一夜の懺悔
生暖かい風が吹いて、それが頬をかすめて、けどそれでも、細い薫の髪の毛が触れている感触が心地よかった。
腰を折って体を屈めないと、抱きしめることさえ出来ない華奢な体は、肉なんてついてねぇんじゃねぇかって思うくらい、骨ばってて心配になる。
ゆっくり体を離した時、その丸くて大きな瞳から、ボロボロと涙が流れていた。
その目は虚ろで、黒く落ちて淀んで、俺を見つめているわけじゃないことくらい分かった。
俺の言葉が、薫の心の中にある何かを刺してしまったんだとわかった。
一瞬自分まで呆然として、慌てて意識を戻した。
「薫・・・?ごめんな?・・・あの・・・俺・・・」
上手く言葉も声も出ない。
俺の言葉に応えず、薫は肩にかけていた鞄をぎゅっと握って、そのままマンションの入り口に走り去った。
暗闇の中わずかな建物のライトに照らされて、その姿はハッキリわかるけど、俺の足は動かなかった。
やばい・・・まずい・・・・
そんな言葉だけが心中を埋め尽くして、一生懸命薫の気持ちを想像した。
けどどうしても、涙を流す程気持ちをかき乱してしまった原因はわからなかった。
薫がマンションへ入って見えなくなっても、俺はしばらくボーっと突っ立っていた。
スマホを持っているんだから、すぐに電話を掛けたらいいかもしれない。
けど、たぶん・・・薫は出てくれない。
「愛してる」
その言葉が薫の何を傷つけたんだろうか。
薫は・・・少し軽薄な家族の元で生活していたように思える。
親はそんな言葉を残して、去って行ったりしただろうか。
はたまた愛する誰かにそう言われて、裏切られたりしたんだろうか。
もしかしたらそうなのかもしれない。
想像から真実に辿り着くはずもないのに、俺はボーっと帰り道を歩きながら考え続けた。
このまま何の連絡も返されずに、縁が切れてしまったらどうしよう。
ただの友達として、側に居られる方がましだっただろうか。
電車を待つ間、とりあえず電話には出てくれなくともメッセージが読めるように送った。
どんな気持ちになるかわからないのに、そう言ってしまったことを謝罪した。
薫がどんな気持ちか聞きたかった。
あんな暗い顔をさせたまま別れたくなかった。
既読の付かない画面を眺めていると、視界は歪んで人目もはばからず泣きそうになった。
大きく深呼吸してなんとかそれを耐えて、人が沢山出入りする電車に乗り込み、生きた心地のしないまま帰路に就いた。
22時ごろ、帰宅して蚊の鳴くような声で「ただいま」と呟いた。
リビングで父がテレビを観ている音が聞こえて、母がパタパタとスリッパで玄関まで来る足音がした。
「おかえり。焼肉美味しかった?」
「・・・うん。」
「お風呂もう入っちゃったから、好きに入りなさいね。」
「ありがとう・・・。」
洗面所で手を洗いながら返事をして、ふと鏡に写る自分を見た。
薫を泣かせた奴の顔。
胸の中が煮えて、喉まで痛みが押し寄せた。
起きてしまったことはどうしようもない。こんな気持ちになりたくなかった。
朝陽が死んだときも、毎日同じような気持ちだった。
自室に向かわず、無意識に和室にある妹の仏壇の前に座った。
短く折った線香に火をつけて刺し、手を合わせた。
心の中で朝陽に話しかけるように懺悔した。
声を思い出すように祈った。
そのままフラフラと自室に戻って、また薫にメッセージを送った。
パソコンのアドレス・・・一応送っておこ・・・。
出るかどうかわからないけど・・・。緊張しながらダメもとで通話ボタンを押した。
何度かコール音がしたけど、タイミングの問題か、はたまた無視されているかわからないけど、出てくれることはなかった。
仕方なく淡々と着替えを持って風呂に入り、寝る準備をして、またメッセージを送った。
部屋を暗くして、ベッドに入って、まだ既読がつかないことを確認しながら、薫と写真の一枚でも撮っておけばよかったと後悔した。
このまま関係が切れるようなことがあれば、未練がましく見返す思い出になったのに・・・。
「・・・あ~・・・・ヤバイ・・・・」
また溢れかえってきた涙を堪えた。
それから何時間たっても眠れなかった。
スマホが気になって仕方なくて、そのうち窓から外が明るくなってくるのを感じて、もう眠るのは諦めた。
薫に会いたい。
ごめんなって言いたい。
俺は本気で人を好きになったことなんてなかったんだよ。
だからこんな苦しみ知らなかった。
その時枕の横に置いたスマホが小さく通知音を鳴らした。
体を起こして慌ててそれを開いた。
そこには薫から「何も悪くないから気にしないで。」と書かれていた。そして、アドレスに小説を送った、とも。
俺は掛布団を勢いよく避けて、机の上のノートパソコンに手を伸ばした。
スムーズに立ち上がらない画面を急かしながら、メールの画面からデータを受信した。
キーボードを爪でカチカチ鳴らして開くのを待って、ようやくそれがパッと表示された。
「僕の事象」
薫の短編小説が綴られていた。
噛みしめるようにようよく目を通していく。
丁寧な言葉の運びと心理描写、小難しくない想像に足る生々しい日常感、その中にある薫の出来事。
高校生だった薫が、愛してやまない先輩の話。
どれ程の文字数があった短編なのかはわからない。
けど物語のピークである薫が告白する部分、暗い部屋で明るいパソコンを前に、俺はボロボロ涙をこぼしていた。