3秒後の彼女と
「これ、借りてた小説。返すね」
……「あ、うん。どうだった?面白かった?」
「途中まで微妙かなぁって思ってたけど、最後でひっくり返された」
……「でしょ?私のお気に入り」
彼女の返事はいつも一拍遅い。それは別に、彼女が僕の相手を嫌々しているとか、彼女の判断が遅いとか、そういうことではない。
彼女と出会ったのは、3年ほど前。就職のためにこの街に越してきて、間もない頃だった。僕はその日、この街に来てからはじめてのお気に入りを見つけた。喫茶Lilly。外より3℃低い店内は木組みの高い天井が特徴的で、柔らかい木の香りと仄かな珈琲の香りが適度に混ざり合う。まるで世界から切り取られたみたいに、その場所だけがのどかな時間を刻んでいた。
僕が手を挙げると、マスターに促されて彼女が注文を取りに来た。彼女の華奢な身体には、店の名前がプリントされた褐色のエプロンがやけに大きく見える。小柄で童顔の僕に言えた口ではないが、何処か子供っぽい娘だと思った。
「珈琲とトーストをひとつ。珈琲はアイスで」
あまり慣れていないのか、必死にメモをとる彼女。書き終えて、席を離れる。
「あ!すいません、やっぱりこっちの、フレンチトーストで!」
僕は彼女を呼び止めたが、その声は彼女の耳には届かなかったらしい。そのまま行って、しかし3歩歩いたところで突然立ち止まり、振り返った。これがまずかった。
そこにはちょうど他の客にコーヒーを運ぶマスターがいた。両手のバランスに気を取られていたマスターは突然の彼女の行動に反応できない。2人の衝突は避けられなかった。
ガシャーン!
人とカップとコーヒーと机と。色んなものがぶつかり倒れて飛び散った。
「申し訳ありません、お客様。すぐ片付けますので」
「熱い!」
客に頭を下げるマスターの横で、彼女は今さら思い出したように叫ぶ。
「大丈夫かい?」
……「あ、ごめんなさいおじさん・・・私・・・」
「いいから、ほら、奥で着替えてきなさい」
促され、彼女はふるふると辺りを見渡しぺこりと小さく頭を下げて、トコトコと店の奥へ消えていった。
その日以来、僕は毎日店に通った。似たような事は何度も起こった。その度に、彼女は客に頭を下げたが、しかしけっして笑顔を絶やすことなく、毎日一生懸命に働いた。その姿は僕を強烈に惹きつけた。3ヶ月が経った頃、思い切って話しかけた。なんでも彼女は幼い頃から、見るものや触るもの、匂いや音も、外からの情報が脳に届くのに、人より時間がかかるそうだ。だいたい、3秒。
「それって、どんな感じなの?って聞くのは失礼か・・・」
……「そんなことないよ、なんせ全部3秒ずつ遅いから、私の中では何にも変な感じはないんだもの。きっと変に思うのは周りの人だけ」
「全然、変なんかじゃないよ。君はちょっと間が独特な、素敵な女の子だ」
……「ふふっ、ありがとう。それにね、人より遅れてるおかげで、私カエルの歌はとっても得意なの」
彼女はそう言って笑ってみせた。
向かいに座る彼女は、僕が返した小説のページをパラバラとめくりながら、ここが面白いとか、この言葉が好きだとか、嬉しそうに語っている。一方の僕はといえば、「うん」とか、「あぁ」とか、気の利かない相槌を打つのが精一杯だった。
なんせさっきから、心臓が胸を突き破ろうと躍起になっている。窓の外を見て、床を見つめて、それから、上着のポケットの中で指輪をコロコロと転がす。彼女が淹れてくれたコーヒーは、とっくに冷めてしまった。僕は覚悟を決めて、人目を憚らず大声で叫んだ。
「僕と、結婚して下さい!」
「はい、よろしくお願いします」
あれ?今・・・
「ふふっ、そう言ってくれる気がして、先に答えちゃった」
彼女はいたずらっぽく笑った。その笑顔に僕の笑顔が追いつくまで、3秒、必要だった。