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近づく吐息


 休憩用に解放されている部屋で、アイリーンはソファに深く腰掛けた。

 何をやっているのだろうと、自分で自分が嫌になる。


 アルバートが誰と何をしていようと、自分が怒る資格などないことくらい、百も承知だ。

 こうなることが怖くて、他国に逃げようとしていたのに。

 自分の勝手で手を振り払ってしまったアルバートに、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 それに、あの女性にも。


「謝らなきゃ……」

「アイリーン?」


 落ち込んでいたアイリーンが急に立ち上がったからだろう、アズラクが訝しげに声をかけてきた。


「私、謝らないと。アルバートにもだけど、特に、一緒にいた女性に」

「謝るって、なぜ?」

「だって、私が大きな声を出したせいで、アルバートが驚いて彼女を突き飛ばしてしまったのよ。それに、恋人でもない女が勝手に嫉妬して、(わめ)き散らして……彼女からすればいい迷惑だわ」


 そう言うと、何が面白かったのか、アズラクが小さく喉を鳴らした。


「謝罪の必要はない。おまえは悪くないからな。あえて言うなら、あの場で一番悪かったのは俺だろう」

「?」


 むしろ一番悪くないというか、関係ないのがアズラクのはずだが。

 アイリーンはそう思っているので、彼の言葉になんと返せばいいのか逡巡した。


「ま、それは後でまとめて謝るとして。アイリーン、今日はおまえに頼みがあったんだ」

「頼み?」

「弱っているおまえにつけ込むようで悪いが、俺との結婚を早めてほしい」

「結婚を早める? でも私たち、まだ正式に婚約もしてないのに?」

「だとしても、おまえの心残りはこれで消えたろ?」

「それは……」

「いい加減、エリクは諦めろ」


 刃に見えた。その、赤い瞳が。

 そこに揺らぐ自分が映っていて、アイリーンはまぶたを伏せる。


 ――〝いい加減、エリクは諦めろ〟


 それは、もう何度も、自分で自分に言い聞かせてきたことだった。

 それでも諦めきれなくて。苦しんで。悩んで。泥沼から抜け出せずにいる。


 いや、正しくは、アイリーンはアルバート(・・・・・)を諦められずにいる。

 だって。


「……リジー(・・・)はね、本当のことを言うと、とっくにエリクを諦めていたのよ」


 脈絡のないアイリーンの話に、しかしアズラクは黙って耳を傾けてくれた。


「リジーはね、自分が死ぬとき、エリクを諦めたの。もう二度と恋なんかしないって、リジーは、諦められたのよ」


 けれど、アイリーンは。

 今ここで生きている、アイリーン・ミラーという女は。


「でも私は、どうしても、アルバートを諦められないの。エリクじゃないわ。私が好きなのは、アルバートよ。確かに過去に引きずられた想いもあるわ。でもね、それだけじゃないの。アルバートはエリクより寂しがりやだし、しょっちゅう王女を訪ねてくるような困り者だけど、でも、でもね。エリクより人の痛みを知っていて、だから優しくて、今度こそ大切な人たちを失わないようにって、見張ってないと勝手に倒れてしまうくらい、頑張り屋なの」


 だから、好きになった。愛してしまった。

 死神を待ち望みながら、その死神を拒絶していた。


「ねぇ、どうしよう、アズラク」


 ぽた、と一滴の雫が瞳から落ちる。

 こんな馬鹿な自分を笑ってやりたいのに、うまく笑えなくて、頬が引きつった。


「気づきたくなかったのに、気づいちゃったのよ。エリクなら、逃げれば諦められると思ってたのに。アルバートはだめ。逃げても無駄だって、気づいちゃったの」


 きっかけを与えたのは、オーガストの言葉だ。

 とどめを刺したのは、さっきの光景だ。


「ならば、気づいたおまえは、どうするんだ?」


 アズラクが、そっと頬に手を当てる。

 とめどなく流れていく涙をすくうように、その手つきはとても優しかった。


「俺は別に、おまえがアルバートを想っていても構わない。もとよりエリクを想うリジーを娶るつもりだったんだ。言っただろう? おまえの心を奪うと。奪う自信があったから、そう言ったんだ。それは今も変わらない」


 優しい手が、そのまま撫でていき、顎にかかる。くいっと上を向けさせられた。

 力強く燃える瞳に、真っ直ぐと射抜かれる。


「なあ、知っていたか、リジー(・・・)。いや、おまえは知る由もなかっただろう。ルーク(・・・)はな、リジーが好きだったよ。一心にエリクだけを追う、その瞳に、横顔に、密かに惹かれていたんだ」


 初めて聞く想いに、アイリーンは瞠目した。


「ルークは最後まで()わなかった。だから俺も、告うつもりなんてなかった。だってそうだろう? それはルークの想いであって、アズラク(おれ)が口にしていい想いじゃない」


 でも、と。


「おまえが、アイリーンが、アルバート(・・・・・)を好きだと言ったから。前世(かこ)の想いは、全て清算すべきだと思った」


 そうして、腰を引き寄せられて。


「だからこれは、ルークじゃない、今の俺がしたいと思ったことだ」

「え」


 アズラクが顔を傾けながら近づいてくる。

 視界は妖しい魅力をまとう彼でいっぱいだ。


 それにピントが合わなくなったとき、彼と、吐息が重なった。

 




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