第十話 人形姫
その日、バセット王子は側近であるサフウェンとジラリとともに王宮の廊下を歩いていた。それぞれの手には書類がある。
「それで、近衛兵の選抜なんだが……」
書類をめくりながらサフウェンが言う。どうやらそれが近衛兵への希望者のリストのようだ。なかなかに人数がいるように見えた。
王族の護衛を務めるものは騎士団の中でも精鋭から選ばれる。剣の腕もさることながら、公式な場でも王族の傍に控えることから見目がいいことも条件の一つだった。
成人するまでは正式な護衛はつかなかったが、卒業以降はバセット王子にも正式に近衛兵がつくことになり、その選定が側近であるサフウェンの仕事の一つだった。
幸いなことに、次期王太子であるバセット王子の近衛兵になりたいものは多く、選ぶ方が大変だ。と、サフウェンは笑う。実際、派閥や貴族の間のパワーバランス、それまでの勤務態度迄を考慮に入れる必要があるので、冗談めかしてはいるものの、なかなかに大変な作業なのは確かだろう。
それを理解しているから、バセット王子は微笑む。
「ありがたいことだな」
「これも殿下の人望のたまものというものです」
ジラリの言葉にバセット王子は満足げにうなずいた。
そのまま三人はいくつかの懸案を話しながら王宮内を歩く。その時、バセット王子はふと前方にリオナの姿を見つける。彼女は一人で大きな窓から外を眺めているようだ。
立太子式典と結婚式が近いこともあり、王宮で暮らすようになったためか、彼女の姿が王子の視界に入ることも増えていた。だがどんな時に見る彼女も美しいがそれだけの、どこにでもいる貴族令嬢と変わらない様子でたたずんでいる。
学園でもそうだったように、彼女は王子を見れば目を伏せて臣下の礼を取るが、それだけだ。婚約者として親しい態度をとるわけでもない彼女が、自分との婚約に不満を持っていないにしろ、歓迎していない事だけは確かだろう。
自分だってそうなのに、理不尽な怒りと不満を彼女に対して感じてしまう。そしてそんなことを思う自分が嫌で、王子はさらに彼女の存在を無視してしまう。すでに王宮内では王子とリオナの仲が微妙な状態であることは知れ渡っているのだろう。
今まで王族としての教育を受けていなかった彼女は、城の者たちに遠巻きにされており、孤立しているようだ。そのことについても王子は自業自得だと、いい気味だと思うだけで、わざわざ自分からフォローしてやろうとも思わなかった。
不意に、窓の外の何かに気が付いたようで、彼女の表情がほんの少しだけ緩む。だがそれは一瞬のことで、彼女を呼びに来たらしい令嬢の声に彼女はいつもの無表情に戻っていた。
なんとなく三人は顔を見合わせると急いで彼女がいた窓へと近づく。だがそこに気になるものは何もなかった。あえて言うならば、騎士の宿舎へと向かう道があるだけだ。
「訓練場が恋しいのかねぇ」
側近の一人、騎士団長の息子である赤い髪のサフウェンが呟いた。そんな彼に、宰相の息子である黒髪のジラリが少しだけ肩をすくめる。
「それはあなたのことでしょう?」
「そう言うなジラリ。ここのところまともに剣も握っていないんだ。体が鈍ってしまう」
冗談のように言うサフウェンだが、その瞳には切実さがにじみ出ていた。王子の正式な立太子も近いということもあって、側近たちもにわかに忙しさを増していた。
そのため、サフウェンも父親のいる騎士団に顔を出す暇がないらしい。
「そう言えば、あの方も最近は行っていないそうですね」
あえて個人名は出さないジフリであったが、それが誰かわからないサフウェンではない。
「そりゃ、結婚式まで三か月だぜ? 体に傷でも出来たら大変だろう」
すでに彼女のドレスなどは仮縫いまで終わっている状態だ。肌を露出するようなものではないが、王太子妃ともなる花嫁に傷があるというのはよろしくないだろう。と、サフウェンが言う。
そんな彼に、バセットは唇を釣り上げた。
「ふん、貴殿の御父上も場違いな女が紛れ込まなくなって安心していることだろう」
