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その日はとても気持ちの良い晴れ空が広がり、まるで何かおめでたいことを祝福しているようだった。
少なくとも、僕と兄の悟道――どーくん、そして父親の真悟だけはそう思っていただろう。
「なあなあ、ろーくん。いつ生まれると思う? もうすぐって話だけど、早く生まれてきてほしいよな!」
現在車の中。後部座席でどーくんが満面の笑顔を浮かべてこっちを見ていた。
ちなみにどーくんには、小さい頃から〝ろーくん〟と呼ばれていたのである。
「そうですね。女の子ってことですけど、きっと可愛いと思います」
話の流れで分かると思うが、実は今、母親が妊娠しておりもうすぐ生まれるということで数日前から病院に入院しているのである。
より安全で万全を期した状態で生んでほしいというところで、何があっても大丈夫なように入院させたのだ。……父が。
そしてもうしかしたら今日、生まれるかもしれないと医者に言われていた。
「だよなだよな! あー、絶対嫁になんかやらねえし! なっ、父さんもそうだよな!」
「もちろんだ! いいか、もし愛する娘に男が近づいてきたら、お前らが身体を張って追い返せ。お前ら二人なら下手なSPよりも信用できる」
まだ生まれていないというのにもう親バカと兄バカが発動している。
でも僕も楽しみなのは事実だ。
どーくんみたいに目に見えてはしゃぐわけじゃないが、それでもさっきから読んでいる本の内容がさっぱり頭の中に入ってこないほど集中できていない。
そんな僕の一言で、現在ドライブしていた。
せっかくだから出産を頑張ったお母さんと、生まれてきてくれた妹に何かプレゼントしたいと口にしたのである。
その言葉に「「ナイスアイデアッ!」」と、父さんとどーくんは二人して了承してくれた。
そこでお母さんには、かねてから欲しがっていた炊飯器、妹には可愛らしい服を家から少し離れたデパートにまで買いに来ていたのだ。
買い物が終わり家に向かって車は走っている。
車内はこれからくる幸せいっぱいの空気で満たされていた。
そこへ一本の電話が、お父さんへと入る。
車を路肩に停止させたお父さんは自分のスマホを取り出し通話をした。
「――ほ、本当ですか! 分かりました! 今すぐ向かいます!」
驚きの声と一緒に、その顔は嬉しさで溢れていた。
「おい、お前ら! もうすぐ生まれるってよ!」
「おおっ! マジか! よし急げ父さん!」
「任せろ! FIレーサーも真っ青になるほどのテクで走ってやるよ!」
「いえ、安全運転でお願いします。事故したらどうするんですかもう」
浮かれ過ぎている二人に溜め息交じりで注意をしておく。
とはいっても僕だって心はウキウキだ。普段から無表情というステータスが定着している僕の顔に、しっかりとした笑みが浮き出るほどに。
そうして高速道路をちゃんと法定速度を守りながら走っていた。
今日は4月29日の『みどりの日』で祝日にもかかわらず結構空いている。
お父さんは急く気持ちのせいか飛ばしがちになるが、その都度、僕が諫めて安全運転を心がけていた。
すると背後から物凄い速度で駆け抜けていくトラックがある。
「おわっと! ったく、危ねえ奴だな。あれ絶対120キロくらい出てんだろ。いやもっとか?」
荷台には大きな丸太が何本も重なって積み込まれている。たまに見かける輸送トラックだろう。
僕もまた危ないなぁと思いながら何気なく、遠ざかろうとしていくトラックをぼんやり見ていた。
すると突然、目の前を走るトラックがユラユラと揺れ出したのである。
「……! おいおい」
お父さんがトラックの怪しい動きを見て表情を強張らせる。
横に座るどーくんも何事かといった様子で見つめていた。
直後、トラックが大きく横に揺れたことから、スリップしたように左側へ大きく進路を変え、その先にある壁に激突してしまったのだ。
同時に荷台に積んでいた丸太の拘束が解けたらしく、地面に雪崩れ込んでくる。
「嘘だろっ!?」
一瞬にして険しい顔つきから焦りを見せたお父さん。
当然すぐにブレーキを踏むも、80キロを出している車は急に停止することなどできない。
それに前からは巨大な丸太が何本も迫って来る。
それでもお父さんは転がってきた丸太を一本何とか回避した。
だがすぐに次の丸太が直前に迫って来ていたのだ。
「ぐっ、くそぉっ!」
慌ててハンドルを左に切ったことで、こっちの車もスリップしてしまいコントロールを失う。
トラックのように大きく揺れ、そのまま先程の事故を再現するかのように壁へと車が向かう。
「「「うわぁぁぁぁぁぁっ!?」」」
僕たち三人の声が車中に響き渡る。
