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「ええ、終わりましたよ珠乃」
「にへへ~、じゃあいっしょにおふろはいるぅー!」
「はい。お待たせしましたね。では行きましょうか」
「うん! あのね、きょうはね、せんせーにほめられたよ!」
僕の手を小さな手がギュッと握る。その手の持ち主は、無邪気な笑顔をいっぱいに溢れさせて、今日あったことを語り出す。
そのまま二人で風呂に入り、身体を洗ってから一緒に浴槽へと入る。
「んとねー、こんどねおゆうぎたいかい? があるからね、いまみんなでがんばってるんだよー」
ふんふんと珠乃の話を聞く。
温かい湯に浸かって、愛しい妹の声を聞く。
何ですかこれは。天国ですかここ。
これだけあればもう何もいらないとさえ思ってしまう。
珠乃もつい最近五歳となり、段々と舌足らずな喋り方もまともになっていく。
それを寂しいと思うのはおかしいでしょうか。
それにいずれはこうして一緒に風呂を入ることもなくなる。
そんな時期が来ることを思うと、ついつい目頭が熱くなるものだ。
子供の成長は嬉しいが、やはりどこか物寂しいものも感じる。
珠乃も、思春期を迎えた頃には異性である僕を鬱陶しく思ったりするのだろうか。
…………死ねますね、それは。
ちょっと、男臭いから近寄らないでよお兄ちゃん!
などと言われたら、そのまま永眠しかねないほどの心痛を覚えることだろう。
「そういえば珠乃はお遊戯大会で何をするんでしたっけ?」
「うんとねー、それは――マッチうりのしょーじょー! にへへ~!」
ああもう可愛い。この時間が永遠に終わらなければいいのに。
でもお遊戯大会ですか。
保護者を招いて、園児たちが様々な遊戯を披露するのだ。
珠乃が通っているのは、ここらへんの子たちが通う【おおわかば幼稚園】だ。
年長者である珠乃が所属する『いちご組』は劇をすることが決まっている。
題材は――『マッチうりの少女』。
そこで珠乃は見事主役をするらしいのだが……。
実は珠乃から聞いたところ、主役の少女役は五人もいるとのこと。
ただ本来この話はおよそハッピーエンドとは遠く、結構シビアで物悲しい物語だが、珠乃がやる話は全員が幸せになれるような話に書き換えられている。
何でも最近こういう原作ブレイクとも呼べるようなことが増えているらしい。
幼い子供たちが悲しまないように、最後はみんな笑えるような物語にして演劇をする。
競争意識というのも、負けた子たちが可哀想ということで、駆けっこを行ったとしても、全員が手を繋いでゴールをするのだ。
いわゆる誰もが悲しまずに笑顔で終わることを旨とした方策である。
この『マッチうりの少女』でも、一人だけが主役に選ばれたら他の子たちが可哀想だということでそうなっているとのこと。
確かに珠乃が誰かに負けて悲しんだりするのは嫌だと思うが、それもまた教育の一環だとも思う。
そうして自分たちは育ってきたし、適度なストレスは与えて然るべきだろう。
時代の流れか、あまりにも過保護な環境に若干不安を覚えてしまう。
中には小学生でも、呼び捨てなどを禁止して男女問わず〝さん付け〟で呼んだり、何をするにも〝みんな一緒に〟というのを意識して行動させている。
何だか一種の洗脳に思うのは僕だけだろうか。
それでも自分の子供がストレスフリーで、ずっと笑うことができているならと容認、もしくは推奨している親御さんは多いとのことだ。
僕としてはこの頃からでも競争意識を持ってくれた方が良いとは思うが。
ただまあそう言っている僕自身はあまり競争すること自体は得意ではないので、どの口が言っていると言われれば反論できない。
「ゆーちゃんがね、きょうね、せんくんになかされたの」
ゆーちゃんというのは、確か珠乃と仲が良い女の子だ。
「……せんくん? もしかしてお友達ですか?」
「う~ん、いじめっこ?」
