A A Abbott1 アリス・A・アボット1
違法建築の建物の密集する界隈。
アンブローズは自宅に向かい歩いていた。
お飾りの水蒸気の煙をただよわせる煙草を、わざとだらしない感じで咥える。
特別警察の尾行を警戒して朝までバーをはしごして過ごしたので、寝ていない。
この国の軍隊の将校クラスは、適応した遺伝子の選別と、ある程度の遺伝子操作をされて軍施設で生まれ、軍に教育されて育つ。
少々の寝不足では思考も体力も落ちずにいるよう訓練されてはいるが、とはいえ生身だ。睡眠が不要なわけはない。
特別警察がいまになって三年前の事件の「実行犯」を追及してきたのは気になるが、情報収集するまえに仮眠をとる余裕くらいはあるだろう。
アンブローズは伸びをした。
下より上の方が幅があるバランスの悪い建物、不自然に突き出したベランダ、ありえない箇所から路上に突きだした配管、おかしな場所からぶらと下がる配線。
あきらかに違法建築だらけの建物群の間から見える空は、真っ青で雲ひとつない。
晴れか。
何気なく思う。
視界の端に気象データが現れた。
脳皮質に埋めこんだブレインマシンが、脳信号や血流から思念を読みとり、必要な情報を視界内に映しだす。
映される仕組みは脳が幻覚を見せる作用とほぼ同じだが、事故防止のために視線を向けている方向とはズレた位置に現れるよう調整されていた。
しばらく外に出る予定はないので、天気はまあどうでもいいのだが。
アンブローズは、OFF、と頭に思い浮かべた。
気象データが視界の端から消える。
下町というわりには路地は清潔に保たれていた。
もともとは外国からの移民のために整備された界隈だが、半世紀まえの排斥運動で住む者がいなくなり、違法に住み着いた者たちの貧民街と化したのち、政府が整備し直した。ふた昔ほどまえだ。
今ではまあまあ衛生と治安の保たれた下流層の住宅地区になっている。
「お帰りなさい」
自宅の玄関ドアを開けようとして、アンブローズは手を止めた。
目線のだいぶ下のほうから、幼女の声がする。
くわえ煙草のまま顔を下に向ける。
金髪をきれいに巻き、上等なアンティーク風のワンピースを着た幼い少女がドア前のキャットウォークに座っていた。
大きな青い瞳を上目遣いにし、怒ったような表情でこちらを見上げている。
上品に手袋をはめた手には、ケーキらしき箱を持っていた。
「……いらっしゃい」
アンブローズは白い煙を微風になびかせながらドアを開けた。
アリス・Ａ・アボット。
人工知能、アンドロイド、ブレインマシン等の開発、製造、メンテナンスで財を成したアボット財閥の幼き総帥。
幼すぎて説得力がないので、世間的には姿を出さず三十八歳男性、Ａ・Ａ・アボットで通していた。
実際は八歳だ。
前総帥が高いIQの女性を選んで産ませた子の中でも、群を抜いた優秀さと、徹底した英才教育で、五歳にして跡を継いだ。
付き人としてついて来ている美形の護衛アンドロイドが、横で長身の上体をかたむけ礼をする。
「ゆうべはどこに行ってらしたの？」
アリスが幼い声で正妻か何かのように言う。
「子供は知らなくていいとこ」
アンブローズはそう返して屋内へと入った。
「いかがわしいお遊びでムダな時間と体力とお金を浪費する男の人って、ばかだと思いますわ」
「ああそう」
護衛アンドロイドとともにアリスはあとをついて中へと入った。
部屋の一角に設置したディスプレイと、安物のテーブルと椅子。あとはよけいな家財はほとんどないリビング。
カーテンを閉めたままだったので、薄暗い。
アンブローズは消火灰皿に煙草を入れてジュッと消すと、窓際に行きカーテンを開けた。
「せっかく「リトル・ガール」の、一日十五個限定とちおとめファンシーケーキをいっしょに食べようと思って来ましたのに」
アリスはテーブルにケーキの箱を置いた。
「このまえもそのまえもイチゴのケーキだったような」
「軍人って、無粋ですのね」
アリスが安物の椅子にすとんと座る。
護衛アンドロイドが乱れたスカートと襟元のリボンをそっと直した。
「このまえは「バンビーナ」の一日三十個限定ロッシーニ・カンドンガ・フロリーノ、そのまえは「小公女」の土日限定ロイヤルクイーン・ショートケーキ」
「お嬢様、俺はきのうの夕飯と今日の朝食もまだなんだが」
甘いものは嫌いなのだ。
まして一晩中、安い水割りだけで満たしていた胃袋にいきなり生クリームを注入する気か。
アンブローズはうんざりと眉をよせた。
「遠慮なさらないで。お食事を終えるまで待って差し上げますわ。わたしとあなたの仲ですもの」
アリスが上品に手を組む。
「紅茶はヴィラーニ社のフラワリー・オレンジ・ペコーでよろしくてよ」
「そんな高級品があるとでも？」
アンブローズはそう返した。
「シケていらっしゃるのね」
「除隊して下町で暮らす落ちぶれ軍人に、贅沢する金があるわけないだろう、お嬢様」
「そういう体というだけでしょ、諜報活動上」
アリスはそう答えた。
「分かっているならあまり関わらないように。万が一何かに巻きこまれたさいに守ってやれるつもりはない」
「スポンサーが様子を見にきてなにが悪いの」
アリスは正面から見据えた。
「調査費用を援助してくれてるのは感謝する」
「わが社の特別警察仕様のアンドロイドが妙な不具合を起こし続けているなんて、トップとして情報を知る必要がありますもの」
セリフは立派で大人びているが、いかんせん舌足らずで言うのでえらいアンバランスな感がある。
アンブローズは顔をしかめた。
「でも、そんなんじゃないの」
アリスは切ない表情で椅子から降りた。
芝居ががった仕草で、アンブローズにそっと寄り添う。
ふつうの男女なら胸元に寄り添っているところなのだろうが、身長差がありすぎるのでアリスは腹部のあたりに顔を埋めることになった。
「好きな人の力になりたいの」
大真面目な様子で、ラブシーンの真似事らしきものをはじめる。
これはギャグでやっているんだろうかとアンブローズは眉をよせた。
クルクルと巻かれた多毛症の金髪を見下ろす。
根元まで金髪ということは、天然の金髪なんだなとどうでも良いことを考えた。
「……汗臭くはないのか？」
アンブローズは尋ねた。
水道代を考えると、洗濯は自宅でするよりも近所の業者にまとめて頼むほうが安上がりだった。
だが、それすら節約する周りの住人に合わせて、まめには洗濯していない。
「というか、女の人の残り香とかしませんのね」
アリスがくんくんと鼻をならす。
まさかそれを探るためにやってるんじゃないよな。
最近の八歳女児は怖いなとアンブローズは呆れた。
