彼と、彼女
やがて涙を止めたアルバートが、力なく微笑んだ。
その顔が、まるで憑物が落ちたように、とてもすっきりとしていて。
「ごめんね、ユーイン。男の涙なんて見苦しかったよね」
ユーインはこのとき初めて、アルバートに自分の名前を呼ばれた気がした。
今までにも呼ばれたことはあったけれど――もっと明確に、何の混じり気もなく、初めて。
「いえ……そんなことはないです」
「そう? それならいいんだけど」
アルバートが淡く微笑む。ユーインは眩しいものでも見るように目を細めた。
――ああ、よかった。
ユーインの中の何かが、心底安堵したように呟く。
呟いて、それが……《《彼女が》》、満足そうに溶け始めた。
まるで自分と同化するように、じわりと混ざり、存在が曖昧になっていく。
そんな感覚に、ユーインは物寂しさを覚えた。
無意識に胸をぎゅっと押さえると、それに反応したように彼女が悲しげな笑みを浮かべる。
――ありがとうございました、ユーイン。これでやっと……
彼女が消えてしまう。だからだろうか。心が勝手に焦燥を覚える。
そんな悲しい顔で消えないでくれと、思わず引き止めようとした直前。
「でもね、ユーイン。やっぱりそれでも、《《彼》》にとってあれは、恋だったと思うんだ」
アルバートが、誰かを慈しむようにまぶたを伏せた。
「だってそれもまた、恋の一面ではあるんでしょ?」
そのとき、今にも消えてしまいそうだった彼女が。
悲しげに眉尻を下げていた彼女が。
とても……とても嬉しそうに、泣きながら笑った。
「だからエリクは、ちゃんと君が好きだったよ」
今度こそ、ユーインの瞳から涙が零れ落ちる。
アルバートがぎょっとしているけれど、ユーイン自身もどうして涙が出るのかよくわからなかった。
彼女はどこにもいない。
最後、心残りが全て消えたとでも言うように、満足そうにユーインの中へ溶けてしまった。
(そうだ……彼女は消えたんじゃない。ここに、私の中に、ちゃんといる)
知らない女性のはずなのに、どこか懐かしい人。
他人のはずなのに、他人に思えないくらい、不思議と親近感の湧く人。
形は失くなってしまったけれど、もう一人の自分みたいな存在の彼女は、ユーインと一緒になっただけなのだ。
完全に、消えたわけじゃない。
「……私のほうこそ、突然失礼いたしました」
涙を拭うが、ユーインの目は赤く腫れていた。
そしてアルバートの瞳もまた、はっきりと充血している。
互いにそれに気づくと、二人はどちらからともなく、小さく笑い合ったのだった。
冷静になったユーインは、当初の目的をアルバートに伝えた。
あれから毎日アズラクがアイリーンを訪ねて来ること。
婚約は間近だということ。
それどころか、アズラクが結婚を早めてほしいとアイリーンに迫ったこと。
さらに、もう一つ。
「殿下の生誕パーティーで、ファルシュの王子は殿下に手を出されました」
「……は?」
これにはアルバートも目が点になる。
手を出した? それはつまり?
「私が見たわけではありません。殿下に影のようについているハロルドからの情報です。ファルシュの王子が邪魔ではっきりと確認できてはいませんが、王子が、殿下に、キスをなさったと」
アルバートは、ユーインが何を言ったのか、最初はうまく飲み込めなかった。
けれど十回くらい飲み込んで、ようやくその意味に辿り着く。
「アイ、リーンは」
意図せず声が掠れた。
まただ。また、腹の奥底から、黒くて醜いものが蠢き出す。
「そのとき、アイリーンは、どんな……」
今ならこの感情が、正しく嫉妬だと理解できる。
「それは、ご自身でお確かめになってください。私が言えるのは――助けるのは、ここまでです」
まるで、あとは自分の力でどうにかしろと言うように。ユーインが口を閉ざした。
それもそうだろう。
自分のことなのに、何から何まで助けてもらうなんて情けないにもほどがある。
「アイリーンは、部屋?」
「はい」
「アズラク殿下も?」
「はい」
「……そう」
アルバートの額に青筋が浮かんだ。
今まで彼女の許に通っていたのは、自分だった。
そしてこれから先も彼女の許に通うのは、自分だけのはずだったのに。
「少しフライングになるけど仕方ない。このままアイリーンを奪われるよりは、マシだ」
アルバートはすぐに部屋を出ると、アイリーンの私室へと足を急がせる。
こういうとき、無駄に広い城が恨めしくて仕方ない。
政務棟と王族の居住区が離れていることも、アルバートの心を大いに焦らせた。
今この間にも他の男が彼女の部屋にいると思うと、次第に大股になっていく。
そうして久しぶりにアイリーンの部屋に足を踏み入れたとき、アルバートの視界に、抱き合う彼女とアズラクがいた。




