第三話 婚約者たち
「リオナ」
何とか立ち上がった先ほどの対戦相手の片割れ、金色の短い髪の少女が、王子の声に振り返った。
「バセット殿下、どうしましたか」
はあ、と、大きく息を吐くことで呼吸を整えた金髪の少女、バセット王子の婚約者のリオナはそう言って剣を腰に戻すとそう尋ねた。
バセット王子が穏やかな笑みを浮かべて微笑む。
「婚約者殿に会いに来たんだよ」
「はぁ、それで、何の御用で?」
怪訝そうな顔をするリオナに、バセット王子は内心で舌打ちした。王子が優雅に微笑めばそのあたりの令嬢ならばたちまち頬を赤らめ、瞳は喜色に染まるというのに、全くもって己の婚約者はそのあたりは鈍い。いっそ唐変木と言ってもいい程だ。
「もうすぐ私が学園を卒業するだろう。そうなればようやく私たちも正式な夫婦になる。結婚式に向けて色々と決めておきたいこともあるからね」
「……分かりました」
王子の言葉にリオナは頷くと、近くにいた騎士に自身の腰の剣を渡す。それから「邪魔をした」と、礼を取ると王子の傍に近づく。その足さばきはまさに騎士のそれで、間違っても令嬢のものではない。
これが将来自分の横で、自分の伴侶として諸外国の目にさらされるのか。王子は自身とほとんど同じ位置にある顔を見ると、内心でうんざりとため息をついた。
「それにしてもついにリオナ様と殿下が結婚か」
「王宮の礼儀作法講師が手ぐすね引いて待っているって話だぞ」
「つーか、それであの金狼姫がおしとやかな令嬢になるのかね」
訓練中の騎士たちのそんな会話が王子の耳に飛び込んでくる。そう、実のところリオナはいまだ、いわゆる王妃教育というものは受けていない。これは二人が婚約するにあたって公爵から出された唯一の条件だった。
――どうか、正式に結婚するまで娘の自由にさせること。
もちろん不貞や、それを疑われるような行為は論外だが、それでも格別の条件だろう。それは、生まれる前から将来が決まってしまっていた娘に対する、父親としての贖罪だったのかもしれない。
青年の父王もそれを了承し、結果としてリオナは令嬢らしくない令嬢に成長したというわけだ。
――だからこそ、今ならばまだ間に合う。
親の好意を拡大解釈し、自由気ままにふるまう彼女はとてもではないが王子妃にふさわしいとは思えなかった。だがだからと言って、彼女の代わりがいるわけではない。
相変わらず国の財政は厳しい。すでに主だった貴族の令嬢には婚約者がいるだろう。王家からの婚約の打診となればこちらを優先させるかもしれないが、それも確かなことではない。そもそも、王家の財政が厳しいことは殆どの貴族が知っている話だ。そして、さらに言うならば財政難は王家だけの話ではない。
主だった上位貴族も楽観視できる状態ではなく、それこそ貴族令嬢の中では下手に高位貴族に嫁ぐよりも、子爵あたりに嫁いだ方が生活が楽だという話があるぐらいだ。かと言って、さすがに次の王妃を子爵家から迎えるわけにはいかない。諸外国に対する見栄や序列と言うものもある。
そんな中で、王家に嫁ぐに十分な家の格を持ち、王家の財政を支えるほどの財力を持ち、年頃の娘がいる家が、ハルフテル公爵家だけだったのだ。
だからこそ余計に、王家は彼女の我が儘を咎められない。
――だがそれも、正式に結婚するまでだ。
彼女が自由にふるまうことができるのは自分との正式な結婚までである。それ以降はこの国のために、まっとうに働いてもらいたいものだ。
王子は、部屋に入るとメイドたちが短く悲鳴を上げて連れ去っていったリオナを見送る。先ほどまで騎士たちに交じって訓練をしていたリオナの全身は土埃で汚れていたのだ。
一時間ほどでメイドたちに磨かれて戻ってきたリオナは、先ほどまでの騎士の訓練服ではなく、貴族令嬢らしい、だが些かシンプルなドレスに身を包んでいた。
まだ周囲の令嬢に比べれば短いが、ここ半年ほど伸ばし始めたという髪が編みこまれている。彼女も、自身の自由な時間が残り少ないことは理解しているのだろう。
王子の正面のソファに、やや斜め前になるような位置に座ると、リオナが「それで」と口を開いた。
「それで、私に何の御用でしょうか。立太子の式典や結婚式については、そちらの専門部門と、父で話が進んでいると思いますが」
「それはそうだが、君の意見というものは聞いておかないとね」
結婚式と言うのは、女性にとって大事なものだろう? と、王子が尋ねると、リオナはメイドが淹れてくれた紅茶のカップを持ち上げながら首をかしげた。
「そうなんですか? ですが私に特に希望はありません。すべて殿下と父のよいように」
信用しておりますから。と、口では言うが、ようするに興味がないとありありとわかる態度だった。
「……キミは、私との結婚に不満かい?」
「いいえ、まさか」
王子の言葉にリオナは驚いたように目を見張った。そんなことを言われるとは思ってもみなかった。と言うのがよくわかる顔だ。
そのまま音もなくカップをソーサーに戻すと、リオナは改めて王子を正面に見据えた。
「殿下との婚約や結婚に不満などありません。実際、父との約束でこうして自由にさせてもらっています」
「まぁ、そうだね」
自分が普通の貴族令嬢としてはあり得ないことは、ちゃんと理解しているらしい。リオナは自身の髪に指先で触れて、一瞬だけ目を伏せた。だがすぐに、その青い瞳はまっすぐに王子を見つめる。
その瞳には、やはり王子に対する恋慕や思慕と言った感情は見えず、何なら興味もなさそうだが、それでも彼女はまっすぐに王子を見つめる。それは、出会った頃から変わらない。彼女の癖のようなものだった。
「ですから、私は殿下との婚約や結婚に不満などありません」
そう言って彼女は、この話題は終わりだ。という様に紅茶を口に含む。ここで、「殿下は?」などと聞き返せばまだ可愛げがあっただろうし、王子も自身の心情を吐露することができたのかもしれない。
だがやはり、彼女は王子には興味がないのだろう。王子がこの婚姻に対して不満を持っていようが、それは彼女には関係ないことなのだ。
――息が詰まる。
バセット王子はそう言って襟に指を入れてわずかに緩めた。自分の周りは何もかもが決まっている。王となる道も、王となった後も、隣に立つ女ですら、何もかもが決まっている。
せめて、自身の隣に立つ女がもう少し可愛げのある女ならば。王子は何度思ったかわからない思いを再度強くすると、こぶしを握り締めた。