17
――時刻は午前零時を回ったところだ。
あれから休憩を挟んでは仕事を一時間ずつこなすという作業をやり続けている。
先輩から無感情に発せられる言葉を拾い、パソコンへ打ち込み形にしていく。
「――はい。ここで休憩にしましょう」
先輩が僕の肩にチョンと手で触れてそう言ってくる。
最初みたいに言葉だけでは、また打ち込んでしまうこともあるので、そうして止めることに決まったのだ。
「そろそろ良い時間ですし、お夜食を作ってきますね」
「ふふ、楽しみにしているわ」
僕は席を立ちキッチンへと向かった。
すでに下拵えは済んでいるのでパパッと完成できる。
そうして出来上がったのが――。
「――お待たせしました。《タケノコ入り卵雑炊》です」
細長く刻んだタケノコを卵雑炊に合わせて煮込んだ簡単料理である。
「「いただきます」」
二人して手を合わせ食事を摂る。
「ふ~ふ~……あむ。……んん~、これも絶品ね!」
「お口に合ったようで良かったです」
「あら、でもこのご飯て……豆腐?」
「気づかれましたか。豆腐でかさ増しをしています。この時間帯ですから、重過ぎずかつ満足感が得られると思い、豆腐が半分ほど入っています」
「これは嬉しい気遣いね。やはりこの時間に食べると太ってしまうことを恐れる女性は多いでしょうから。ん……それにしてもタケノコの食感はやはり良いわね」
「トマトと同じく結構な量があったので」
「ふふ、タケノコはトマト以上に大好物だもの。この食感が堪らないわ」
「そうだったんですね。もしかして実家にいる時も結構食べておられたのですか?」
「ええ。私の家は山の中にあってね、山ではたくさんタケノコが獲れるのよ」
「それは……美味しそうですね」
「まあ残念ながら今は季節ではないけれど」
タケノコといえば春が旬である。
僕もタケノコご飯や煮物にしてよく食べるし、珠乃も好んでいるものだ。
僕は美味しそうに食べる先輩にホッとしながら、少し前のことを考えた。
『……………………あなたの過去に何があったの?』
そう彼女は聞いてきたのだ。
どの過去を聞いているのか、僕にはすぐに検討はつかなかったが、僕にとって忘れられない過去というならあの出来事しかなかった。
聞けば多華町先輩は僕がどうしてここまで他人のために親身になれるに至った原因が知りたいのだと。
それにまだこの場所に友枝先生がいた頃、僕が口にした『間違った選択をしたくない』という言葉に、とても強い観念を感じたという。
そこまで必死になるのは、過去に痛烈な思い出があるからだと先輩は推測したようだ。
僕は一瞬、すべてを話すのはあまりにも家庭内のことなので躊躇したが、そういえば僕もまたこうして先輩のプライベートを知ってしまったという負い目に似た何かがあった。
だからそのお返しではないが、話すことが平等ではないかと思い、僕は兄――どーくんと父が亡くなった経緯を話したのである。
僕が話し終えるまで黙って耳を傾けていた先輩。
そして話が終わると、ただ一言――『怖いのね、あなたも』とよく分からないことを言ったあと、『話してくれてありがとう』と追加してトイレへ立った。
そうして帰ってきた時は、『そろそろ再開しましょう』と言って、そこから過去の話には一切触れていない。
僕の話を聞いた彼女は、どこか申し訳なさそうな雰囲気だったが、今はもういつも通り、僕が知っている先輩がそこにいる。
何故先輩がそんなことを聞いてきたのか気にはなったが、それ以上僕も問いかけることはなく仕事に没頭したのであった。
夜食を食べ終わるとすぐに仕事を再開し、先輩の予測通り午前一時前を迎えると先輩の声が止まり、僕の手もまた止まったのである。
「――ふぅ~。ありがとう不々動くん、これで仕事はすべて終わったわ」
僕も同じように大きく溜め息を吐き出す。
パソコンをジッと見続けるという作業は慣れているものの、いつも以上の疲労感がある。
