第二十六話 ハルフテル公国 ドゥエニャス侯爵家夫妻
夫婦仲良し
「やっぱり、地下五十階以降が難所だな、一気に難易度が高くなる」
そう言って難しい顔をして何枚ものメモをめくるのは短い金髪の女性だ。中途半端に伸びた後ろ髪を一本に結んでいる。真剣な表情で視線を手元に落とす彼女が座っているのは、屈強な男の片膝の上だった。
彼女の腹部には、男の太い腕が彼女を支えるように回っている。「んー」と眉を顰める女性は「ねぇ」と後ろを振り返るように顔を上げた。するとウィスキーグラスを手にしていた赤い瞳の男が鋭い眼光を女性に向ける。
普通の人間ならまともに口がきけなくなりそうな迫力であったが、女性は慣れているのか背中を男の胸に投げ出すとピラピラとメモを振る。男は手にしていたグラスをサイドボードに置くと、その一枚を引き抜き目を通す。
「たしかに、俺とお前となら何とかなるが……」
「今のところ魔獣の沸きは安定しているし、今のうちに底上げをしときたいんだよなぁ」
「育成は専門の部門を作っただろう」
「まぁそうなんだけど」
うーん、とうなりながら女性は手にしていたメモを手帳に挟み、ポイっと、前にあるテーブルの上へと放り投げた。
それから自分の腹部に回る男の腕を、両手でポンと抑えるようにして背中を男の胸に投げ出す。懐に増えた重みを感じながら、男は女のつむじを見下ろして言葉の続きを待った。
「……最近レオンがちょっと無茶するようになってきて心配なんだよねぇ」
むぅと、唇を尖らせ、眉間にしわを寄せながら女――リオナが言う。男、グラシアノはそんなリオナの言葉に喉を震わせる。
リオナとグラシアノの息子であるレオンはブロンドに青い瞳で生まれてきた。その色合いを見た瞬間、グラシアノの父とリオナの父はそろって「この子の名前はレオンだ」と言い出したのである。
一応、他にも候補はあったのだが、リオナの祖父であり、英傑レオンと同じ色彩を持って生まれてきてしまった息子がその名の重みに潰されてしまわないのか、反発して無茶をしないのかと、リオナは気を揉んでいるようだ。
「あの子も九つだ。いろいろ考えるだろう」
「うーん。私が九歳の頃って何してたかなぁ…………あ」
「あ?」
考えていたリオナの身体が一瞬こわばったのを見逃すグラシアノではない。逃がさないとばかりに腕に力を込めた。ぐえと、わざとらしい呻きが余計に後ろめたいことがあると言っているようだ。
「リオナ?」
「あー」
グラシアノが促すようにリオナの名を呼べば、彼女は恐る恐るグラシアノを見上げるように振り返る。
「えっと、怒らない?」
「事の次第によるな」
「それ絶対怒るやつじゃん!」
リオナは叫んで夫の腕の中から逃げようとするが、逃がすグラシアノではない。彼女はグラシアノが己に関してのみ嫉妬深く、心が狭いことをよく知っている。
それ以外のことはおおむね寛容で鷹揚なのに、だ。
リオナが王子に婚約破棄された当初、すぐにでもグラシアノと婚約をし直す、というよりもグラシアノサイドはすぐにでも結婚しようとしたのだが、やはりどうしても王家との調整が発生することと、マリアネラを筆頭としたハルフテル家サイドが「リオナのウェディングドレスを作り直す」と言って譲らなかったために、婚約のみにとどめて三カ月ほどお互い離れ離れになった。
最終的にはさらに三カ月ほど伸び、約半年間お互いにまともに会えない状態が続いたのである。あの時は友人たちに随分と心配をかけてしまった。
当時のことを思い出すとリオナは微笑ましさとともに転がりまわりたい羞恥に襲われる。バセット王子と結婚すれば二度とグラシアノと会うことはないと、それを仕方がないと、ほんの数か月間の逢瀬ともいえないわずかな時間を支えに生きていこうと決意していたのだ。
それが、彼と一緒になれるとなった途端。たった数カ月の会えない時間が、朝も夜もないほどに辛く寂しいなどと、本当に勝手な話である。
そして同じころグラシアノの方は、ダンジョン内で大暴れしていたらしい。さらに三カ月延びたときには、ダンジョンから魔物が消えるのではないかと危惧したというのが、リオナとグラシアノの結婚にまつわるエピソードの中の義父の鉄板話である。
ともかく、自分のものにできると思った時にお預けになったのが悪かったのか。
無事に王都で結婚式を挙げ、リオナがドゥエニャスに着た途端、グラシアノは彼女を自身の屋敷に軟禁し、誰の目にも見せないようにしてしまったのである。ただメディニ王国の場合、貴族の女性は茶会や夫同伴のパーティに出席する以外は屋敷の奥向きの仕事をする程度で人前に出てくることはほとんどない。遠くに嫁いだ場合は実家に帰ることもないだろう。
