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「でもやっぱり無理し過ぎだよ多華町さん。前にも言ったじゃない。ちゃんと休まないといつか倒れちゃうって」
「すみません、先生。返す言葉がありません」
「それで? 昨日はいつまで仕事をしていたの?」
「……午前四時半までですね」
「えぇっ!? じゃ、じゃあ一昨日は?」
「お、同じく」
「んなっ…………そのまた前の日は?」
「…………午前五時」
そこは同じくじゃないんですね。けれど本当に無茶をし過ぎです。
七時に起きたとしても、ここ数日平均睡眠時間が二時間ほどしかない。
ただでさえ多華町先輩は普段から精神力を酷使する生活をしているのに、その睡眠時間は自殺行為の何ものでもなかった。
「もしかしてまだ仕事が残っているの?」
「……少しだけ」
「だったら今日は仕事をお休みすること。いい?」
「ですが〆切が迫っていまして……」
「ダーメ。これまでは見逃してたけど、倒れたんだから許可できません」
「……自分がこなせると思い請け負った仕事をダメにしたら信用を失います。そんなことになれば、せっかく回してくださっている仕事がこなくなってしまいますから」
「う~ん、でもねぇ……」
教師の立場としては止めるしかないだろう。
僕も仕事の信用を失わせるのはできるだけ避けてあげたいが、これでまた体調が悪化し入院にでもなったら、それこそ目も当てられない。
「悪いけれど、ご家族には今回の一件は報告させてもらうからね」
「そ、それは……黙ってもらうことはできませんでしょうか?」
「お子さんを預かっている以上、無理をさせてしまった責任は私たち教師側にもあるの。だから報告の義務ももちろん発生するし、あなたが何を言おうとダメなんだよ」
仮に黙っていて、本当に入院にでもなってしまったら、その責任は学校側へ向かうだろう。
親御さんは学校を信じて大事な子供を預けているのだ。一度倒れてしまったことを知りながら、それを報告しないのは学校側の信用にも関わる。
「大丈夫。バイトを辞めろとまでは言わないから。幸いあなたの成績は変わらないしね」
「…………」
「あーまだ納得できない? ここで無茶して悪化させるよりはいいと思うんだけどなぁ」
正論だ。反論の余地がないほど大人な意見だろう。
頭の良い先輩だからこそ、先生の言っていることは痛いほど理解できているはず。
それでも感情が認めたくないのだ。
せっかく良い仕事を続けられているのに、今回の件で少しでも信用を失うことを酷く恐れている。
「……では自分が手伝うというのはどうでしょうか?」
「「……へ?」」
二人のキョトンとした眼差しが僕を見つめてくる。
「自分もパソコン作業をするのでよく分かりますが、パソコンに文字を打っていくというのはかなりの労力を必要とします」
当然目も疲れるし、ずっと同じ体勢のまま作業するので余計疲労感が溜まりやすいのだ。
「不々動くん、どういうことかしら?」
「簡単です。先輩は翻訳のみに集中して読み上げるだけです」
「……! それは不々動くんがパソコンに打っていくということ?」
「はい。そうすれば先輩にかかる負担はかなり減るのではないでしょうか? 自分もタイピングには慣れていますので、普通の人とは違って速度も速い方だと思いますし」
伊達に毎日小説を書いていない。
ブラインドタッチもすでに習得済みの上、体力も精神力も他の人よりはある方だと思う。
「確かに不々動くんのやり方なら負担は減るだろうけどさぁ」
「ダメでしょうか。自分が傍にいれば、先輩に無理をさせないように看ることもできますし」
「なるほど。お手伝い兼監視役ってことか……ふむむ」
「あ、あの不々動くん、それはさすがに申し訳ないわ。私の仕事なのに。それにあなただってデビュー間近で忙しいはずでしょう?」
「いえいえ、お気になさらないでください。ちょうど今、書籍化の作業に一段落つきました。次に自分がやらなければならない作業は、まだもう少し先になるらしいので」
前に送った最終原稿を日中さんがチェックし問題がなければ、紙媒体の原稿として《ゲラ》が送られてくる。それまではまだもう少し時間があるのだ。
「それは本当?」
「自分は先輩に嘘を言ったことはありませんよ」
「……そう、だったわね。あなたはいつも正直だもの。けれど今回ばかりは頼るわけにはいかないわ」
「どうしてでしょうか?」
「だってこれは私個人の問題だもの。あなたは関係ないわ」
関係ない。確かにそうかもしれない。
どこまでいっても僕は他人でしかない。今日この日に、たまたま彼女の謎に包まれていたプライベートの一旦を知っただけ。
胸を張って友人といえるような関係でも、ましてやそれ以上に親しい恋人などでも決してない。
あまり深く踏み込むと、それだけで失礼の当たることだってある。
それは……分かる。