それはやはり先輩の大事な仕事という事実がそうさせたのだろう。
「本当にこんなに早く終わるなんてね。本当なら今日は徹夜を覚悟していたのだけれど」
「お力になれて良かったです。請け負っているお仕事はこれだけですか?」
「とりあえずは、ね。結構大きな仕事でもあったから、〆切を超えて完了させるわけにはいかなかったのよ。これで安心して提出できるし、また仕事も回してもらえると思うわ」
「いいえ。少しでも先輩の負担を減らせたのなら、ここに残った甲斐がありました」
「ありがとう。あなたには感謝してもし切れないわ。当然手伝ってくれた分の支払いは私から与えるからそのつもりでね」
「え? あ、いえ、そういうつもりはないです。自分は言うなればボランティアみたいなものですから」
「それだと私が納得できないもの。だから受け取ってほしいのよ」
頑なな先輩にタジタジとなる。
本当にお金をもらうつもりでしたのではない。
ただただ力になりたかっただけなのだから。
それに先輩の家庭環境を聞いてお金をもらうなんて罪悪感もあってできない。
どうすればいいものか……。
するとあることを思いつく。
「せ、先輩……このあとまたこんなふうに切羽詰まったような仕事が入ったりするのでしょうか?」
「? いいえ。その予定は今のところはないわ。今回のは特別よ。ちょっと無理をしてでも多くの仕事をこなして会社への信頼度を高めようって魂胆だったし。そうすれば今後贔屓にしてもらえると思ったから」
ああ、そんな企みがあったのですね。さすがです。
「ではそうですね……8月の初旬辺りのご予定はいかがでしょうか?」
「ん? 詳しい日程とかは分かるの?」
「10日と11日の二日間です」
「特にこれといった予定は入っていないわね。夏休みまっただ中だし、生徒会もお休みで仕事についても時間に余裕があるから何とでもなるでしょうし」
「……そうですか。では今回の報酬は、お金ではなく先輩のお時間を頂けませんか?」
「夏休み……二日……時間が欲しい…………っ!? そ、そんなっ……い、いきなりそんなん困るわ!」
「や、やはり無理でしょうか?」
「む、無理やないよ? ただいきなり二人っきりで旅行なんて……恥ずかしいわ」
は? りょ、旅行?
「二日っていえばちょうど良い期間やもんね。一泊二日ってことやろ? 海外っちゅうのはあらへんやろうし、海の見えるところでバカンス? それとも山? ホテルもええけど、木造のコテージもええもんやしね。あ、でも旅館っていうのも風情があってええと思うけど、不々動くんはどない思うのん?」
無邪気な瞳をキラキラとさせて小首を傾げながら聞いてくる先輩。
「え、えっと……何のお話でしょうか?」
「へ? だって一泊二日の旅行の話やないの?」
「違いますが……」
「え?」
「え?」
「「………………………………」」
長い沈黙が続く。
静けさが何だかとても重くのしかかってくる。
するとボフッと顔から湯気を出すかのように真っ赤な顔をした先輩がスッと顔を俯かせて身体をプルプルと震わせ始めた。
そして聞き取り辛い小声でブツブツと何か言っていることに気づく。
「ああ、そやった。この子は重度の鈍感やった。せやな、いきなり旅行とかないわな。私のバカ。少し考えたら分かるやんか……はぁぁぁぁ」
何やら彼女から後悔の念が漂ってくるような雰囲気だ。
「あ、あの……多華町……先輩?」
恐る恐るどうしたのかと思い尋ねると、先輩がフッと顔を上げた。
そして髪を自身の手でパサッと払い毅然とした表情で言い放つ。
「何でもないわ」
「え、ですが……」
「不々動くん?」
「は、はい?」
「何でもないの、いいわね? 今のは忘れなさい」
忘れろといったことからでも何かあったのは事実なのでは……とは言えなかった。
有無を言わせない先輩から発せられる冷徹な圧力に対し僕にできることは……。
「……了解しました」
納得せざると得なかった。