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16

「とても良いお祖父様ね。私からもいつかお礼を言わせてもらいたいわ」


 お祖父ちゃんはそんなこといちいち気にはしないだろうが、律儀な先輩はきっちり筋を通すだろう。


「そういえばこれをどうぞ」

「ん? ……これは?」

「コーヒーミルクです。作っておきました」

「本当に気が利くわね。というかちょっと怖いわよ」


 怖いは酷いですね……。


「まるで腕利きの執事ね。あなたなら私専属にしてあげてもいいわよ」

「お給金、出せるんですか?」

「うっ……なかなか上手い返しをするようになったじゃない」

「すみません、冗談です」

「あなたもそうやって冗談を言うようになったのね。良い傾向だわ」


 何やら保護者目線のような先輩の言い分に思わずクスリと笑ってしまう。


「あなたもお風呂入ってきなさい」

「え……自分は良いですよ。一日くらい入らなくても」

「ダメよ。一日の疲れと汚れは確実に溜まるものなの。まあ私が言っても説得力ないかもしれないけれど。それとも私のお風呂は入れないというのかしら?」


 そんな言い方は卑怯だ。

 僕はただあることを気にして遠慮しているだけである。


「自分が入ってもよろしいんですか? 普通他人の、しかも男が入るのを嫌がると思いますが」

「べ、別にいいわよ。あなたなら……むしろあなただったら」

「むしろ? 何です?」

「そんな難聴系主人公みたいなスキル発動させてないで、さっさと入ってきなさい。これは家主命令よ」

「は、はぁ……では行って参ります」


 そこまで言われては仕方ない。

 ハッキリ言って、彼女が入ったあとというのは酷く緊張するが、できるだけ考えないようにと思い、紙袋を持って風呂場へと向かった。


 そして先輩を待たせないように、シャワーだけで事を済ませるとすぐに出る。

 それに何だか先輩が浸かった湯船に腰を落とすのも悪い気がしたのだ。

 まあちょっと恥ずかしいという感情も働いたが、僕が浸かればかなりの湯も溢れ出てもったいないという理由もあった。

 自分の家ならいざ知らず、他人の家では申し訳なくておいそれとできない。


「あら、早かったわね。もう少しゆっくりしていれば良かったのに」


 部屋に戻ると先輩は、テーブルに置かれたパソコンを操作していた。


「先輩、もしかして……」

「ちょっと、そう怖い顔しないで。別に仕事をしていたわけではないわ」


 別に怖い顔をしているわけではない。元々そういう顔なだけだ。少し咎めるような言い方にはなってしまったが。


「文字を打ち込むマストを開いていたの。ここに私が訳す日本語を打っていてほしいのよ」


 パソコンを僕に向けて説明してくれる。

 まだ何も書かれていないかと思いきや、結構なページ数で文字が刻まれていた。

 すらっと内容を見ると……。


「これは何かの文芸作品……ですか?」

「一目でよく分かったわね。さすがは未来の大作家先生ね。これは海外で出版されている小説よ。結構売れているとも聞いたわ」

「凄いですね。そんなお仕事を任されるなんて」

「当然最初は簡単な翻訳の仕事しかもらえなかったわ。でも私の出来を見て、最近では大きな仕事も回してくれるようになったの」


 なるほど。彼女にとって今は信頼を積み重ねている時。ここで失敗をすれば、仕事の質が極端に減ってしまい、それは当然収入にも影響してくる。


「翻訳の仕事はね、優秀な人なら年一千万円以上を稼ぐ人もいるの。もっとも腕と信頼があってのことだけれど」


 在宅でそれだけもらえる仕事というのはそうないだろう。


「少し翻訳の仕事について説明してあげるわ。翻訳には大きく分けて三つのジャンルがあるの。一つはこの小説やノンフィクションなどの文芸作品を対象とする《文芸翻訳》。二つ目は企業や研究者が活用するための論文や資料などを対象とする《実務翻訳》。最後は海外の映画やドラマを対象とする《映像翻訳》ね」

「なるほど。勉強になります」

「私は主に《文芸翻訳》をさせてもらっているわ。普段から小説を読んでいる経験を活かしてね」


 小説はただ日本語に翻訳すればいいというものではない。

 作者の心情や作品の雰囲気なども理解する必要があるので、高度な読解力が要求されるという。

 また《実務翻訳》の方は、専門的な知識が必要な場合が多く、慣れていなければ資料探しだけに多くの時間を費やしてしまうので学生では困難らしい。


 最後に《映像翻訳》の場合は、やはり映画やドラマなどをそれなりに観ている人の方が仕事はしやすい。しかし先輩は家庭環境もそうだったが、映画やドラマに時間を費やすことができなかったので、自分に合う《文芸翻訳》を選んだのだそうだ。


