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これほどほっこりとする現場というものはないと思う。
何故なら目の前で小さな子供たちが、必死になって歌やダンス、そして劇を披露しているのだ。
観客席に座っている保護者たち、それにお年寄りの皆さんも全員が微笑ましそうに、園児たちを見つめている。
特にお年寄りの方々は、とても楽しそうで手を叩いて喜んでいる姿が見える。
そんな光景を見ていると、今回のお遊戯大会は大成功だと実感できた。
皆さんとても愛らしいですが、まあ珠乃の可愛さの方が上ですね。
と思いつつも、噛んだりセリフや振り付けを忘れ慌てる姿なんかもとてもキュートで、思わずビデオカメラに収めたくなってしまう。
当然身内ではないのでそんなことはできないが。
しかしどこも考えるところは同じようで、現在出ている園児たちの保護者のほとんどはビデオカメラを構えている。
「……それにしても繭原さん、遅いですね」
すでに幼稚園の催し物が始まって三十分以上経っている。
もし到着しているなら、この講演ホールに繭原さんが来ていてもおかしくない。
外で千志くんと一緒にいるのだろうか。
そう思って、何気なく出入口の方を見ると慌てた様子で伏見くんが中に入ってきて、キョロキョロと周りを見回すのを発見した。
そして自分と目が合うと、クイクイクイと素早く手招きをする。
? どうかしたんでしょうか?
僕は隣に座っているお婆ちゃんに「少し外へ出ます」と言って席を立つ。
そのまま出入口に向かうと、伏見くんに腕を掴まれて強制的に外へと出された。
講演ホールから出て少し歩いたところで立ち止まる。
「ど、どうかされたんですか?」
「…………マズイことになっちまった」
「え? マズイ……こと?」
「ああ……」
言い辛いことのようで、伏見くんはかなり険しい表情を保ったままだ。
彼の言葉もそうだが、その様子から只事ではないことを察する。
「一体何があったんですか?」
「実はな――――まだ繭原が来てねえ」
「!? 繭原さんがまだ……ですか? でもそろそろ……」
「ああ。準備をしなきゃダメだな。だが……」
現在二時過ぎ。【とりごえ幼稚園】の演目も後半に入っているのだ。
あと三十分待たず演目は終わり、十分間の休憩時間のあとに【おおわかば幼稚園】の番になる。
「連絡は取れないんですか?」
「今婆ちゃん……園長が電話してる。話を聞きに行くか?」
「え、ええ、お願いします!」
僕たちは急いでバスの傍にいた園長先生のもとへ走った。
そこには先程見た時以上に不安そうな表情で電話をしている園長先生がいる。
「……はい……はい。そうですか……それは大変なことに……はい」
事態はかなり深刻そうな雰囲気だ。
「ねーねー、せんくんはー?」
「まだきてないのせんしくんだけだよ?」
「もしかしておねつでちゃった?」
子供たちも千志くんが来ていないことを心配しているようだ。
それを担当の先生たちが宥めている。
「ええ……はい。分かりました。こちらでも都合がつけられるかどうか確認を取ってみます」
そう言って園長先生は電話を切って、担当の先生を呼びつける。
その話に僕たちも参加させてもらった。
「どうやら繭原さんご一家が時間通りにこちらへ来ることは厳しいかもしれません」
園長先生の言葉に息を呑んでしまう。
伏見くんがその理由を尋ねたが、どうしようもない理由が返ってきた。
「実は車で来られているのですが、渋滞に巻き込まれたようなんです」
「渋滞だって? 婆ちゃん、そんなに今日は混んでんのか?」
「…………事故が起きたらしいの」
「何だってっ!?」
「その事故のせいでかなりの渋滞が起きているとのことよ。もう一時間近く立ち往生みたい」
渋滞……。
その可能性は僕も思い浮かんでいた。
この時間帯は混むことがあるからだ。しかしそれだって繭原さんご一家も理解していたはずだ。
だからそれなりに余裕を持って出発したと思うが、まさか事故が起こした大渋滞に巻き込まれるとは……。
運が無いと簡単に言えるが、そんな言葉で軽々と片付けていい場面じゃない。
確か繭原さんは父親の車で、母方の祖父母の実家が近くにあるので、そこに寄ってからこちらへ来ると予定では聞いていた。
