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「多華町先輩、具合はどうですか?」
「んぅ~……具合ぃ? ……どういう……こと…………って、え……ええ? ちょっ、不々動くんっ!?」
「はい、不々動です」
「な、なななな何でこんなに不々動くんが近いん!? それに私おぶされとるしっ!?」
「おっと、落ち着いてください先輩。暴れてしまうと落としてしまいますから」
「あ……ごめんなさい。……って違うわよ! というよりも今のこの状況の説明……を……」
そこで多華町先輩は、目の前に立つアパートを見てギョッとし固まった。
そして徐々に表情を暗くさせ、恥ずかしそうに僕の背中に顔を埋める。
「…………バレてしまったのね」
「すみません」
「どうしてあなたが謝るのかしら?」
「それは……」
恐らく彼女は自分がここに住んでいることを誰にもバラしたくなかったのだろう。
だとすれば今まで親しいはずの柴滝姉妹が先輩の家を知らないことも、僕も住まいを聞いた時に秘密にされた事実にも辻褄が合う。
そうか。ビックリするというのは、こういう意味でのことだったのかと納得する。
僕たちは先輩の案内のもと、二階の突き当たりにある部屋へと向かう。
先輩から鍵を譲り受け扉を開けて中へと入る。
間取りは1Kではあるが、風呂もトイレも備え付けられている部屋だ。
「は、恥ずかしいわね。こんなことなら掃除しておいたのに……」
恐縮する先輩だが、明らかに普段からしっかり家事をしているのが分かるくらいに、埃が少しも見当たらない。几帳面さが窺える。
室内の装飾も質素で、必要以上のものは置いていないという感じだ。
部屋の隅にある小さなタンスの上には、綺麗な花が映える花瓶と、一つの写真立てがあった。
そこには家族だろうか、先輩含めて六人が映っている。
中央に立つ先輩を挟むようにして、二人の小さな少女らが笑顔を見せていた。
妹さんたち……でしょうか?
気にはなったものの、今は他にするべきことがある。
一旦先輩を床に座らせ、押し入れから布団を取り出す。
その際に強烈な先輩の香りを感じて、つい気恥ずかしさで身体が硬直しそうになったが、すぐに首を振ってやましい思考を捨てて布団を敷いて、先輩をそこに寝かせる。
その周りに僕と友枝先生は座った。
「ごめんね多華町さん。あなたのことだから、不々動くんには教えていると思って」
「友枝先生……いいえ、お気を使って頂きありがとうございます。それに少しだけ……ホットしているのも事実ですし。まあできれば不々動くんには知られたくなかったのだけれど」
「……本当にすみません。自分が出しゃばったばかりに……」
僕にはできるだけ知られたくなかったということは、僕も男であるし、そこそこ親しくさせてもらっているといっても、先輩にとっては単なる後輩の一人に過ぎないのだから。
――ギュッ。
「いつっ!?」
何故か先輩に太腿をつねられた。
「――こら。今こう思ったでしょう。自分はただの後輩で、大した男でもないから住居を知られたくないって思うのは当然だって」
……あなたはエスパーか何かですか?
