断ち切る者
「……アルバート、今日は何かしら?」
アイリーンから冷めた声が出る。
声だけでなく、ため息まで出てしまった。
あのパーティーの夜以降、どうしてか、アルバートが毎日登城するようになったのだ。
いや、もともと彼は王宮の文官として働いている。登城すること自体は問題ではない。
問題なのは、仕事の休憩時間、もしくは仕事終わりに、必ずアイリーンを訪ねてくることだった。
「あー、えっと。き、今日はあれかな。外が寒いから、もう少し王宮に残ってようかなって」
外は冬に向けて、すでに木々が衣を替えている。緑から赤、黄色、橙色。季節によって変わるシーズンガーデンには、リンドウやポットマムなどの秋の花が咲いていた。
確かに、あながち嘘でもない。
外はもう肌寒い。
けれど。
「それ、昨日も一昨日も言ってなかった?」
「昨日も一昨日も寒かったからね」
「昨日に比べれば、今日はまだ暖かいわよ?」
「そうかな。俺には同じくらい寒く感じるよ」
「……」
「……」
じと、とアルバートを睨む。彼はそっと視線を外した。
アイリーンは息を吐くと、もう一度訊ねた。
「アルバート、本当にどうしたの? 何かあったんじゃないの? だからこうして毎日会いに来るのよね?」
正直、彼の訪問はアイリーンにとってはたまったものじゃない。せっかく彼と離れる準備をしているのに。
今は婚約に向けて、アルバートとは徐々に距離を置いていくつもりだった。
が、恋する乙女心とは実に複雑で。
毎日アルバートに会えることを、喜んでいる自分もいる。
恋とはなんて厄介で、面倒な感情なのだろう。
「その、これは勘なんだけど。何かがあったというよりは、これから何かがあるような気がして。予感、みたいなものかな……?」
「予感? どんな?」
「……アイリーンが、いなくなるような」
ドキッ。心臓が揺れる。
まさか、計画を見抜かれてしまったのか。
気づかれないよう唾を呑み込み、ゆっくりと口を開いた。
「そんな、それじゃあまるで、私が死ぬみたいだわ」
冗談めかして言ってみたら。
「駄目だ!!」
突然、アルバートが鋭い怒声で空気を裂いた。
そこにふざけた感じはなく、真剣な眼差しが突き刺さる。
「駄目だ。死ぬなんて許さない。そんなこと、冗談でも聞きたくない。前世でだって君は先に逝った。俺を置いて! なのに、また俺を置いて逝くつもりなのっ?」
胸に巣食う痛みを、吐き出すような声だった。
――トラウマを突いてしまった。
そう思った。
前世を覚えている彼にとって、〝死〟とは未知のものではない。
しかも、よりによってアイリーンが――リジーが彼の傷を抉ってしまった。
前世、彼の目の前で殺された、リジーが。
「違うわ。ごめんなさいアルバート。今のは私が悪かったわ。冗談でも言うことじゃなかったわね。大丈夫よ、今は戦争なんて起きる気配もないし、私は死なないから」
「当たり前だ。あんな思いはもう二度とごめんだ。今度こそ、君は俺が守る。大切な人はみんな、俺が。そう決めてる」
「……ええ、ありがとう」
そこで「命に代えても」と言わないところがアルバートらしい。
遺される者の痛みを知っているからこそ、彼は安易にそんな言葉を使わない。彼のそういうところが、アイリーンは好きだった。
誰よりも優しくて、強くて、笑うと太陽みたいに温かい彼が。
そして本当は、誰よりも孤独を嫌う彼が。
彼がいつも人に明るく振る舞うのは、孤独を寄せ付けないためだ。アイリーンはそれを知っている。
だからいつも一緒にいた。
彼が孤独を感じないように。
いや、もしかするとアイリーン自身も、彼と一緒にいることで孤独感を癒していたのかもしれない。
でももう、その拗れた関係も、終わりにしなければいけないのだ。
「とにかく、そんな心配は無用ってことよ。毎日来なくても大丈夫だから」
たとえアイリーンが他国に嫁いだとしても、この孤独を嫌う青年から、アイリーンは大切な人を奪うつもりはなかった。
アイリーン自身はそばにいられないが、彼の一番大切なユーインを残していくつもりだからだ。
だから、小さな嘘をついた。
(これは、話を早急に進めなくてはね)
でないと、勘のいいアルバートのことだ。すぐにバレてしまうだろう。
「そうだね……俺も、毎日来るのはおかしいって、自分でもわかってるんだ。わかってるんだけど……」
不安で、と苦笑する彼に、アイリーンの心がぎゅっと締めつけられる。
しかし、ここで彼に絆されていては、今までの繰り返しだ。
これまで幾度となく彼の寂しそうな表情に負けてきたが、今回こそはそのループから脱しなくてはならないのだ。
負けるな、と自分に言い聞かせる。
「それよりもあなた、また寝てないでしょ?」
話題を変えるように言う。
ただこれは、単なるその場の嘘でもなかった。
