第十七話 見えていなかったもの
はぁと、宰相が深いため息をつく。
「そもそも、先の王弟殿下が王位を放棄したのもそれが理由の一つでございます。当時から、この国は内部で争っている余裕などなかった」
先王の王弟は継承争いで敗れたのではなく、争いが起きる前に自ら継承権を放棄し、王都を出たのだという。それは私も知っていた。だがそれは、あくまでも建前でしかないと思っていたのだ。
だが宰相は言う。王位継承争いこそが、貴族たちの詭弁だと。
「だが結果として殿下はダンジョンを擁するドゥエニャス辺境伯に婿入りいたしました」
「そこに、もともと豊かな森を擁するハルフテル公爵家が合流すれば、この国など容易く飲み込むだろう。そうならないための、お前とリオナ嬢の婚約だったんだ」
宰相の言葉に、不機嫌さを隠しもせずに父が告げる。いわばリオナは、ハルフテル公爵家に対する人質でもあったのだ。そのことに私は愕然とする。
「それをリオナ嬢は……」
父王の言葉に確認するようにサフウェンが問う。私はもう、何を言っていいかわからなかった。サフウェンに父は肯定を返す。
「もちろん知っていた。むしろなぜお前が知らなかったんだ?」
「あ、う」
婚約者であるはずなのに、彼女がどこの科に所属しているのかも知らず、彼女が学園で何をしているかも知らず、ただひたすらに、自由にふるまっている彼女を妬み、怨み。
自分を見ない彼女に、ならば自分も彼女のことなど知らないと、そうして見ないふりを続けてきた結果が、今ここに私の前に引きずり出されていた。
「リオナは、あの男とどこで知り合ったんだ?」
それでも何かないのかと、私はサフウェンに問う。彼女が胸に飛び込んだ男。少なくとも二人は既知の間柄のようだった。
「訓練場じゃないか? 彼女はよく顔を出していたし、彼は第二騎士団にいたわけだし」
「王子の婚約者でありながら、逢瀬を重ねていたと? 剣の訓練を隠れ蓑にして」
「殿下……」
ジラリが咎めるように首を振る。これ以上醜態をさらすな。と、彼の表情は言っていた。
だが大人たちは私の言葉に一考する価値はあったようだ。火のない所に煙は立たぬと言うが、それを無理やりでも火をつけるのが宮廷政治だ。
ほんの少しでも、彼女の幸せに傷がつけられればいい。自分を捨てたあの女が簡単に幸せになるなどと許せなかった。――婚約を破棄したのは、私であるはずなのに、この屈辱感は何なのか。
彼女が騎士団に顔を出していたのは有名な話だ。訓練の最中の些細な接触であろうとも、接触であるのならいくらでもでっち上げられる。
だが、それをサフウェンは否定した。
「それはないな。そもそも金狼姫の剣の腕は騎士団でもかなりの上位だそうだ。正直、彼女に土をつけられる人間はそう多くはない」
「まさか、女だぞ?」
「それが嘘でも何でもないんだなぁ。なぁ、親父」
サフウェンの言葉に、第一騎士団長である父親は顔をしかめた後、ため息をついて肯定を返した。
「あぁ、彼女が女性でなければ……いや、殿下の婚約者でなければすぐさま一個隊を任せたいほどだったな。おそらくは本気でやれば私も危ういでしょうな。彼女に土をつけられたのはグラシアノくらいでしょう」
「それと、辺境伯子息……グラシアノはリオナ嬢に指一本触れてないってさ。騎士団では有名な話らしい。王子の婚約者相手に妙な噂が立ったら面倒だってな。最初はどういう意味か分からなかったが、グラシアノがドゥエニャス辺境伯の息子ってのがわかって、大体みんな理解したらしい」
それこそ、訓練で力尽きた彼女を助け起こすことすらしない徹底ぶりだったそうだ。と、サフウェンは最後に付け加えた。
そう言えば、私が訓練場で崩れ落ちる彼女を見た時、対峙していたのはあの男だ。あの時あの男はリオナに手を貸すことなく立ち去っている。
それは、女のくせに男の領分を荒らす彼女に対するいら立ち故ではなかったのか?
逆に言えば、不自然なまでに接触を避けていたことこそが、彼女と男との間に、表ざたにできない交流があったのだと示しているのだろうが、それでも彼女たちの間には「何もなかった」のだ。
「むしろ、ミレイユ嬢と殿下の人目憚らぬ逢瀬の方が目立っておりましたよ」
ジラリがそう言ってため息をつく。おもわず私の頬が赤くなる。あまりにもリオナが無反応なものだから、最後は見せつけるようにミレイユとの逢瀬を楽しんでいたのを思い出したのだ。
当たり前だが、王宮にはリオナ以外にもいるし、いくら城で孤立していたとはいえ、王子妃となるリオナが一人になる時間はほとんどない。
もちろんミレイユのことは父たちの耳にも入っていたのだが、結婚前のほんの少しの気の迷いでしかないと思っていたようだ。だからこそ見逃されてきたのだが、それがリオナと婚約を破棄し、ミレイユと婚約するとなると話は変わってくる。
あくまでも訓練の範囲であると言い張れるリオナと、婚約者がいるにもかかわらず別の女と逢い引きしていた私とでは、どちらに非があるかなど問うまでもない。
サフウェンとジラリの言葉に、だめだ。と、大人たちは首を振る。それほど有名な話ならば、彼女の醜聞をでっちあげても、むしろ王家の方が恥をかくだけだと判断されたようだ。
「多分、金狼姫ならドゥエニャスに行っても平気そうだよな」
ぽつりと、サフウェンが呟く。この場にふさわしくないような、どこか気の抜けた声だった。
そんな息子に片眉を跳ね上げた騎士団長だが、続いてため息を吐くと共に息子に肯定を返す。
「騎士としての視点で立てば、これ以上ない程に適正地だろう。……彼女には殿下の護衛としても期待していただけに……すぐにでも近衛兵の選定をし直さねば」
「むしろ辞退者が増えそうだぜ、親父。金狼姫の傍で働けるってことで人気だったが、その彼女がいなくなるんだ」
「はぁ……」
頭が痛い。と、手のひらで頭を覆う騎士団長の背中をサフウェンが労わる様に叩く。
「ジラリ、お前は殿下が誤解していると気が付かなかったのか?」
宰相が息子であるジラリに尋ねる。そうだ、なぜ言ってくれなかったのだ。そんな私の咎める視線に、ジラリは首を振って頭を下げた。
「父上、申し訳ありません。殿下はリオナ嬢との婚姻を受け入れているご様子でしたので、心情的なものはともかく、ご自身の立場を理解しているものと」
確かに立場は理解していた。だがそれは私のことだけだった。彼女がいったいどういう立場にいたのか、なぜ教えてくれなかったのだ。
「今回の婚約破棄については」
宰相の問いに、ジラリは首を振る。
今回のことはジラリにもサフウェンにも教えていなかった。自分だけでも何かができるのだと示したかったというのと、最近は二人がリオナに好意的だったのが気に入らなかったからだ。
彼女との婚約を破棄し、ミレイユと婚約すると言えば咎められると思った。
「わたくしの不徳とするところ。全く知りませんでした。せめて事前にご相談いただければ、と、今は悔いでいっぱいでございます」
そう言って頭を下げるジラリに、私は全身の力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
私はこの時に、ジラリの信頼を失ったのだ。なぜかそのことははっきりと理解した。