しかし弱り切った彼女を見て、あのメールを思い出し、僕は彼女の力になりたいとそう思ったのだ。
「自分は――――不必要な存在ですか?」
「!? …………そういう……ことではないわ」
「確かに先輩の仰る通り、自分には関わる謂れはないのかもしれません。ですがこのまま何もしないで、仮に先輩が無茶をしてまた倒れたりしたら…………」
「不々動くん……?」
そんなことになったら、きっと激しく後悔するだろう。
あの時、意地でも行動を起こしていたら結果は変わっていたんじゃないか、と。
「自分は……傲慢な存在なのかもしれません」
「え……」
「自分ならきっと先輩の力になれると思い上がっているのかもしれません。ですがそれでも、先輩が少しでも楽になれるのなら、お手伝いをさせては頂けませんか?」
「っ…………どうしてあなたはそこまで……」
「分かりません。ただ自分が何もできず、行動を起こせず。……間違った選択をして後悔するのはもう……たくさんなんです」
脳裏に浮かぶのはかつての自分。無力に嘆いたあの出来事だ。
自分の目の前で冷たくなっていく兄。
自分が間違った選択をしてしまったことで起こった悲劇である。
あの時、選択を誤らなければ、今も傍には大好きな兄がいただろう。
そして兄が生きていれば、もっと多くの人たちが笑顔になったはずだ。それだけの魅力と才能を持っていた。
だからもう悲劇に繋がるような選択はしたくない。
「…………仕方のない子ね、あなたという人は。そんな顔をされたら断れないじゃないの。捨て犬みたいよ、今のあなた」
「うんうん、まるであれだね。雨の中、しきりに助けてって言ってるゴールデンレトリバーみたいだね!」
え、犬なんですか自分……?
「まあ、実際のところ教師としては止めないといけないんだろうけど……。多華町さん的にはどうなのかな?」
友枝先生に問われ、多華町先輩が僕の眼をジッと見つめてきたので、僕もまた彼女を見返し続けた。
そしてフッと溜め息のようなものを吐くと同時に頬を緩める。
「まったく、あなたには敵わないわね。……先生、もしよろしければ、彼に手伝って頂こうと思います」
「……そっか。分かりました。まあ不々動くんならわたしも信頼できるしね。多華町さんに無理させないと思うし。ただ手伝うことについては、他の先生方や生徒に伝えると問題になりかねないから、秘密ってことでいいかな?」
「「はい」」
良かった。これなら多華町先輩も少しは重荷を軽くすることができるだろう。
「あ、でも手伝うって……ここで、だよね?」
「え……あ、そうですね……」
僕はその事実を知り、さすがに女性が一人で住む家に、長く滞在するのは良くないと思った。それに多華町先輩も男が部屋にいると落ち着かないだろうし。
しかし――。
「わ、私は別に構わないわよ」
「……は?」
あっさりと許可が出た。
見ると多華町先輩は僕から顔を背けたままである。若干頬が紅潮している様子。
「い、いえしかし、友枝先生が帰られると自分と二人っきりになってしまうのですが。それにこれから仕事を手伝うとして、下手をすれば深夜を回ってしまう可能性も高いです」
「そ、その時はと、と、泊まればいいのではなくて?」
「と、泊まりはさすがにご迷惑になるかと。それに外聞的にもいろいろ問題が……」
「まあ別にいいんじゃない」
「せ、先生っ!?」
いえいえ、そこは教師であるあなたが断固として止めるところでは!?
「そういう意味でも不々動くんを信じてるしねぇ。それに……多華町さんもそっちの方が嬉しそうだし。ねえ?」
「な、何のことでしょうか? 私はただ効率を重視した結果、不々動くんが泊まる方がより良い成果を出せると考えた次第ですよ。私だって乙女ですし、男の子が泊まるという初めての経験で些か緊張はしていますが、それでもやはり仕事を優先しなければならないことが分かっているのですから、自分の気持ちに流されるようなことはあってはいけません。ええ、そうですとも。これは単なる仕事のパートナーとしての当然の権利であって、決して私が不々動くんともっと親密になりたいという欲求からきた解答ではありませんから」
いっぱい喋りましたね、先輩。
あまりにも早口だったため、ほとんど何を言っているのか聞き取れませんでしたよ。
ただ仕事のパートナーとして傍にいた方が良いというようなことを耳にし、確かに効率を考えればそちらの方が正しいと思った。
こんな状態でも効率を重視する考えを実行する当たり、さすがは仕事人だと感嘆する。
「はいはい。まあ何もないと思うけど、さっきも言った通り手伝うことに関しては秘密だからね。じゃあわたしは学校に戻らないといけないから。不々動くん、あとは頼むからね」
「お任せください。先生の信頼に応えるため精一杯務めさせて頂きます」
「うんうん。この調子なら本当に何もなさそうだね。じゃあねー」
そう言って軽く手を振りながら友枝先生は、この場から立ち去っていった。