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本当に今日は運が無い。
まさか事故が起きて渋滞に巻き込まれてしまうなんて。
時間が刻々と過ぎていく中、車はほとんど前に進まずに絶望だけが膨らんでいく。
せっかく千志がやる気を出して一生懸命練習した演劇を披露できるのに、どうしてこんな日に限って事故なんて起きるのだろうか。
歩いた方がもしかしたら早いかもしれないが、それでももう時間内に到着することはできそうにない。
父が多分もうすぐ車が動くだろうと言ったことに対し、私だって大丈夫だよねってタカをくくってしまっていた。
この辺の道は混むこともあるが、それを加味しても間に合うと踏んでいたのだ。
しかしまさか道行く先で事故が起きて大渋滞が引き起こされているとは思っていなかったのである。
今から車を降りる選択をしたとしても、さすがにその選択をするべき時間は過ぎ去ってしまった。
こんなことならもっと早く車から降りて走ってたら……。
それでも十キロ以上ある道程を千志を連れて走るのは現実的ではないかもしれなかったが。
……本当に申し訳ない。
今日のために練習してきた【いちご組】の子たちや、それを支え続けてきた保護者と先生方には何てお詫びをしたらいいか……。
母も父も、そして祖父母も焦燥感にかられ青褪めている。
隣に座っている千志を見ると、悔しそうな表情で親指をカリカリと噛んでいた。
……千志。
そんな時だった。不々動くんから電話があったのである。
私はこのどうしようもない状況に対し、もう彼に嘆くしかできなかった。
涙目で彼に「どうしたらいいんでしょうか」と口にすることしかできない。
さすがの彼もどうにもできない事態には違いないというのに。
それでも彼の言葉を聞いていたかった。聞いていると少しだけ安堵できたから。
しかし次の瞬間、何故か彼から車から出て歩いてほしいと催促があった。
ハッキリ言って今から歩いたところでどうしようもないことは分かっている。
無駄な悪足搔きといえばそれまでだ。
それでも彼は自分を信じて欲しいと言った。
不々動くんは、こんな絶望的な状況でもまだ諦めていない。
……だったら。だったらまだ私も諦めるわけにはいかないよね!
「千志、外に出よう!」
「え? ね、ねえちゃん?」
「ちょっと、どういうことだい糸那?」
「ごめんお母さん! 詳しいことはあとで! 私は千志と一緒に走って向かう!」
私は強引に千志の手を取り、車のドアを開けて外へと飛び出す。
「こらっ、待ちなさい糸那!」
「お母さんたちはあとから来て! じゃあ!」
確か不々動くんは大通りに沿って向かえと言っていた。
大通りなら、車が進んでいる道だからこのまま真っ直ぐだ。
「行くよ千志!」
「で、でもねえちゃん……もう」
「諦めちゃダメ! まだ時間はあるんだよ!」
「っ…………わーったよ」
弟を奮い立たせて、私は一緒に手を繋いで走り出す。
運動の苦手な私よりも、恐らく千志の方が総力は上だ。体力もかもしれない。
それでも今日だけはしんどくても全力で走るべきだ。
他ならぬ弟のためにも。
そうして十分ほど経った頃だ。
「はあ……はあ……はあ……ね、ねえちゃん、だいじょうぶか?」
「ぜぇぜぇぜぇ………………う、うん」
返事はしたものの正直に言ってとってもキツイ。
こんなに全力疾走したのは初めてかもしれない。できることなら今すぐ座りたい。
喉も乾いたし水だって飲みたい。
まだ夏には入っていないが、今日は日差しも強く汗が溢れ出てくる。
「千志……あなたは……だい……じょう……ぶなの?」
「ねえちゃんよりかはな。つーか、マジでだいじょうぶか?」
「へへ……まだお姉ちゃん……なら……イケる……から」
「……ちょっとやすもうぜ」
「ダ、ダメ……よ」
少しでも前に進む。それだけを考えなければならない。
私は腕時計をチラリと見る。
はぁ……時間が止まればいいのに。
できれば恋愛的な状況で、この言葉を噛み締めたかった。
「とにかく……ちょっとでも歩……こ」
「…………ああ」
走れなくても歩くくらいはできる。
止まることだけはあってはならない。
するとそこでようやく事故の全容を知るくらいの距離まで辿り着いた。
信号機がある場所にトラックが突っ込んでしまっている。
パトカーが何台もあって、警察の人が交通整理を担当していた。
被害者はいないので、恐らくもう救急車で運ばれたのだろう。
よりにもよって大型のトラックが事故したから、こんなにも道幅が制限されてしまい大渋滞を引き起こしているようだ。
これは大型の牽引車を用意しなければどうしようもない状況である。
私は事故現場を一瞥して先を急いでいく。
そしてしばらく足を止めずに歩き続けるが、不意に千志が足を止めてしまう。
「……せ、千志?」
「…………もういいよ、ねえちゃん」
「え?」
「もうムリだって。まにあわねえし」
「そんな! まだ時間はあるよ!」
「…………」
「千志はそれでいいの? 諦めちゃっていいの? せっかくあんなに練習してたのに!」
普段ゲームや漫画ばかりのこの子が、この劇のために家でも毎日練習していたのを知っている。
それだけこの劇を演じるのを楽しみにしていたはずだ。
「千志が大好きな青鬼ができなくなるんだよ?」
「しょーがねえじゃん。…………しょーが……ねえし」
見れば唇を噛み締めて震えている。
「おれだって……ひっぐ……おれだ……って…………がんばった……のにぃ……っ」
「千志……」
お母さんの拳骨を受けても泣くことのない千志が泣いている。本当に悔しいのだろう。
みんなで頑張ってきたんだもんね。こんな結末……嫌だよね。
私は泣きじゃくる弟をスッと抱きしめる。
「ごめん……ごめんね……っ」
「んで……ねえ……っちゃん……が、あやま……んだよぉ……っ」
分からない。でもこの子にとって大事な日なのに、何もしてあげられないことが本当に申し訳がなかった。
神様、お願いです。
私なら何でもしますから、どうか奇跡を――奇跡を起こしてください!