当然淑女としての教育を受けていたリオナも当初はそのことに違和感を持たなかったのだが、ドゥエニャスではそんなことはなかった。何しろこの地では女も剣を持って戦うことが珍しくない場所である。
そのため、グラシアノが彼の両親をはじめいろいろなところから責められ、しぶしぶリオナをお披露目したのが、彼女がドゥエニャスに嫁いでひと月以上たってからの話だ。そのひと月の間にリオナがまともに朝起きられた日は十日ない。
若い嫁さんもらったからってがっつきすぎだ。いくら目に入れてもいたくないからって軟禁はしちゃいけない。と、こちらはグラシアノの部下の鉄板エピソードである。
大暴れした半年間の後始末と、その後の結婚式などで後回しにされていた仕事などでもろにしわ寄せが来たのが部下なのでこの程度の軽口は甘んじて受けるべきなのだろう。
その後はさすがにグラシアノもリオナを軟禁することはなかったのだが、心が狭いのは変わらず、絶対にリオナを一人で男に会わせることはしない。必ずグラシアノが同席するか、どうやっても予定が空かない場合は腹心の部下をつける徹底ぶりだ。
一カ月の軟禁明け当初はさらにひどく、どこへ行くにもリオナを腕に抱きあげ、全方向に威嚇しまくっていた。どうやらグラシアノが今までそんなことをしたことはないらしい。
それ迄にグラシアノとそれなり以上の関係をもっていて、彼が結婚したと聞いてからかい半分、やっかみ半分。新婚家庭をひっかきまわしてやろうと企んでいた女性陣がドン引きし、まさに「百年の恋も冷めたわぁ」とうつろな目で呟いて首を振っていたので確かだろう。
こちらはドゥエニャスの傭兵団の鉄板エピソードだ。しかもこれ以降、傭兵団の間では嫁を迎えた時は腕に抱きあげてお披露目するというのが夫婦円満のゲン担ぎになったというから、リオナとしては恥ずかしいやらなんやらである。なお、奥さんの方が逞しい場合は、男女逆でも問題ないらしい。
リオナはいつかグラシアノを持ち上げてやろうと思っているのだが、今のところ実現しそうにない。
つまり、まぁ、ドゥエニャスではどこへ行ってもグラシアノがリオナに関係することでやらかしたことはリオナの耳に入った。なおグラシアノもハルフテルではリオナのやらかしたエピソードが耳に入る状態である。
そのため、恋愛には少々消極的、というよりも自己評価が低いリオナもさすがに自分がグラシアノに愛されていることは理解できたので悪いことばかりではない。ついでに世間一般に比べると少し、いや、だいぶ……かなりグラシアノの愛が重いことも理解している。
そんな、自分に対して大きくて重くて、ついでに密度もありそうな愛を持っている夫にこの話をして怒らないわけがないとリオナは確信してみた。
じたばたと逃げようとするリオナの身体を、グラシアノの腕ががっしりと抑え込む。いつもは安心するグラシアノの太い腕が、こういう時は何よりも鉄壁の檻となってしまう。
「リオナ」
グラシアノが身をかがめて、リオナの耳元で名を囁く。メモを持っていた方の腕もリオナの前に回っていた。
「リオナ」
「んっ」
グラシアノがもう一度リオナの名前を呼び、耳たぶに軽く歯を立てる。それだけで、グラシアノの腕の中でリオナは身体はビクビクと小さく跳ね、リオナは両手で口元を抑えた。
だがそれでも口を割らないリオナに、そんなに話せないことなのかと、グラシアノの悋気が蛇のように首をもたげた時である。
「いや、お姉さまを守るためにって剣を持ったのがその頃だったな、というだけだよ」
リオナの呟きが聞こえたのだろう。グラシアノの気配が物騒なものが消えたが、代わりに拗ねたようなものに変わった。さすがにグラシアノもリオナの姉や、友人であるニアやベニータ、カルメラ姫と言った面々にまでは威嚇していない。いや、威嚇してもそれでひるんでくれるような相手ではないというのもある。
ただ、グラシアノとリオナの姉であり、現在はハルフテル公国初代女王であるマリアネラは微妙に相性が悪いらしい。これはリオナが知らない、彼らが初めて会った時からのことらしい。
リオナとしては愛している夫と、敬愛する姉に仲良くしてほしいのだが、世の中にはどうにもならないことはある。何より彼女を守ると誓って剣を取ったことが、グラシアノと出会い、彼の目に留まることができたきっかけなのだ。さすがにそこに文句をつけられたらリオナも困ってしまう。
ただ同時に、その頃に同じように守るべき対象だと思っていた同い年の少年のことを思い出して、少しだけ懐かしく思っただけだ。丸太のような腕がぎゅうぎゅうとリオナの身体を拘束する。相変わらず察しがいい男だ。
「まぁ、私はそんな感じだ。レオンもなにか目標とかがあればいいんだけどねぇ」
英傑レオンの名前を受け継ぐということに拘らず。と、リオナは思う。