「あー……いや、うん、そうだな」
そう言うバセットの表情は、どこか暗く澱んでいる。それに答えるサフウェンの口調はどこか煮え切らなかった。
そんな彼に助け船を出すようにジラリが言う。
「最近ではめっきりおとなしくなって、金狼姫などと呼ばれていたのが嘘のようです」
「あぁ、マナー講師陣が唖然としてたわ。どこに出しても恥ずかしくねぇ淑女だってよ」
サフウェンはそう言って肩をすくめ、ジラリも頷いた。ただ一人、王子だけが、そんな側近たちの言葉に一瞬だけ不満そうな顔を見せる。
今までまともな礼儀作法を学んでこなかったはずの彼女は、さぞかし苦労しているに違いないと思っていたので、正反対のことを聞いてもにわかに信じられなかったのだ。
そんな王子をよそに、サフウェンはリオナのことを素直に賞賛した。
自身の婚約者や妹から彼女のタイトすぎるスケジュールを聞き、そこまでして剣を振るうことを自身に課している彼女の理由を知り、それまで女のくせに男の真似事をしてと、苦々しく思っていた自分の見識の狭さを知り、顔から火が出るほどの恥ずかしさを知った。
彼女は、自分のなすべきことを知り、なすべきことを成し、そのうえで精いっぱいの自由を楽しんでいただけなのだ。そしてその自由さえも、王国のために使っている。それを表面上だけしか見ていなかった己をサフウェンは恥じたのだ。
そもそも彼女がそこまで自分を追い込んだのは、自身の不甲斐なさにあるとなれば、まともに彼女と顔を合わせることすら憚れる。まさにどの面下げて、と言うところだ。
妹であるサラの説得に失敗し、それどころか逆にやり込められてしまったサフウェンが報告と確認を兼ねて父を訪れたところ、「今更か、想像以上だ。このバカ息子」と言う叱責よりもキツイ言葉を投げつけられた。その時にはっきりと言われたのは、サフウェンには侯爵としてはともかく、騎士としては期待しておらず、騎士団長を継ぐとなると次男か三男を考えているということだった。もちろん騎士団長の地位は世襲ではないので、全く違うものが継ぐことになるだろう。だが、父が後継として育てているのはサフウェンではないのだ。
リオナのことを知る前のサフウェンならばそのことに強く反発しただろうが、自分の欠点を知った彼は父の言葉に素直にうなずいた。剣の腕ならば弟たちに負ける気はしないが、それだけでどうにかなるほど、騎士団長の地位は単純ではない。
「リオナ嬢の剣の腕は本物だ。さすが、英傑レオンの孫娘だ。彼女以外に殿下の婚約者に値する女性がいないことが、本当に残念で仕方がない」
サフウェンの父は、もう一度「残念だ」と言って首を振った。サフウェンは父の告げた名前に衝撃を受ける。
英傑レオン。西方にあるダンジョンを踏破したとも言われている伝説の人物。この国で剣を持つものならば誰もが知っている名前だ。サフウェンだって寝物語に何度も乳母に物語を強請った。
まさかその人物が、先代ハルフテル公爵であったとは、この時まで彼は知らなかったのである。そしてそのことも父親に驚かれ、サフウェンはさらなる失望を買ったのだ。
そんな、サフウェンの苦い内情を知っているのかどうか知らないが、ジラリが少しだけ寂し気な表情を浮かべた。
「えぇ、ですが、僕はどちらかと言えば前の彼女の方が好ましかったです」
「ジラリ」
「わかっていますよ。ですが、生命力に溢れていて、キラキラとしてとてもまぶしかった。
……今の彼女はまるで人形です。美しいけれど、美しいだけの人形」
その言葉で、サフウェンはジラリもまた彼がリオナ嬢の内情を理解していることを知った。思えば、彼は自分と王子が彼女に対して苦言を述べるとそれとなく話題をそらしていたのだ。
だがそんな二人をよそに、バセットは自嘲したように呟く。
「まるで私にお似合いだな」
その声は、まるで沼の底から旅人を引きずり込むかのようなどこか粘着質な薄暗さがあった。
おや、王子の様子が…?