「全然違うわよ。むしろ誰よりも頼りになるあなただからバレたくなかったのよ」
「……? それはどういう……」
「だって。……あなたの前では弱みなんてない、頼りになる女だって思っていてほしかったから」
「そんな……自分にとって先輩は目標となるような人物です。気高く凛々しい。自分に自信があって……そんなあなたはとても眩しい」
「不々動くん……!」
「それに先輩のその……弱い部分というのも知ることができて嬉しいというか」
「え、それって……!」
今言ったことは本当だ。
普段から超人のような彼女は決して人に弱みを見せない。
見せるとしたら、それはきっと心の底から信頼できる人だろう。
今回は不可抗力で知ることができたが、それでもこの事実を知ったことでホッとしたとも言ってくれたので、先輩の中ではある程度信頼できる人物だと思ってくれているということだ。それが何よりも嬉しかった。
「何だか先輩が前よりも近しい存在になった気がします」
「っ…………何やそんなん卑怯やわ。こんな弱った時にやなんて……」
「はは。そういう先輩も新鮮で可愛らしいと思いますよ」
「~~~~っ!? アホちゃうかホンマ……!」
先輩は布団で顔の半分ほど隠したまま、チラチラと僕を見てくる。
いつもからかわれているので、こういう先輩も楽しいかもしれない。
「…………おっほんっ」
「「!?」」
「ねえねえ君たちさー、ここには二人っきりじゃなくてー、結婚願望の強ぉい独身女性が一人いるってこと忘れてないかな? かな?」
「「す、すみませんっ!」」
言われた通り、本当に友枝先生のことをすっかり忘れていた。
本当に申し訳ない。
だからそのハイライトが失われた瞳をどうか戻してほしい。
「まったく! わたしの目の前でイチャイチャなんかしやがってぇ……。こうなったら悔しいから不々動くん! わたしとイチャイチャしてるところを多華町さんに見せつけてやろう!」
「お断りします」
「速攻で断られた!? 何で!? ノリや勢いでも先生みたいなちょっとばかし小さな女性とくんずほぐれつするのは嫌なのっ!?」
ノリと勢いでするようなものではないですし、それにくんずほぐれつなんて今時使いませんよ先生。
「うぅ~っ、そのうち卒業していった生徒たちから結婚の招待状とか届くんだ。そしてその度にわたしはお酒を煽りながら涙を呑む日々を過ごすんだ……あは、あはははははははは」
あ、マズイ。このままじゃダークサイドに堕ちてしまう。
「と、友枝先生、大丈夫ですよ。先生はとても良い人ですし、そのうち絶対に良い出遭いが来るはずです。そうですよね、多華町先輩?」
「え、ええ。そ、その通りです。こんな愛らしい先生なのですから、きっと不々動くんのような人が見つかりますよ!」
「…………不々動くんの……ような?」
「え……あっ」
友枝先生の聞き返しを受け、しまったという表情をする多華町先輩。
「あの多華町先輩。自分みたいな人間よりも遥かに良い男性なんて星の数ほどいると思うんですが」
すると何故か二人の女性に無感情の表情で見つめられる。
「…………はあぁぁぁ~。先生、こういう話に彼を出しても仕方ありませんでしたね」
「うん。みたいだね。口説くだけ口説いて。本人は無意識とくる。天然タラシもいい加減にしろって感じだよね」
いや、あの……どうしてそんな呆れたような目で自分を見るのでしょうか……?
何か変なことでも言ったのだろうか?
「……それより不々動くん、この家のことはその……」
「はい。他言無用ということですね。誰にも話すつもりはありません。ただ……」
「ただ?」
「夏灯さんと秋灯さん、特に夏灯さんはとても心配しておられました」
「ああ……夏灯にも悪いことしてしまったわね。いつもならあんなキツイ言い合いとかはしないというのに……」
「それはきっと疲労が溜まって冷静な判断力が失われていたからだろうね」
多分友枝先生の言う通りだろう。
自分と話していた時も、どこかイライラしている様子が見受けられたから。
「ですがどうして倒れるまで疲れていたんですか?」
「それは……」
「多華町さん、教えてあげたらどうかな? わたしは彼なら本当に他言しないだろうし、わたしとしても少しでもあなたの重荷が軽くなったらって思うしね」
「先生……はい。不々動くん……」
「はい。ここで見聞きしたことは外には漏らさないとお約束します」
「ありがとう。……このアパートや室内を見て分かる通り、私は決して裕福な家庭ではないの。いいえ、一般的な家庭よりはずいぶんと低い……そう、いってみれば貧乏ね」
凡そは見当ついていたが、いまだ信じられない。
彼女の在り方からでしか判断していなかったが、とても貧乏とはかけ離れた存在だと思っていたからだ。
「ここはね、知り合いのツテで紹介してもらった格安のアパートなの。家賃だって驚きの安さよ。月額三万五千円なんだから」
それは非常に安い。ここらへんの土地は高いらしく、マンションやアパートの平均家賃は軽く十万を超えるというのに。
「それでも毎月三万五千円、光熱費や食費などを加えると結構するわ。だから私はアルバイトをしてお金を稼いでいるの」