ここ最近、毎日アイリーンを訪ねてくるアルバートだが、来るたびに顔の色が白くなっていることには気づいていた。
なのに周りはおろか、本人さえもそれに気づく気配がなくて、アイリーンはどうしたものかと悩んでいたのだ。
「ほら、毛布を持ってくるから、いつものように少し仮眠したほうがいいわ。どうしてそれで仕事ができるのか不思議なくらいよ」
「え〜、そんなに?」
酷いなぁと言いながらも、アルバートは嬉しそうに口元を緩めている。
いつのまにか彼専用になってしまった毛布を手渡しながら、アイリーンは訝しげに首を傾げた。
「なに? その笑み。なんだか気持ち悪いわ」
「えっ。それは普通に酷い」
今度はショックを受けたような真顔になる。
「だってアルバートがあまりにも締まりのない顔をするから」
「そんな顔してた?」
「してたわ。何か嬉しいことでも思い出してたの?」
「いや、思い出してたんじゃなくて……まあ、うん、秘密かな」
彼が静かにまぶたを伏せる。
きっとエミリーとの思い出でも脳裏に浮かべていたのだろう。これは、予想に近い確信だ。
こんな小さなことにも反応する自分の心が、アイリーンはいい加減嫌になってきた。
「はいはい。秘密なら無理には訊かないけれど、今はもう寝て。何も考えちゃ駄目よ。考えると眠れなくなるんだから」
「それは残念。せっかくアイリーンの面白恥ずかしエピソードでも思い出しながら寝ようと思ったのに」
なんだか嫌な予感がして、恐る恐る訊いてみる。
「……ちなみに、たとえば?」
「鳥の足を掴めば空を飛べると信じて崖を飛び降りようとしたり、私は魚になるとか言い出して突然海に潜り込んで溺れかけたり。ああそういえば、妖精に会いたいからって、森の中で遭難しかけたこともあったっけ」
「それは全部リジーのときでしょ!」
過去の失態を持ち出されて、思わず叫んでいた。
アルバートが屈託なく笑う。
「そう、懐かしいね。リジーはお転婆で、放っておくと何をするかわからなかったから、絶対目を離しちゃいけないと思ってたんだ」
「そこまでじゃなかったわよ。私だって、エリクを一人にしたら孤独死するんじゃないかって、目が離せなかったわ」
「えー、俺もそこまでじゃなかったと思うけど」
「ルークも同じこと言ってたから、間違いないわよ」
ルークもかい? と少しだけ裏返った声は、意外そうだった。
ルークは、エミリーの屋敷で一緒に騎士として働いていた、同僚兼友人だ。
アルバートとは対照的に寡黙な彼だが、存外彼と共にいるのは苦痛じゃなかった。口数は少なくとも、冷たい人ではなかったからだろう。
「ルークもそういうこと言うんだなぁ」
「エミリー様を前にしたエリクは、見ていて面白いとも言ってたわね」
「……それ、どういう意味だろうね? 絶対褒めてないよね?」
「哀れんでたわね」
「哀れみ!? あいつ、そんな目で俺のこと見てたの?」
「私もよ」
「リジーも!?」
そう。そういうふうに、見せていた。
ルークにさえ、リジーは自分の思いを隠していた。
「ああ駄目ね。このままだと昔話に花が咲いちゃうわ。今はそれよりも、寝てもらわないと」
すっかり楽しくて目的を忘れるところだった。
アイリーンから受け取った毛布を肩までかぶると、アルバートはソファで横になる。
王女の私室でこんなこと、アルバート以外の人間なら許されないことだろう。
いや、本当はアルバートでも許されないことである。
だから、部屋の中には一人の侍女しかいない。
アイリーンよりも六歳上のアデルは、二人のヘンテコな関係を知っている。
アイリーンが前世を思い出したとき、混乱する彼女を落ち着かせてくれたのがアデルだったからだ。
アデルは突拍子のないことを話すアイリーンを気味悪がることもなく、また否定することもなく、ただ黙々と受け入れてくれた。
王女に対してさえニコリともしない侍女だが、そんなことは気にならない。
馬鹿にされなかったことが、どれほどアイリーンの救いとなったか。
だから、アルバートと会うときは、必ず彼女が二人の名誉を守ってくれていた。
アイリーンは一人がけのソファに腰掛けると、分厚い本をそっと開く。
穏やかな時間だ。
好きな時間だった。
でもきっと、これがもう最後になるだろうけれど。
その、二週間後。
アイリーンが遠国にいる婚約者候補に向けて書いた手紙に、返事が来た。
「アデル」
「はい、姫様」
「すぐにお父様に使いを送ってちょうだい。行くわよ、ファルシュ王国に!」
ソファから立ち上がる。
扉続きになっている寝室に向かうと、さっそくアイリーンは着替えを始めた。
テーブルに残された手紙には、ただ、ひと言だけ。
〝あなたの訪問を、心よりお待ち申し上げる。
ファルシュ王国第二王子
アズラク・ドラグニア〟