願ってもどうしようもないことだが、最後は神頼みしかできない自分の無力さがはがゆい。
――――…………。
ふと何か聞こえた気がした。
「――――ぁん」
まただ。遠くから声が聞こえてくる。そしてどんどんその声が近づいてきていた。
「――――らさぁぁぁんっ!」
……え? この声……。
私は顔を上げて声が聞こえてくる方向に振り向く。
するとそこには――。
「繭原さぁぁぁぁぁぁぁんっ!」
「ふ、ふ、不々動くんっ!?」
そこにはここにいるはずのない彼がいた。
物凄い速度で自転車を漕ぎながら接近してくる。
千志も彼の姿を見止めてキョトンとしてしまっていた。
「繭原さんっ、良かった、見つかりました!」
「不々動くん! な、何で……どうして!?」
「説明は後で! 今はとにかく施設へ急ぎましょう!」
彼が来てくれた。電話をしてからまだ二十数分程度しか経っていないというのに。
しかも何故か彼はボロボロだった。
「どうしたんですか、傷だらけじゃないですか!」
「いえまあ……慣れない自転車でしたので、何度か転倒してしまって」
見れば服は汚れ、破れている個所もある。
全身も汗塗れで、マラソンでもしていたかのようだ。
「……どうして」
どうして彼はここまで……。前にも私が窮地に立たされている時に、身を挺して庇ってくれた。
他人のために何故彼はここまで必死になれるのだろうか。
ううん。きっと珠乃ちゃんのためだってことは分かっている。
それでも自分以外の誰かのために、ここまで全力投球ができる人は私は知らない。
「繭原さん、とりあえずコレを」
そう言って渡されたのはスポーツドリンクだった。
「来る途中に買ってきました。千志くんにも」
しかも千志には持ちやすいようにミニのペットボトルだ。
「あ、ありがとうございましゅ……」
うわ、また噛んでしまった。でもしょうがないよね。だってこんなズルいことされたら、やっぱり意識しちゃうもん。
でも助かった。本当に何か飲みたかったところだったのである。
二人して、彼が持ってきてくれた飲み物で体力を回復させた。
そして千志が私が尋ねたかったことを口にする。
「にいちゃん……なんできたの?」
「君を迎えに来ました」
「え……でも……もうぜってえまにあわねえもん」
またぐずり出そうになる千志の頭を不々動くんが撫でる。
「だいじょーぶだいじょーぶ」
聞くだけでとても安心できる声音が鼓膜を震わせる。
どうしてか、言葉だけを聞いているのに、本当に心がホッと落ち着いてきた。
不思議だ。彼の声は不思議と人の心を安心させてくれる。
「にい……ちゃん」
「まだ諦めるような時間ではありません。最後の最後まで。その瞬間まで必死に手を伸ばし続ければ、きっと良いことが待っているはずです」
そう言いながら彼は自転車の籠を見てフッと頬を緩めて続ける。
「なるほど。伏見くんは凄いです。ここまで読んでいたなんて。確かにコレがあれば楽ですね」
何を思ったのか、不々動くんは籠に入っていた数枚のタオルを細長くして結び始めた。
「な、何をしているんですか、不々動くん?」
「………………よし、できました」
タオルを繋いで二本の長い繋ぎを作ってしまった。
「繭原さん、あなたはこの自転車を使ってください」
「え……でも不々動くんと千志は……?」
「千志くんは自分が運びます。この抱っこ紐で担いで」
ああなるほど。タオルを繋いでいたのは抱っこ紐を作るためだったらしい。
「千志くん、背中におぶさってください」
千志の前で後ろ向きに膝をつく彼。
「さあ早く!」
「は、はいっ!」
野太い声の催促で、反射的に返事をした千志が不々動くんの背中におぶさる。
「繭原さん、このタオルをクロス状にして、千志くんが落ちないように合わせてください」
「あ、はい!」
言われた通り千志がずり落ちないようにタオルをあてがい、それぞれの先端を不々動くんの胸部を方へと持っていく。
そしてそこで先端同士を繋ぎ合わせて、ガッツリ抱っこ紐として活用した。
「――よし! 千志くん、全力で走りますからしっかりしがみついていてください」
「え、しがみつくって」
「行きますっ!」
「っておわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
不々動くんが全力疾走していく。
面白いようにグングンと遠ざかる。
まるで陸上競技の選手さながらだ。
「…………あ! 私も行かなきゃ!」
置いていかれないように、彼のお蔭で大分回復した体力を振り絞ってペダルを漕ぎ始めた。
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