聞けばゆーちゃんを集中的にからかったりしているとのこと。
内容は可愛らしいものばかりで、小さい子によくある気になる子へついつい意地悪しちゃう程度のものだ。
そのせんくんは、ゆーちゃんのことが好きなのかもしれない。
「だからね、たまがね、ゆーちゃんをまもってるの!」
どうやら珠乃はゆーちゃんにとってのナイトらしい。
「友達思いですね珠乃は。偉いですよ」
頭を撫でてやると「にへへ~」と頬を緩める。
「……他に友達はいっぱいいますか?」
「うん! しーちゃんでしょ、りーちゃんにまーちゃんに……」
珠乃はどちらかというとどーくんに似ている。
僕は幼稚園児時代でも友達はいなかったので。
対してどーくんは、どの時代でも友達は豊富だった。
初対面では人見知りを発動させてしまう、というところだけが僕に似ている。
それでもすぐに相手が良い人だと判断すると、桃ノ森さんのように相手との距離を詰めて仲良くなるのだ。
…………さすがに友達の作り方を珠乃に聞くのは違いますよね。
まだ園児のこの子に頼るのは兄としての細やかなプライドが拒んでしまう。
珠乃にはできれば頼れる兄として見ていてほしいから。
そのあと、僕は風呂から出るとすぐに執筆作業に入った。
いつもなら珠乃の遊び相手になってやるが、今日は我慢してもらったのである。
今頃はお爺ちゃんが珠乃に馬乗りにされ遊ばれていることだろう。
僕同様に孫である珠乃を溺愛しているので、きっとヘトヘトになるまで相手するはずだ。
それで腰を痛めてお婆ちゃんにマッサージをしてもらいながら幸せそうに眠る姿を何度か見ている。
…………ん?
傍に置いていたスマホが震えたので、一体誰からの連絡だろうと思い確認してみて「え?」となった。
新着メールが三件もあったあのである。
恐らく風呂に入っている間に二件きていたのだろう。
見ると三人の人物たちからのメール。
一人は桃ノ森さんで、内容は現在写真撮影の休憩中で、時間があったからメールをしたとのこと。今僕が何をしているのか聞いてきていた。
こんな時間まで仕事をしているとはさすがは売れっ子声優さんである。
彼女は幼い頃、どーくんと交わした約束を守り、夢を叶えてアイドル声優になった。本当に頑張り屋で感心させられる人物の一人だ。
僕が執筆作業中だと伝えると、すぐに返事が来て「ごめんねー、邪魔して。また連絡するから。おやすみー」と気遣いのメールが来た。
次に二人目――多華町先輩だ。
どうやらお馴染みになっている、ネット小説の投稿催促である。
まあそれはもう挨拶のようになっているので気にはしていない。本題は別にあり、明日の放課後に生徒会室へ来てほしいとのこと。
僕は断る理由もないので了承の返事を送っておく。
最後に繭原さんから来ていた。
彼女とはしょっちゅうラノベの話で、こうしたメールのやり取りを最近するようになった。
多分一度電話をしたあの日がきっかけではなかろうか。
それから街の清掃活動など一緒に行うことで、クラスの中では桃ノ森さんに匹敵するほど喋る間柄になっているかもしれない。
「また面白そうな新刊でも入ったのでしょうか」
そう思い文章を目で追う。
『突然のメールごめんなさいです! 実は少し相談したいことがありまして、良かったら連絡ください。あ、でも忙しいなら別にいいですから無理しないでくださいです!』
腰の低い繭原さんらしい言葉だ。電話の向こうで頭を下げながらメールを送っている姿がありありと思い浮かぶ。
僕はパソコンをジッと見つめ……そしてパタンと閉じた。
すぐに繭原さんに電話をかけたのである。
すると呼び出し音が鳴ったと思った瞬間に――。
「は、はははははいっ! みゃ、みゃゆひゃらでしゅっ!」
相変わらずの噛みっぷりである。むしろそっちの方が言いにくいような気もするが。
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