せっかくの千志の晴れ舞台だから、祖父母にも直接見て欲しいと千志くんが願ったそうだ。
僕は咄嗟に自分のスマホを出して繭原さんに電話をかける。
ワンコールですぐに向こうから反応があった。
「――も、もしもし」
「もしもし繭原さん、大丈夫ですか?」
「…………」
「繭原さん?」
「…………不々動くん…………どうしたらいいんでしょうか……」
消え入りそうな声が鼓膜を震わせる。
きっと今、彼女は不安と絶望に苛まれているはずだ。
「……今、どちらにいますか?」
「えっと――……」
これは本格的にマズイ。
今彼女がいる場所は、ここから車で二十分近くかかる。歩きなら二時間くらいか。
体力のある大人だとしたら、車から降りて全力で走れば一時間以内にこちらに着く可能性はある。それでもギリギリだと思うが。
しかし僕たちが欲しているのは、まだ小さな千志くんだ。
彼が大人のように走れるわけがない。体力も走力もとてもではないが足りない。
下手すれば二時間以上はかかるし、辿り着いても疲労で満足に舞台には立てないだろう。
僕は腕時計を見る。
もうすぐ午後二時十分。
ざっくりと計算すると、千志くんが所属する【いちご組】の演目まで、残り七十分といったところ。
一時間とちょっとしかない。
「とにかく事情を話して、少し休憩時間を長めに取ってもらうように頼んでみます。最悪……【いちご組】の演目は中止になるかもしれませんが」
そんな園長先生の言葉を受け、僕はハッと珠乃に視線を送る。
珠乃は友達と一緒に、「がんばろーねー」と楽しそうに笑みを浮かべていた。珠乃だけじゃない。他の子たちもこれまで自分たちが練習してきた成果を、家族に見せようと意気込んでいる。
もし演目が中止になったら、きっと悲しむことになるだろう。
「……………妹の晴れ舞台を守るのも兄の役目、ですよね」
「? 不々動?」
伏見くんが不思議そうに見てきていたが、僕は周囲を見回し職員さんらしき人を見つけて、その人に駆け寄る。
「あのっ!」
「え……ひっ!?」
こんな図体の僕が突進してきたら怖いでしょう。本当にすみません。ですが今はそれどころではないんです。
「こちらに自転車はありますか!」
「へ、あ、はい? 自転車……ですか? 買い出し用とかで使う籠付きのならあります……けど」
「貸しては頂けないでしょうか」
「……そこにありますので、どうぞご自由に。あ、鍵はコレです」
「ありがとうございますっ!」
僕は職員さんから鍵を受け取ると、すぐに近くに置かれている自転車の鍵を外す。
そこへ伏見くんが近づいてきた。
「おい不々動、お前まさか……!」
「すみません。説明は省かせて頂きます。急いでおりますので!」
「……! いいからちょっとだけ待ってろ! 少しだけだから!」
そう言って伏見くんが、幼稚園バスの中へと入ってすぐに出てくる。
「コレを持ってけ!」
何故か彼が持ってきたのは何枚ものタオルだった。
「伏見くん……コレは?」
「いいから持ってけ。多分……お前のことだろうから必要になるだろうしな」
「? ……分かりました」
彼がそこまで言うなら、きっと何かに役立つ時がくるのだろう。
僕は籠にタオルを置くと、まだ切っていなかったスマホに話しかける。
「繭原さん、今から自分がそちらに向かいます。できればあなたも今から車から降りて千志くんと一緒に大通りに沿って歩いてもらえますか?」
「え? あ、あの不々動くん?」
「お願いします! 一刻を争うんです! 自分を――信じてください!」
「! ……わ、分かりました!」
「ではまた連絡をします!」
一度スマホを切ると、僕はペダルに足を置く。
少し自分の身体では小さい自転車だが、贅沢など言ってられない。
「不々動……」
「伏見くん……少しの間、お任せしてもいいでしょうか?」
「! …………いいのかよ。俺なんか信じて」
「伏見くんですから」
「……わーったよ。あとは任せとけ」
「よろしくお願いします!」
僕はあとのことは全部彼に任せて、繭原さんがいる場所へと向かって自転車を漕いでいった。
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