる。
「ちゃんと今日やったところの復習をしておきな。 ゴホッ…次回テストするよ」
「マジかよお…」
ユージアルはげんなりした顔をしたが、すぐに立ち上がると部屋の入り口まで歩いてドアを開けてくれた。
…本当に、こういう所はいい子なんだけどねえ。
ゲータイト伯爵邸を出て向かったのは、この王都の北側にある王城だ。
王宮魔術師であるあたしは本来ここに勤めているのだが、もうとっくに引退してもいい年齢なので、任務を与えられる事は滅多にない。
そのため、せいぜい週に一回程度しか顔を出していない。
あたしの咳止め薬を作っている友人のハロイスもまた王宮魔術師で、あたしとはほぼ同期だ。もう50年近い付き合いになる。
爺だが未だに魔法薬研究に熱を上げていて、今日みたいな日曜日でもここにいる事が多い。
城の石造りの廊下を歩くと、カツコツと不規則な音がする。あたしの右足が義足なせいだ。
事故で足を失い義足を着けて歩き始めた当時は、この足音が気になって仕方なかった。だが今では、この音にすっかり馴染んでしまっている。
会釈をする見回りの兵とすれ違って渡り廊下を通り、王宮魔術師団の建物に着いた。
顔馴染みの受付係に挨拶をし、ハロイスの研究室のドアを叩く。
「おーい、ハロイス!あたしだよ、エリトリットだ!」
だが、どれだけ叩いても返事がない。
勝手知ったる仲でドアを開けると、中には誰もいなかった。
この時間ならいつもいるのに、どこに行ったんだろう。
「邪魔するよ。…お、薬はできてるじゃないか」
ハロイスの机の上には赤い色をした小瓶があった。
だが、それを手に取った途端にまた咳が出る。
「ゴホッ、ゴホッ…」
喉の奥がいがらっぽく、ムズムズする。
こうなるとしばらく咳が止まらなくなる。早速薬を飲んだ方が良さそうだ。
蓋を開け、咳の合間を縫って瓶に口をつけるが、なかなか瓶から薬が出てこない。
「……?」
疑問に思いつつさらに瓶を傾けると、ようやくぽとりと一滴、口の中に薬が落ちた。
その瞬間。
「……っ!?」
ドクン、と大きく心臓が脈打った。
胸が熱くなり、何かが激しく全身を駆け巡る。
右足の先に激痛が走った。
たまらずに「ぐぅっ」と呻きながら床に膝をつく。とうの昔に失われたはずの右足が、焼けるように痛い。
「ぐぅ、う…!」
目の前が暗くなり、胸が苦しい。どこか遠くでゴトッという重たい音が聞こえる。
一体何が起こっているのか。身体の熱さで思考がまとまらない。
…まさか、間違って毒薬でも飲んでしまったのか?
何とか解毒をしなければ。
ぼんやりとする意識の中、魔術を使うために精神を集中させようとする。
だが、すぐに気が付いた。
痛みが急速に引いていっている。身体の熱さもだ。
視界がどんどん明るくなり、意識もはっきりしていっている。
毒じゃなかったのか…?と思ったその時、後ろでガチャっと扉が開く音がした。
「…エリー!?どうした!?」
この声はハロイスだ。どたどたと駆け寄ってくる。
その手に助け起こされて顔を上げると、ハロイスはぎょっとして後退り、尻もちをついた。
「え、エリーなのか…?」と、まるで幽霊でも見たかのような顔でブルブル震え、こちらを指さす。
「当たり前だろ。どうしたってんだい…」
そう言いかけ、自分でも驚いて言葉を止めた。
「え?…あれ?…あー、あー、あー…。…えっ!?」
遠い昔に聞き覚えがある、高くて若い女の声。
それが自分の声だと気付き、慌てて喉元に手をやった。皺のない、つるりとした感触。
同時に、ゆらりと何かが目の前で揺れた。
ローブのフードからこぼれ落ちた、ワインレッドの髪を束ねた太い三つ編み。
…ついさっきまでは真っ白だったはずの、あたしの髪。
「え、エリー、お前さん…」と、目を見開いたままのハロイスが叫ぶ。
「…若返っとるぞ!???」
本日中に3話まで投稿する予定です。どうぞよろしくお願いします。
ちなみに、前作「世界の天秤」と同じ国が舞台となっておりますが、内容は特に関係ありません。