2000年、夏
ゆるい傾斜の山道を、はしゃぎながら駆け上がる。
何が嬉しいのか、椛はぴょんぴょんと跳ねながら、歩みの遅い母を振り返る。
「遅いよ、かあちゃん。先生に怒られちゃうよ。」
最近、ひざの痛みが強くなってきた、と和沙は思った。まだ幼い娘は無邪気で健康体でキラキラとした発光体のようにまばゆく感じる。 木々が多く、薄暗いこの道は日暮れ時も相まってどんよりと薄気味悪いが、椛が立っていると不思議と心なしか明るくさえ感じる。切れた息を整えるために和沙が足を止めているうちに、椛はついに目標に到着していた。
「椛ちゃん、ちょっと待って。」
額から、背中から、いたるところから汗が噴き出して心地悪い。片手に持っているハンカチはすでに自分の汗でじっとりと湿っていた。小さなログハウスのような建物が、ぽつりと駐車場の真ん中に建っている。椛はすでにそこで涼んでいるようだ。和沙は、もう少しだ。と自分を励まして痛む膝を一歩ずつ進めるのだった。
「遅くなってすみません。」
ドアを引きながら謝罪を口にする。ひやりと心地の良い風が流れだした。受付は同世代の女性で、優しく微笑みながら「少しだから大丈夫ですよ。」とうなずいてくれた。ちょうど2週間前の面会の時は若い男性スタッフで冷たく一喝されたところで、「よかった。」と和沙は胸をなでおろした。
「かあちゃん、ここ座り。な?涼しくてええね。」
椛は、昔から本当に自分の子かと疑いたくなるほど、口数が多く、愛嬌があった。今も受付の女性に今日何をしたか報告しながらニコニコと愛嬌を振りまいている。自分もこんな風に出来たら、母はもっと愛してくれただろうか。すっと暗い感情に引き込まれかけた最中、ドアが開く。
「椛ちゃんおかえり。お母さんも暑い中お疲れさまでした。どうでしたか?」
母くらいの年頃の穏やかな雰囲気の職員だ。名前は何だったか。
「石田先生、ただいま!たのしかったよ。」
娘は職員に抱き着き、傍から見るとまるで祖母と孫のようにさえ見える。無邪気な椛の「ただいま!」という響きがズキリと胸に刺さる。
「お母さん?」
先生の声に顔を上げる。立て直さなければ。大丈夫、大丈夫。和沙は何度も頭で繰り返す。
「今日は水族館に行きたがったので行ってきました。どうしてもイルカショーが見たいと駄々をこねるから、少し遅くなってしまって、すみません。」
駄々をこねる、というワードに椛がムッとした顔をする。キッとこちらを睨んでいるが、口には出さない。次の面会の時、怒られそうだな、と一瞬身構える。
「いいんですよ。椛ちゃんもお母さんとゆっくり出来て嬉しそうですし。もし、できそうだったらお電話でご連絡いただけると、こちらも安心できますので、今度から遅れそうなときは一報だけ、お願いしますね。」
そういった彼女の表情は崩れることはなかったが、ただその奥ではこの人も私のことをダメな母親だと思っているのか、と暗い感情があふれてくる。
「先生、もう行こう。」
椛が私の感情を読み取ったかのように、職員の手を引いてドアを出ていく。
「じゃあね、かあちゃん。また今度な。」
大きく手を振る娘を見ながら、愛おしいと思う。私から生まれた私の子。私の気持ちを察してくれて、でも私には似ていない素晴らしい子。早く母親に戻らなければ。ちゃんとした母親に。
控えめに手を振り、椛の姿が見えなくなってから、受付の職員に「ありがとうございました。」と声をかけ来た道を下る。行きと違い、帰り道が真っ暗に見えた。
膝が痛い。ゆっくりゆっくりと膝を撫でながら、私は一人で道を下りて行った。