――瞬間、僕の全身を強烈な衝撃が走り、意識が暗転した。
そして目を覚ました時、僕の視界には快晴に広がる空が映し出されていたのである。
それと同時に胸の辺りをグッ、グッ、グッとリズミカルに押される刺激があった。
まだ意識は朦朧としていて、瞼も開けにくい。
それに全身のあちこちが痛いし、額もズキズキとした痛みが伴っている。
「安心しろ! 兄ちゃんが守ってっ……やっからな!」
聞き慣れた声が耳朶を打つ。
ぼやけていた視界がどんどん定まっていき、その声の持ち主――どーくんが傍にいることが分かった。
先ほどから胸への刺激だが、どうやらどーくんが僕に対し心臓マッサージを行っていたらしい。
「っ……どー……くん……?」
「!? ろーくん! 目ぇ覚ましたんだな! ……良かった」
心の底からホッとしたような表情をすると、そのままどーくんが僕に倒れ込んできた。
「……どーくん!?」
僕は痛みを我慢して身体を起こすと同時に、自分が額から血を流していることに気づく。
さっきからのズキズキはこれのせいだったらしい。
周りを見回せば、いつの間にか道路に投げ出されたのか、地面に横たわっていた。
それに自分たちが乗っていた車が壁に突っ込んでおり、大破という言葉に相応しいほど見るも無残な形になっている。
いや、今はそんなことどうでもいい。
僕はどーくんを抱き起そうとする――が、そこで彼の状況を知ってギョッとする。
彼の腹部から流れた血液によって、服が血塗れになっていたのだ。
どうしてこんな大量出血をしているのか理解できなかった。
「どー……くん? ……どーくんっ!」
僕はすぐにどーくんを寝かせ、彼の名前を何度も呼ぶ。目を開けてほしい、と祈りつつ。
すると願いが叶ったのか、どーくんの瞼がそろりと開く。
「どーくん! 良かった! 大丈夫ですか! すぐに病院に運びますから!」
「…………ろーくん」
「? 何ですか? 何か言いたいことでもあるんですか?」
僕は口を動かすどーくんに顔を近づける。
「…………だいじょーぶ……だいじょーぶ……」
彼が言ったのは、これまた自分に馴染み深いセリフだった。
幼い頃から僕が落ち込んだりしていた時は、その言葉をいつもかけて笑ってくれていた。
どんなことも率先してやり、いつも笑顔を絶やさず、それでいて弟の僕のことを常に気にかけてくれている優しいお兄ちゃんだ。
とても頼りになり、僕が誰よりも憧れている人。
「ろーくんは……もうだいじょーぶ……だから」
「どーくんのおかげです! だから今度はどーくんが!」
しかしどーくんは微かに首を左右に振る。
「……っ、…………妹……を…………頼む……な」
「っ!? 何を……何を言ってるんですか! 気をしっかり持ってください!」
「………………なあ……ろーくん」
「ど、どーくん?」
「……俺は……笑顔が…………好きだ……」
それは知ってます。どーくんが、どんな人でも笑った顔が好きなことくらい。
だからいつも自分が笑顔を見せていることも。そうすることで、自然と周りもまた笑顔になれることも。
「だから……さ、家族……とか……周りの奴らが…………笑って……いてほしい…………」
「大丈夫です! どーくんならできます! 僕だってそんなどーくんを支えていきますから!」
「……へ、へへへ……嬉しい……な」
一点を見つめながら薄く笑みを浮かべるどーくん。
その瞳に灯った光が徐々に消えかけていることが不安を煽ってくる。
「でも……さ、それ以上に…………ろーくんに……笑って……ほしい」
「どーくん……っ」
「ごめん……な」
何で……何で謝るんですか! 止めてください!
こんなんじゃ、まるでこれで最後みたいじゃないですか!
「…………もっと……いろんなことを…………してみてえ……な」
できますよ。どーくんなら何にでもなれます。なれないものなんてありません!
「ろーくんと……一緒に…………それに……!」
その時、どーくんの瞳が若干見開いた。何かを思い出したかのように。
「……ああ、そう……だった。……アイツにも…………悪いことしちまった……なぁ」
アイツというのが一体誰のことなのか、今の僕には見当もつかなかった。
「アイツ……きっと頑張って……んだろうな…………また会い……てえ」
会えますよ。誰だか分かりませんが、どーくんが望むならそんなこと簡単です。
それから喋らなくなったどーくんに、今度は僕が心臓マッサージをし続けた。
何度も。何度も。
愛する兄の名を呼びながら何度も。
しかし――もう二度と兄が僕の名を呼んでくれることはなかった。
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