「本当はもっと市販している小説もたくさん買って読みたいのだけれどね」


 憂いを込めたような瞳でそう言う多華町先輩。

 そうか。先輩のような一見オタクに興味のなさそうな人が、わざわざネット小説に手を出しているのは、無料で気軽に読むことができるからだ。


 もし彼女が一般的水準な家庭環境だったとしたら、ネット小説に見向きもしなかったかもしれない。

 そう考えると、不謹慎ではあるが先輩がお金持ちじゃなくて良かったと思った。

 きっかけはネット小説だった――。

 今の先輩があるからこそ、僕は彼女と出遭うことができたのだから。


「もしよろしければ自分が持っている小説などもお貸しできますが?」

「気持ちは嬉しいのだけれど、読む時間が今のところないから。実はあなたには内緒にしていたのだけれど、最近じゃネット小説……あなたが更新する小説も読めていないの」

「そうだったんですか」


 なるほど。だから感想欄に『ハナハナ』の名前が無かったのだ。


「くっ、これはいちファンとしては由々しきことだけれどね……!」


 本当に悔しそうに彼女は下唇を噛み締めている。

 ファンの鑑のような人であり、僕にとっては離れてほしくない最高の人材でもある。


「まあ今はネット小説よりもお仕事の話よ」


 そう言うと先輩が自分の傍に置いていた紙の束をテーブルの上に置いた。


「これは……?」

「原稿よ」


 確認してみると確かに英語の羅列が並んでいて、とてもではないが僕の英語力では読み解くことはできない。


「仕事にはこうして紙で翻訳指定の資料が送られてくることもあれば、ネットのデータで届くこともあるわ。今から私が日本語で読み上げるから…………ここね、ここから打ち込んでいってほしいのよ」


 パソコンを操作して、打ち込む場所を指定される。


「分かりました。では、どうぞ」


 僕はいつでも打つ準備を整え、先輩の声が聞こえてくるのを待つ。

 先輩は紙束に付箋をつけているところまで捲ると、目を細くし集中し始めた。


「――私はその時、無意識にどんよりとした空を仰ぎ、こう思った。『きっと贖いの時はくる。その時まで私は歩みを止めることはできない』。その理由は簡単だった。ただただ私は望みのままに生きるだけだから。そう、これは私だけに赦された復讐なのである」


 先輩がスラスラと日本語を読み上げていく。

 一応彼女の傍には英和辞典などの参考資料が用意されているが、使うことなく閉じられている。

 さっきチラリとみたが、とてもこんなふうに軽やかに訳せることは自分にはできない。

 それなのに先輩は詰まることなく淡々と言葉を重ねていく。


 僕は聞き洩らさないように集中し、すぐにパソコンへと打ち出す。

 室内では先輩の声とタイピングの音だけが響き渡る。

 そうして一時間ほどぶっ続けた頃だろうか、不意に先輩は「ふぅ」と小さく息を漏らす。


「……少し休憩にしましょうか」

「…………」

「……? 不々動くん?」

「……ん? 自分の名前が……あれ?」

「え? あ、あー……ごめんなさい。今のは提案だったのよ。えっと……ここから消してちょうだい」


 律儀に僕は「ふぅ」と溜め息から書き出してしまっていた。

 当然先輩がそこから消すように言われる。


「……凄いわね。いつもならこの五分の一ほどの進みなのに。まだ一時間でこれは素晴らしいわ」

「凄いのは先輩です。先輩がほとんど詰まることなく訳されるから、これだけの速度を維持できたのですよ」


 時折やはり辞書で調べることも少なからずあったが、それでもかなりのハイペースで書き進められたと思う。


「ふふ、私とあなたが合わされば五倍の力なのね。これはもう相性が抜群といったところかしら」

「そうかもしれませんね」

「ふぇっ!? そ、そこは認めるのね……まったく」


 先輩の言ったことを肯定しただけなのに、何故か彼女は気恥ずかしさを露わにしてその場を立つ。

 喉が渇いたということなので、僕もすぐに立ち上がり、先輩には座っていてもらって追加のコーヒーミルクを用意することにした。

 その間にも先輩は僕が文字を打ち込んだパソコンを見ながら確認作業をしている。

 一応改行や句読点なども先輩の指示でやっているので、打ち間違いなどはないと思うが。


「うん。さすがは普段から文字を打っているだけはあるわね。誤字や間違いなども見当たらないわ」


 それはもう普段以上に気を遣って文字を打っていますから。


 自分の仕事ならいざ知らず、先輩の仕事の評価に繋がるのだから一切気を抜けない。


「でもこれなら休憩を挟みつつやっても、一時前くらいには全行程が終われるかも」

「それは朗報ですね。まあ……それでも深夜には突入するみたいですが」

「本当に助かるわ。ありがとう、不々動くん。あなたを頼って……本当に良かったわ」

「いいえ。先輩には普段から悩み相談などやネット小説などでもお世話になっておりますから。いずれはこの御恩をお返ししたいと思っていましたから、今回のことは僕にとっても良いきっかけになりました」

「……あなたはあれね。多分損するタイプだわ」


 あれ? 素直に自分の気持ちを口にしただけなのに、何故か呆れられてしまった。


「……ねえ不々動くん、一つ聞いてもいいかしら?」


 互いにコーヒーミルクを飲んでいて、少し沈黙が続いた。そこへ先輩からの質問が飛び込んできたのである。


「はい、何なりと」


 また何かからかわれるようなことを言われるかと思い少し身構えたが、彼女から予想外の質問をぶつけられる。


「……………………あなたの過去に何があったの?」







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